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第4章 きりふり山の冒険

10 ゆらぎ

 

 長い尾を懸命に動かし、蛇怪は地を這い進んだ。
 尾は先から三分の一ほどを断たれ、腕を五本失い、喉や胸、あちこちに受けた矢傷からも血が流れている。そして最後の風の刃が、全身に無数の傷を刻んでいた。
 ――逃げなくては
 ――遠くへ
 ――あの岩場には今は戻れない
 ――どこかに潜んで傷を癒やし
 ――いや、その前に、何でもいい、餌を捉えてその血肉を啜るのだ
 ――回復を
 這い進み、周囲に獲物がいないか意識を巡らせ、視線を巡らせる。
 その目が一点に止まった。
 霧の奥に――血と肉の熱を感じたのだ。
 土を踏む足音。
 ――人
 渇望が膨らんだ。
 血を。
 痛む躯を堪え、片方残った眼にぎらつく光を宿して静かに、静かに這い寄る。獲物はただ一人、霧の立ち込める森を歩いている。仲間からはぐれ道に迷ったのか。
 霧が、薄くなり始めた。
 風が吹いている。
 やがて蛇怪は、霧の中に一つの姿を捉えた。
 やはり人だ。
 人間の、女――
 美味そうな。
 吊り上がりかけた口の端が、どうした訳か、そのまま凍るように歪んで固まった。
 蛇怪の耳を、澄んだ声が捉える。
「おや――おや、おや」
 鈴を振る音に似て、柔らかく。
 刃のような。
 先端を細くかたどった瀟洒な銀糸の靴が、土に落ちた枯葉を踏んだ。
「このようなところに、血塗れで――」
 長い銀髪をゆるく結い上げた、美しい女だ。ラウルの鍛冶小屋に現れた。
 ただそれは、つい二刻ほど前のことのはずだった。
 この山中に、この短時間で、どのような技であれば辿り着くのか。
 結い上げた絹糸の如き銀髪は、光の加減によって艶やかな青を帯びて見える。
 同じく銀の瞳が、地に伏せた蛇怪を捉えて微笑む。
「喰ってくれと言わんばかりじゃないか」
 蛇怪は怯えきり、裂けた躯で後退ろうとした。
 だが痛みや出血のせいだけではなく、深い恐怖に身が強張り、いくらも退がれない。
「安心おし。お前を喰らおうという訳じゃない。そう――」
 女は長い薄布の裾を引き、怯える蛇怪の前にしゃがんだ。
「ちょっとばかり面白いものをね、借りてきたんだよ」
 柔らかく微笑む。
 その手に握られているのは、たおやかなこの女とは全くかけ離れた印象の、女の身長を優に超える巨大で、幅広で、分厚い剣だった。
 それはラウルが打った大剣、シュディアールだ。
「私はねぇ、この山のケダモノどもを、ここらで一旦煤払いしておこうかと思ってねぇ」
 憂いを帯びて首を傾げる。
 流れる声は幼な子に話しかける響き。
「何故って? まあお前には直接関係はないんだがね。いや、無いことはないか――」
 銀色の瞳が細く、細くなる。
「ともあれ私も・・、腹に据えかねているからねぇ」
 女は立ち上がり、片手で剣を頭上へと持ち上げる。
 セレスティでさえ持ち上げることの叶わなかった、鉄塊の如き剣。
 女はその鉄の塊を、蹲り怯える蛇怪へ、鞭でも打つかのように軽々と振り下ろした。




 矢が無い。
 それでも追おうと、ラウル達はそう決めた。
 グイドの矢がもう無いことは衝撃的だったが、ヴィルリーアがまだ法術を使えることと、リズリーアの治癒のお陰でセレスティとレイノルドの負傷がほとんど癒えていることと。
 何よりヴィルリーアが行くことを強く主張したのだ。
「もしリズちゃんが攫われたら――僕はその感情に、耐えられません」
 今追わなかったら、他の人が同じ想いをするかもしれないから、と、もう一度、凛として繰り返した。
(ヴィルリーアは怖がりだし、引っ込み思案だけど、でも自分以外の人ために強いんだな)
 自分が兄になったように誇らしい。
 弟のエーリックとまだ十歳のアデラードを想い出す。
 何も言わないで出てきたから心配はさせていないと思うが、そろそろラウルの小屋を訪ねてくる頃合いだ。
 ついさっき死ぬかと思った時は、家族の顔が走馬灯のように浮かんだ。
(必ず帰らなくちゃ。この子達も無事に。それからグイドさんも、セレスティも、レイも)
 オルビーィスを――この小さく勇敢な竜を、親元に返して。
 肩に乗ったオルビーィスへ向けかけた視線を戻す。
 ラウルは再び樹々に尋ねながら慎重に進んだ。
 とは言え尋ねるまでもなく、蛇体が這った血の跡を地面に見ることができる。
(弱ってる。今度は倒せる)




 霧が、そこだけ避けるように薄くなっていた。
 蛇怪の痕跡を追っていたラウル達は、視線の先に気付いて足を止めた。
「いた――」
 蹲る蛇の黒黒とした影。
 手にした剣を構え、ラウルは慎重に一歩、踏み出した。
「待て」
 グイドが制止する。
 同時に気がついた。
 蹲る蛇怪の前に誰か立っている。霧が身を取り巻いている。
 女だ。
 蛇怪の仲間かと思わず身を固くしたラウル達の目の前で、女は右手に掴んだ大剣を軽々と持ち上げ、振り下ろした。余りに自然で、何事もない仕草で。
 蛇怪が蹲ったまま、脳天から縦に断たれる。
 跳ねた尾がすぐに力を失い、蛇怪の身体は真っ二つに分かれ、血を撒き散らしながら地面に崩れた。
「な――」
 今、何が起きたのか。
 目にしたことが咄嗟には理解し難く、呆然としたままその動作を見つめていたラウルは、女の手にしている大剣に気付いて目を見開いた。
(え――)
 鉄の塊のようなそれ。
(あんなものを、持ち上げ――)
 ラウルは更に目を剥いた。
「えっ、あれ」
「シュディアール!」
 セレスティの反応が早かった。
 剣を鞘に納めたかと思うと女へと駆け寄る。
 女はいきなり駆け寄ってきたセレスティにも少し離れたところにいるラウル達にも、驚いた様子がない。
「失礼ながら――貴殿がお持ちのその剣は、ラウル殿が打った、シュディアールではありませんか」
 ずいと踏み込んだセレスティへ女が首を傾げる。
「剣に名前があるのかい? 知らなかったねぇ。ただ彼が打ったという剣には違いない。ちょいと使わせてもらってるよ」
 そう言いながらラウルへと微笑む。
「勝手に持ち出して、怒ってるかい?」
「い、いえ――」
 怒るも何も。
 いや、怒るという段階ではなく。
 いやいや、何でシュディアールを打った『ラウル』が自分だとわかったのか。
(……あ、怪しすぎる……)
 怪しさ満載だ。
 こんな山の中に、宮廷にでもいるような場違い感ありありの衣装を纏い、片手で軽々と、セレスティさえ持ち上げられなかったシュディアールを操る。
 絶対人間じゃない。
 と、見交わしたラウル達六人の目は、互いに同じ心の声があるのを確認した。
(怪しいー)
「いえ――ええと」
 ラウルは一つ、咳払いして女を改めて観察した。
 銀髪、銀の瞳が美しい。よく見れば瞳に青い虹彩が踊っている。
 上品でたおやかな女性だ。
 見れば見るほど――怪しい。
「ラウル、知り合いなの?」
「ううん」
 リズリーアの問いに首を振る。
「ああ、違うよ。会ったことはないよねぇ」
 女は平然と言ってのける。
(怪しいー)
(怪しいー)
(怪しいー)
 心の大合唱が止まらない。
「まあそう、紹介されたのさ」
「ボ、ボードガード親方から?」
「おい、そこは名前を出さず誰からと聞き返せよ」
 グイドに突っ込まれる。
「あっ」
 迂闊だった。
「そう、そのボートカァトさ」
 女は柔らかく微笑んだ。
 女の微笑みには蛇怪のような悍ましさは欠片も無く、はんなりと美しく――
 だが、恐い。
 どこがどうとは上手く言えないが。
 ともかく、女が適当過ぎてグイドも突っ込む気を失ったようだ。
「オルー、待って、危ないよ」
 リズリーアがラウルの横から手を伸ばす。
 何事かと振り返れば、オルビーィスはふわふわと女に近寄るところだった。
「オル……」
 オルビーィスは女の肩に、ストンと降りた。
(えっ)
 これには、心底驚いた。
 ラウル以外誰の肩にも――いや、食事を用意するセレスティは別だが――降りないオルビーィスが。
 オルビーィスは女の顔を不思議そうに覗き込み、女は瞳を細めて微笑み返した。
「可愛らしいねぇ」
 すぐに女の肩から離れ、オルビーィスはラウルの肩に降りた。
 ラウルに甘えるように首を擦りつける。
「ええと」
 何だろう。
 オルビーィスが竜だと、そんな説明をわざわざこの女にする必要はないと思うし女を警戒すべきだが、別の意味で『必要ない』と、そんなふうに思える。
 何故だか――これも上手く言えないが。
「あ、あの、色々後回しになってましたが」
 ラウルはまとまり切らない状況をまとめようと、女へと改めて向かい合った。
「その、蛇怪――を、倒し?て、いただき、ありがとうございます」










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2023.7.2
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