「ところでねぇ」
何故か女は立ち去らず、ラウル達の間にさも始めからこの一行にいたかのように立っている。
グイドが鋭い目でジロリと睨んだが、気にする様子はない。
「この先、助け手が必要だよねぇ? 違うかい?」
微笑みは柔らかく、圧がある。
「え――いや、まあ、それはそうですが」
この蛇怪一つ取っても、ラウル達には命懸けの戦いになった。
きりふり山が危険な場所だと理解していたつもりだったが、これほど恐ろしい魔物がいるとは思っていはいなかった。
霧も抜けていない中腹でこれだ。山頂を目指して登っていけば、この先にどんな恐ろしい魔物が待ち構えていることか、想像もつかない。
「おい、ラウル。こんな怪しい奴の話を聞くのか」
レイノルドが声を尖らせる。
「いきなり現れて、怪しすぎるだろう」
いきなり現れたのは君もだけどね、と、ラウルは思ったが口に出すのはやめておいた。
「私も一緒に行きたいんだけどねぇ」
「却下だな」
グイドがにべもなく言い切る。
「えー、この人強そうだし、綺麗だし、あたしは嬉しいけど」
リズリーアの言葉に女はたおやかな身体を揺らし、両手を合わせた。
「嬉しい言葉だ、可愛いお嬢さん。何、あの蛇怪程度、幾らでも喰らってあげるよ。腹ごなしにもならないけどねぇ」
あれ、これはどこまで比喩だろうな? と、ラウルは思ったが口に出すのはやめておいた。
「ラウル」
グイドは女をまるきり無視してラウルへと向き直った。
「改めて言っておくことがある。矢が無いのは問題だ」
「――はい」
蛇怪を追うことまでは、グイドも賛成してくれた。
けれどこの先を考えれば、状況は更に困難さを増すのは確実だ。
グイドは蛇怪を追っている時に、蛇怪が霧の中から出ないように動いていると指摘した。
上へ――山頂の方へは向かわず。
だから霧から出た、もっと高い場所には、蛇怪すら恐れる何かがいるのだろうと。
(それが、オルビーィスの親なら)
それならばいいが。
(いや――いいか?)
オルビーィスの親だとしても、ラウル達を暖かく迎えてくれるとは限らない。
(でも、それは最初からだし)
けれど、ヴィルリーアが蛇怪に攫われて、その脅威を身をもって知った。
ラウルの考えは甘かった。
現実、実情を目の当たりにした中で――、最も頼るグイドの矢がない。
「矢が無ければお前達の護衛はできない。急所を狙って仕留められるならともかく、今回のアレじゃ自信をなくすぜ」
グイドは頬の傷を歪め、肩をすくめた。
「残る有効な手段は毒くらいだが、混戦になると使いたくねぇし、そもそも矢が無いとな。さすがにこの状況では、引き返すべきと思うが」
グイドもそう言って、ラウルと、そして他の顔ぶれに投げかけるように視線を向けた。
「――グイド殿の言うとおりですね」
セレスティの言葉を、女の笑み含みの声が遮った。
「おや、これはお前の矢だろう?」
「――えっ」
まさか、矢を拾ってくれたとか――
と、ちょっと抜けたことを考えたラウルは、女の様子に目を瞬かせた。
女は片手を伸ばして手のひらを下に向け、そこにある見えないものをなぞるように、左から右へと水平に動かした。
ばらり、と。
数本の矢が地面へ落ちた。
場が静まる。
ラウルはぽかんと口を開けた。
「――え。矢?」
落ちた矢は七本。
何もない空間から溢れたようにしか見えなかった。
「うそ。何で何で? 空間転位??」
「そ、創造、えと、物質創造とか……」
「そんなことできるのか。法術士か?」
「グイド殿、これは」
グイドは黙って片膝をつき矢を一本一本調べていたが、そう長い間では無く、一本を手に取ると女へと突き出した。
「いいや。俺の矢じゃない」
微笑みが返る。
「お前のだよ」
「確かに見た目は俺の矢と瓜二つだが、そもそもあんな風に空中から落ちてくるはずがない。怪し過ぎだ」
女はどこ吹く風で、さらりと笑った。
「お前が一番に手に取った。もうお前のものだ」
グイドが一歩、足を退く。
「クソヤバいこと言うな。恐ぇ」
笑ってやがるのも恐ぇ、と続ける。
「いらん」
女は美しい瞳で、じいっとグイドを見つめた。
「壊れず、曲がらず、矢尻も欠けない」
「そんな矢普通にねぇだろ。ますます俺のと違うな」
この話は終わりだと、グイドは背を向け女の前を離れかけた。
「ラウル。とにかく今回、これ以上は進めないと、判断すべき――」
「戻ってくる」
「あ?」
視線だけが女へ戻る。
険の強いその目にも、女は握手でも求められたかのようににこやかだ。
「戻ってくるよ、その矢は」
と言った。
「――」
射れば矢は当然、失われていく。
かといって百本もの矢を担いで歩くわけにもいかない。
それが狩人にとって、一番の悩みどころだっただろう。
現時点でも。
「――」
グイドは地面に放置したままの矢へ、視線を落とした。
「必ずお前の元に、お前が欲する限り戻る」
「――」
くるりと向きを変え、グイドは矢の前に片膝を落とすと、七本まとめて丁寧に揃え立ち上がった。
「無駄にしちゃ悪い、有難く頂こう」
「えぇ」
ラウルは思わず間の抜けた声を洩らした。
「さて、共に行くと決まったことだし、互いに信頼関係を作るためにも名乗らなくてはねぇ」
「どうあっても胡散臭いがな」
とグイドは変わらずにべもない。
女の言葉通り、共に行くことになった。その理由としてはグイドに矢が――すこぶる怪しいが――戻ったことと、それから女が手にしている大剣が、ラウルが触れても何も言わず、ヴァースも『いいんじゃねーの』と言っただけだったこと。
(いいのかなぁ)
と思いはしたが、先ほど蛇怪をやすやすと断ってみせたことからも、強力な助っ人には違いない。
何よりオルビーィスが。
ラウルはオルビーィスを見た。もうラウルの肩に戻っている。可愛い。
ではなく、オルビーィスは不思議そうに何度も女を見るのだが、警戒する様子はみせなかった。
「私は、ゲネロースウルムという」
聞きなれない響きの名に、レイノルドが眉を寄せそうになるのを堪えた、のをラウルはしっかり見た。
「失礼ながら――どちらのご出身か」
「この辺りではあるよ」
「この辺りというと」
女は鈴を振るように笑った。
「初対面の女をそう詮索するものじゃない。お前さん達の作法にはないだろう? ついでに年齢も聞かないどくれ」
(怪しいー)
ラウルの目は思わず細くなったが、オルビーィスの顔が頬に触れ、そのまま笑みの形に変わった。
無邪気に顔を擦り付けてくる。グイドの煙の匂いが消えたからだろうか。満足そうだ。
(可愛いー)
「可愛いねぇ」
気づけば女が目の前にいた。首を伸ばし、オルビーィスを覗き込んでいる。ふわりと芳しい香りがラウルの鼻先を漂った。
「いい子だ。さすがは」
「おい」
レイノルドがラウルをぐいと押し退ける。ラウルはとととっと四、五歩、よろめいて退がった。
「余り俺たちに近づくな。まだ完全に貴女を信頼した訳では無いのだからな」
押し退けるなら近寄ってきた相手を押し除けて欲しいな。
まあ、相手は女性だしな。
うん。
でも力加減はもう少しして欲しいな。
「すまないね。気をつけるよ」
微笑んで頷き、女――ゲネロースウルムは右手を軽く持ち上げた。
優美な指先で差したのは霧の先――上方だ。山頂の方向。
「さて、では行こうじゃないか。あと半日も登れば、山頂に着く。距離だけの話だがね」
「いいや。そろそろ日が暮れる。まずはここで休息がてら、野営する」
「そうかい?」
グイドはちらりと女を見て、それからリズリーアとヴィルリーアに視線を向けた。
「霧から出た先の状況が分からない。休める場所があるかどうかもな。ここで一晩明かして、明日、山頂まで登りきる」
「さんせーい!」
リズリーアが明るく答え、ヴィルリーアをぎゅっと抱きしめた。
「しっかり食べてしっかり寝て、回復しなくちゃね、ヴィリ。あっ、まだ言ってなかったけどさっきの風切り、すごく良かったっ」
「ほ、ほ、ほんと……? 僕、ちゃんと法術、使えてた……?」
「カッコよかったよ、さすがヴィリ!」
格好良かった、という言葉に、ヴィルリーアは嬉しそうな表情を面に広げた。
でも、とリズリーアが額を合わせる。
「あたしを守ろうとして、自分が犠牲になるとか、絶対にダメだから」
「え、ええと、でも、リズちゃんも……」
「ダメだからっ」
リズリーアはちょっと思い直したのか、額をつけたままヴィルリーアの瞳を覗き込んだ。
「あたしも、気をつけるから」
「うん」
「死んじゃうかと思ったんだから」
「――うん。ごめんねリズちゃん」
リズリーアの真っ直ぐな黒髪が、そろえた耳の辺りで横に揺れる。
手を伸ばし、ヴィルリーアの柔らかな同じ色の髪を撫ぜた。
「助けてくれて、ありがとう、ヴィリ」
ラウルは二人の姿を見て、改めて――肺の息を出し切るように、大きく息を吐いた。
二人が無事で、本当に良かった。
(明日で――)
明日で、役割を果たせるように、しっかりと心に誓う。
安堵と激しい戦いの疲労から、その日の野営では、自分の番が回ってきたときにゆすられてもなかなか起きれなくて苦労した。
何とか眠い目を見開き、夜番の二番目を請け負ったラウルは、傍らに丸まって眠るオルビーィスの首の付け根辺りを、何度もそっと撫でた。
(可愛いなぁ。お別れは淋しいなぁ)
昼は懸命にヴィルリーアやラウルを助けてくれた。それが嬉しく、何よりオルビーィスに怪我一つなかったことにほっとした。
(竜の息も吐けるなんて、本当にオルビーィスはすごい)
とても誇らしい。
へへへ、とやや不気味な笑いを洩らす。
(将来大物になるよね、絶対)
枯れ枝を踏む足音に顔を上げる。
女――ゲネロースウルムが、樹々の間へ入っていこうとしているところだった。
「え、えっちょっと、どこに」
腰を浮かせたラウルを制するように、女は手のひらをラウルへ向けた。
「魔獣が一匹、近くに来ている」
「えっ」
グイド達を起こさなくては――
「喰ってくる」
「えっ」
女は美しい面にたおやかな笑みを浮かべた。
「腹ごしらえと、まあお前さんたちの警護代わりさ」
さらりと。
「はい――はい?」
首が直角くらいに曲がった。
え?
この人もう、人外を隠す気が全くないのでは?
「すぐ戻るよ。気にしなくていい」
ええ――
呆気にとられている間に、女は霧の闇の中に踏み込んでいった。
銀糸の靴で枯葉を踏み、女はしばらく歩くと、足を止めた。一本の大木の前だ。
樹上を見上げる。
唇が笑みの形に吊り上がった。
「喰いに来た」
挨拶のようなその言葉は、ほとんど宣言に近い。
木の枝ががさりと揺れた。
見れば高い枝の上に、黒々とした大きな影があった。
剛毛に身を包んだ、一間(約3m)はある、巨大な猿だ。
赤く濁った三つ目と、剥きだされた牙。牙は上下に四本が虎に似た鋭さを持ち、前歯もまた鋸に似て鋭い。長い腕は筋肉で満ち、爪もまた、刃物の如き鋭さ。
赤い目を燃やし、巨猿は女の正面に飛び降りた。
咆哮を上げ女へ飛び掛かる。
「腹が膨れるほどじゃぁないねぇ」
女は飛び掛かる巨猿へ、細い腕を伸べた。
再び、上を見上げる。
今度は樹上ではなく、さらに先。
霧の向こうの――
山頂を。
唇に微笑みを浮かべる。
「スティーリア」
すぐにその面を戻すと、切り落とした頭を掴み、元来た樹々の間を野営地へと引き返した。
「ただいま」
声とともにラウルの少し先に黒い塊りが落ちる。
薪の明かりに照らされたそれを見て、ラウルは思わず魂切(たまぎ)る悲鳴をあげそうになり、咄嗟に口を両手でふさいだ。
「ちょっ、なっ、なっ、何ですか――っ」
頭。
猿の頭だ。
昨日の朝、同じような光景を見たような気がしたが、この首はラウルの頭よりも大きかった。おそらくラウルの倍近い体長があるだろう。
三つ目をかっと見開き、剥きだした牙は長く鋭い。
「こっ、これっ、これ何!?」
「いや、私が仕事をした証拠にねぇ。信用してもらうには必要だろ?」
不要!
不要!!
不要です――――――!!!
ラウルが口をぱくぱくとさせている間にも、女は傍らに座り、にこりと微笑んだ。
手が優し気にオルビーィスの首と背を撫でる。
その様子があまりに穏やかで、ラウルは何を言えばいいかわからないまま、口を何度も開け閉めしつつ、グイドとの交代時間を迎えた。
翌朝。
目を覚ましてアレを見たリズリーアとヴィルリーアの悲鳴が、野営地から霧の中に響き渡った。
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