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第4章 きりふり山の冒険

1 さわやかな森の不穏な一行

 


 しゃらん、と鈴の音が朝の森の中に流れ、まだ葉先に残っていた朝露の雫が揺れて落ちる。
 何だかんだリズリーアが、『隊列』の一番前を歩いていた。
 右手に持つ杖は山桜の枝を削りささくれ一つなく艶やかに磨いたもので、ほんのり赤みがかった木肌、長さは五尺四寸(約162cm)と本人の身長より拳一つ分ほど高い。その先端は細い枝を編むように輪っかを作り、中心に金色の鈴が三つ揺れている。
 涼しげな音を立てる杖を視線に追いかけ、ラウルは歩を早めて少し先を歩くリズリーアと肩を並べた。
 初めはラウルが先頭を歩いていたのだが、リズリーアが追い越してしまうのだ。
 しゃらんしゃらんと鳴る鈴にオルビーィスが興味津々で、ラウルの肩から首を伸ばしては揺れる鈴を咥えようとしている。
 ラウルはオルビーィスの鼻先を指で押さえつつ尋ねた。
「リズ、その杖、法術士はみんな持ってるの?」
「ううん」
 と屈託ない声が答える。
「持つ人と持たない人と、それぞれだよ。あたしとヴィリのは母様が作ってくれたんだよ。特製なの」
「へえー。鈴も色違いなんだね」
「間違えないようにね。それぞれあたし達の特性に合わせてくれてるんだ」
 ラウルは歩きながら後ろを振り返った。
 二人の後ろをヴィルリーアがせっせと歩いていて、その後ろをグレスコー、そしてセレスティが殿しんがりで続いている。
 森の中の道は木の根が張った盛り上がりを避け曲がりくねって細く、二人並ぶと片足が土と草の境のちょっと斜めになった道の端を踏みながら行くことになる。
 ラウルの視線を受け、ヴィルリーアも頷いた。
これは、まだ僕たちが半人前だからで……、ほ、法術の補助をしてくれるんです……」
「い・ち・に・ん・ま・え!」
 リズリーアは言い返し、「こういうのもね、母様はさっと作っちゃえるんだから」
 と得意げに胸を張った。
「だからその母上をだなぁ」
 グレスコーをきっと振り返る。顎までで揃えた黒髪が跳ねる。
「おじさんしつこい!」
「はいはい」逃げるように肩を引く。「しかし十代から言われる『おじさん』に『しつこい』は地味に刺さるねぇ」
「そんな感慨深げに」
 セレスティが苦笑する。
「父様より歳上だし!」
「うお……」
 グレスコーが胸を押さえて黙り込み、セレスティがさすがに「リズ」と嗜める。
「ごめんなさいごめんなさい……っ」
 代わりにヴィルリーアが振り返り、白い頭巾の頭を何度も下げている。
 肩をすくめて舌先を出したリズリーアを、ラウルも一言注意することにした。
「リズ。この森の中で一番重要なのは何」
「――経験……」
「一番経験があるのは?……」
「おじ――グレスコーさん」
 やや反省気味に言ったが早いか、リズリーアは法衣を翻してくるんと向き直った。
 六枚の布を合わせた法衣がふわりと広がって花弁を思わせる。
「グレスコーさんって呼びにくいから、ほかの呼び方でいい? グレさんとか、グっさんとか、グーさんとか」
「やめてくれ」
 グレスコーは心底嫌そうに眉根を寄せている。
「じゃあグーちゃん」
「グイドでいい。さんも要らん」
「えー、つまんないー」
「リズちゃんってば」
 ヴィルリーアがせいいっぱいお腹に力を込めて声を出し、リズリーアはそれでいったん口を継ぐんだ。
「――それでさ!」
 ひとときも黙っていない。
 くるくると表情が変わり、猫のようだ。
 森の中は樹々の間から陽光が差して明るく、これから危険なきりふり山に登ろうとしている雰囲気は全くない。
「きりふり山ってどんな感じのところ? 父様は“ベルス・ミスティール”って呼んだりするよ。霧まとう偉大な山みたいな意味。きりふりミストラ山脈の最北端だよね、標高――」
 ヴィルリーアを見る。
 ヴィルリーアはすらすら答えた。
「千三百七十三間(約4,120m)だよ」
「えっ」
 ラウルは一瞬足が止まった。
「一里(約3,000m)では?」
「ええと、そんなに低くないです」
 一里も十分高いのだが。
 果てしないのだが。
『ヴィリが正しいなー。あいつはおれ様が形成されるよりもずっと前からあの形だったぞー』
 むむむ。
 千三百間。
 千三百間とは。
「ラウル」
 リズリーアがくい、と袖を引っ張る。
 不安にさせたかと、ラウルは手を振った。
「えーと、うん。俺もきりふり山には登ったことがなくてね……師匠が使ってた坑道が麓近くにあるからそこまでは行くけど、だいたいそこが麓から十七間(約50m?)上がったくらいだから。その辺りだと霧もまだ無いし、ほとんどここらと変わらないしなぁ」
「じゃあ完全に未知の世界だね」
 弾むように言う。
「どんな場所で、どんな生き物がいるのかなぁ。法術、通用するかなぁ」
 不安になったのかと思えば、リズリーアには楽しみが勝るようだ。
「古い記録だと、狼と、蜥蜴とか。それから、猿も群生してるっていうし。猿は意外と厄介だよね。引っ掻かれたりとか。猿といえば、猿の魔獣……? みたいなの。大型で、人喰いだって。結構狡猾で、一人を攫って囮にしたりするみたい」
「こわいよう……」
 反対にヴィルリーアは両手でしっかり杖を握り、法衣の中で身を縮めている。
(うわぁ、こわい……)
 ラウルもちょっと首をすくめた。
 遭遇したらラウルなどすぐに死にそうだ。
「グレ――、グイドさんはきりふり山に登ったことはありますか?」
「標高、だいたい三百間くらいまではな」
 さん付けしなくていいぞ、と返しつつ、グイドは灰色の目を細めた。一番後ろを歩く足取りには音がない。
「そもそもきりふり山にゃほとんど用がねぇ。飛竜の巣が無いからアーセン――ボードガード竜舎では登らない場所だしな。三百三十間(約1,000m)過ぎたあたりから魔獣の生息圏になって、六百七十間(約2,000m)辺りを超えると一切居なくなるって聞くが」
「魔獣も、ぬしがいるから大型が却って近寄らないんだって」
 しゃらん、とリズリーアが杖の鈴を鳴らす。
 大型の魔獣とやらが居ないのはいいことだ。
 が。
「この装備で足りますかね……」
 不安になってラウルは自分のいでたちを見下ろした。
 食料はそれぞれ三日分。と、ラウルはオルビーィスの分も持っている。
 背中全体で背負う背嚢は中で上下に分かれていて、下段が水袋、上段に荷物を詰めた。
 中身は防寒具。
 食料。
 火口箱。
 毛布。
 寝床の屋根に使う用の防水布。これがそこそこ重い。
 松明一本を背嚢に乗せ、角灯と油を背嚢の右脇に括っている。
 縄を三間(約9m)分、腰に括り、背嚢の左脇の小物入れに岩等に縄を固定するための金具。
 これを一人分として自分の分を背負っているのだが、それなりの重量があってリズリーアやヴィルリーアの分は防水布など嵩張るものの一部をラウル達三人で分けた。
 加えて、ラウルは念のためのみと金槌、砥石も持ってきた。
 あとはあるもので代用するか、その場で代わりになるものを調達するしかない。
 水は可能な限り、きりふり山から流れるきりよせ川で調達する。今水袋に入っているものを先に使い、川で補充して新鮮さを保つ。
 それから、武器武具の装備。
 セレスティが両手剣ノウムと短剣一振り。鉄の兜に胴、手甲。それ以外は革鎧。
 グイドが短弓に短刀、武具は革鎧と森に溶け込みそうな色合いの短い外套。矢は上下に蓋のある矢筒に二十本あるが、基本回収しながら使うのだという。
 双子はそれぞれ杖に、黒と白の膝丈の法衣。色違いの鈴の杖。
「いざとなったら杖で殴るよー」とリズリーアは元気がいい。
 ラウルはもともと鎧など持っていなかったので、なるべく厚手の生地の外套を選んで着てきた。
 武器はヴァース、それから、フルゴルと。
 ヴァースを腰の剣帯に差しフルゴルを背嚢に革帯で留めている。重いがフルゴルは役に立ってくれるし、その位置ならセレスティもすぐに引き抜ける。
 これらは小屋を出るときは重装備に過ぎるように思えたが、きりふり山のことを詳しく聞くにつれ、足りないのではという気持ちになった。
「もっとしっかりグイドさんに話を聞いて、いろいろ持って来ればよかったですかね」
 グイドが目を細める。そうすると頬に残る傷が目立った。
「敢えて教えなかったんだよ」
「え」
「今ので充分だ。あれもこれもなんて考えてたら、ラウル、お前なんて背嚢一つに収めきれなくていつまで経ったって出発できねえだろ」
「うう」
 その通りだ。よく分かっていらっしゃる。
「まあしばらくは危険な獣や魔獣は出ない。森を抜けるまで気楽に行こうぜ」
「はい」
 頷き、背嚢の肩帯の位置を直す。
「ラウル」
 グイドはラウルの横に並んだ。
 リズリーアをさりげなく先に行かせ、声を落とした。
「お前さん昨日の話、まだ言ってないことがあるだろう」
「え」
そこ・・が肝なんだと思うんだがな」
 決闘に遅れたことそのものではなく、と。
「まあ、言えるんなら言えばいい」
「――はい」
 頭を下げたラウルの背を軽く叩き、グイドは一度、木立が続く周囲を見回した。



 太陽は次第に高く上がり、樹々の間から差し込む陽射しが増えると、冷えていた空気も少しずつ温まり始めた。
 森の中は何の問題もなく、一行はただの散策と変わらない空気の中を進んだ。
 誰かこの森で行き合わせたとしたら、一行の組み合わせと物々しい装備を何事かと思っただろう。
 拍子抜けする思いもあったが、今までの自分の生活を考えてみれば当然だ。
「この辺りでぽんぽんと何か出てたら、そもそも俺が暮らしていけないし」
 もうとっくに喰われている。
 腕を組んで頷くと、『それでもご主人はこれまで運が良かったと思うぞー』とヴァースが遠慮なく声を上げる。
『あんなへっぽこで良く今まで森で無事に暮らしてきたよなー』
「ぴい!」
 何やらオルビーィスが抗議の声を上げる。
『そんなことないって? いやいやオルー』
「ぴいぴい!」
『おれ様はご主人のへっぽこぶりをがっつり見たしー』
「ぴいぴいぴい」
『お前もあの夜の、戦いっぷり見ただろー? 戦いっぷりっていうか戦えてなかったっぷりっていうかさー』
「ぴ! ぴぴー!」
『うんうん、わかったわかった、良く分かったってー』
 オルビーィスは胸を反らせ、ラウルの首に長い尾をくるんと巻き付けた。
「ぴぃ!」
『オルーがご主人を守るってさー』
 くわあ、と顎を開く。まだ小さな牙がそれでも鋭く存在感を放っている。
『とっておきがあるから任せろってさー』
 なんだかじわっと涙が出てきた。
「ありがとうね、オルビーィス。でも俺は自分の身は自分で守るから、オルビーィスはまず自分の命を大切にするんだよ」
 青い瞳をぱちり、と瞬かせ、首を伸ばして頬をラウルの頬へ擦り付ける。ひんやりとした鱗が心地よい。
「えへへ……」
「お前それ、手放せるのか?」
 グイドに言われ、何度も同じことを考えていたラウルはうっと口篭った。
「まあ帰すしかねえけどな」
 歩きながらグイドは、時折視線を樹々の間へと動かしている。
「何かいますか」
 気付いたセレスティがグイドと同じように辺りを見回した。
「――いや。この辺りは至って平穏なもんだ」
 双子が顔を見合わせたのをみれば、ラウルだけではなく二人――特にリズリーアもほっとした様子だ。明るく話していて分かりにくかったが、やはり不安はあったのだろう。
(このまま、山頂まで行ければいいんだけど)
 ただ――
 目指しているのは、あのきりふり山の山頂なのだ。
 普段は立ち入る者もなく、深く霧が立ち込め、危険な獣、魔獣が棲む。
 そして、遥か千三百間もの高みに悠然と存在する、きりふり山のぬし――
 そこに踏み込んで、無事で済むはずがなかった。



 二刻ほども歩いただろうか。
 ラウル達は目指すきりふり山の麓に着いた。
 麓と言ってもラウルが鉱石を掘る坑道よりも高いところの、形ばかり『登山口』と呼ばれている場所だ。
「高ぁい」
 リズリーアが首を逸らし、更に背中を反らして樹々の合間から覗くきりふり山の姿を見上げる。
「全然近づいた感じしないし」
「すごいねぇ。首が痛くなるねぇ、リズちゃん」
「見上げてるとひっくり返りそうだよねー」
 標高およそ千三百四十間(約4,000m)。その山頂に辿り着いた者の話を、ラウルは身近で聞いたことがない。祖父でさえ登ったことがあるとは言っていなかった。
 麓は森が覆い、その上 七百間(約2,100m)までは森から上がる霧が常に山体を取り巻いている。
 まだこの辺りは霧もないが、心なしか、森の中を緩く登っていく登山道は今いる場所でさえ薄暗く思えた。
「ここから先は斜面がきつくなる。足元も霧で濡れてて滑るぞ。気をつけろ」
 グレスコーが言い、
「私が先に」
 とセレスティがまず細い登山道へ踏み込んだ。
「次あたし!」
 と進みかけたリズリーアの外套をグイドが掴む。
「まてまて」
「俺が先に行くよ」
 ラウルがセレスティに続く。リズリーアは不満そうだがグイドは頷いた。
「隊列はセレスティ、ラウル、双子、それから俺だ」





 一行がいよいよ登山道に踏み込んだ、ほんの少し後――
 足元の草と落ちた小枝を微かに鳴らし、一行を追いかけるように登山道に踏み込む影があった。










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2023.5.4
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