Novels


王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ


 
 ワッツの目の前にはおよそ半年振りに、大型の猫科の獣がいた。青銀に艶めく毛並みが美しい。
 十一月三日、午後のことだ。




 ワッツは間借りしていた村から、サランセラムの正規軍仮駐屯地に移っていた。
 東方公、そしてヴィルヘルミナ平定の報は、二日の早朝にはサランセラム駐屯部隊にももたらされ、三千名の全ての兵の知るところとなった。
 内戦への発展を防ぎ、無血でベルゼビアの投降で終わるという最良の結果に駐屯部隊の兵達は沸き返ったが、その喜びも一時のもので、次は自分達がボードヴィルへ対するのだと、部隊内には今は肌を引き締める空気が漂っている。
 サランセラム駐屯部隊を指揮する北方軍第七大隊大将マイヨールは、北方将軍ランドリーが本陣を置く西方軍第六大隊仮駐屯地バッセン砦から昨夜遅く戻り、今朝ワッツと話すと、ルベル・カリマの二人の情報をランドリーへ報告する為に再びバッセン砦へと取って返した。
 ルベル・カリマのレーヴァレインとティルファングは駐屯地には入らず距離を取っていたが、二人の情報は王都へ伝わるだろう。
 西海との和平の話は、まだマイヨールにもしていない。
 まずはボードヴィルで捕われているだろう――ワッツはそう踏んでいた――ヴィルトールと繋ぎを取り、イリヤの状況を確認して、その上での話だ。
 偵察隊の情報ではボードヴィルに目立った動きはなく、砦城周辺は静かなもののようだ。
 ミオスティリヤの王太子旗は下げられず、風竜は相変わらずその白いむくろをボードヴィル砦城の大屋根の上に示している。
(だが、ヒースウッドは一層戦々恐々としてるだろうぜ)
 ヴィルヘルミナの結果が、ボードヴィルの結果だと。
 ベルゼビアと長子マンフリート、そしてベルゼビアに従ったイェール伯爵とネルソン男爵は死罪、領地は暫定的にではあるが王家直轄となった。
 ボードヴィルも同じ処罰が下されることはほぼ、間違いがない。
(ヴィルヘルミナで無傷に終わった正規軍が次に動くまで、それほど時間は掛からねぇ)
 そして西海の存在を考えれば、ボードヴィルに時間を割くのは避けたいだろう。西海との決着が第一だが、ボードヴィルに風竜とルシファー、そして『ミオスティリヤ』がいる限り無視しては通れず、となれば最大の戦力をボードヴィルへ向け、一息に収束させようとするのが定石だ。
 兵達を休ませるとして、今回の結果であれば中三日――最短で十一月五日には動き出すのではないか。
(となると明後日か)
 正規軍がボードヴィルを囲むまでに、和平の道筋を見ておきたい。
 その為の一番確実な手段がようやく形となって、今、ワッツの前にいた。




 美しい毛並みの獣はヴェルナー侯爵家の伝令使だ。正しくは、その当主、ロットバルト・アレス・ヴェルナーの。
 駐屯部隊の伝令使はマイヨールが伴っていた為、まだワッツから直接ロットバルトへ繋ぎを付けられてはいなかった。
 けれどこうしてヴェルナーの伝令使がワッツの前にいるということは、マイヨールがランドリーに上げた報告が、王都に伝わったのだ。正規軍だけではなく、王都で――十四侯の協議の場なりで共有された証拠だ。
 伝令使が発するやや金属的な響きの声は、けれど確かに、良く知った青年のものに違いない。
『ご無事で何よりです』
 そう、まずは告げる。
 その言葉を聞き、繋がったのだと、じわりと実感が湧いた。
 そしてまた、まずは一歩進んだと、その実感が。
『御依頼の件、イル・ファレスに両名とも恙無つつがなく』
 依頼とはイリヤの妻、ラナエの保護で、イル・ファレスは南方フェン・ロー地方のヴェルナー侯爵家直轄領であり、侯爵家の別邸の一つがある。
 両名とも――ラナエと生まれたばかりの子は、ヴェルナーに守られている。
 有難いと思い、そこまで負わせていることに申し訳なくも思う。
 ただ、ヴェルナーの権能はワッツの心配など遥かに超えたところにある。そしてあのロットバルトが全て承知の上で引き受けた以上、任せて良いのだと信頼していた。
 伝令使は、まず情報共有が必要だと告げた。
 十四侯の協議が行われベルゼビアの処罰が決まったこと、ボードヴィルへの対応もそれでほぼ決まったが、イリヤをベルゼビアに・・・・・・すること・・・・を避ける考えならば、その為にボードヴィルの情報を持たせて戻して欲しい、と続ける。
 そして最後に、『まずは無事の報を喜んだ』と。
(まあ、相変わらずだな)
 喜んだとロットバルトが言うのなら、レオアリスのことだろう。その言葉から本当にレオアリスが戻ったのだと実感も生まれ、ワッツは巌のような顔に笑みを刷いた。
 ロットバルトが近衛師団から籍を外したのは軍人としてのワッツには残念だが、全体を見れば大きくは変わらない。近衛師団には悪いと思いながらも、今の状況には却っていい。
(今は頼らせてもらうぜ)
「さて」
 この伝令使は他の手を介さず、ロットバルトのもとに帰る。それなりの情報を持たせても他に漏れることはない。
 とは言え彼等がやり取りする内容は周囲に人がいる状況を避けるものだ。そうそう頻繁に伝令使を行き来させるのは困難だろう。となれば一度に多くの情報を、端的に持たせたい。
 ワッツは伝令使に運ばせる言葉をどうするかしばし考えを巡らせ、簡潔に伝わるよう整えてから口を開いた。








 ワッツの元から戻った伝令使を前にした時には、もう深夜を過ぎていた。
 王城は避け、ヴェルナーの館の自室だ。ベルゼビアの領地やヴィルヘルミナとその周辺地域に関する処理でここ数日王城に詰めたままになっていて、館に戻ったのは三日振りだった。
 ロットバルトは呼び出した伝令使と、そこにワッツの姿を見るように向かい合った。
 日中に行われた十四侯の協議と、今聞いたワッツの情報の内容とを、意識の奥でなぞる。
 ボードヴィルについては正式には明日対応策を決定するが、ヴィルヘルミナの結果はボードヴィルの結果を表している。
 ファルシオンやレオアリスはイリヤを助けたいと考えているだろう。
 だがそれは、今の段階では非常に困難なものだった。
(今の段階――いや、半刻前までの段階だ)
 それがワッツの情報によって、やや様相を変えた。
(西海との和平――)
 ワッツが持って来た内容は想定の範囲を超えていた。それがまず正直な感想だ。
(和平か)
 もう一度呟く。部屋の角に置かれた花瓶の零す花の香が、この十一月であっても室内にゆるく漂っている。
 和平。
 確かに、それぞれの対応だけではなく、この戦いの結末をどこに持って行くか――それを考えなければならない時期に来ている。
 その目指すものとして和平は現実的であり、国としても望ましい結果だ。
 今回の戦乱に要した単純な経費だけでも、そろそろ国庫を圧迫し始めている。財政の面だけではなく、人的資源の面、産業面、土地そのものの生産性の面、物流、治安、様々な要素において、戦乱が長引くことで利する面は殆どない。
(軍務に関する物資の面では、平時よりも需要は高まったが)
 そこを視点に考えるのは、終わりのない泥沼の道に踏み込むようなものだ。
 和平。
 それが望ましい。確かに。
 ロットバルトは伝令使の前を離れ、部屋の中央に置かれていた長椅子の肘置きに腰掛け、脚を組んだ。そのまま、視線は床に落ちる。
 思考を整理する。
 まず、ワッツとヴィルトールは王都が西海との和平を検討する場を作ることで、終戦への道筋を付けたいと考えている。
 その相手方として今見えているのが、ワッツ達が西海の穏健派と呼んでいる一派だ。中心人物はレイラジェという将軍であり、ワッツ達はレイラジェとは一度、話をしている。
(穏健派――西海にもそういう派閥があるとは)
 新たな、有益な情報だ。
 ただそれだけでは動けない。確認しなければならないことは多くある。
(相手にも和平の意思はあるのか。彼等はどれほどの規模か。軍事力的には。主流派に抗し得るのか。ナジャルに? 和平を締結する相手として、その後の西海を彼等の理念で統治し得るだけの組織体を有しているのか)
 多くの情報がまだ不足している。
 ヴィルトールは和平の仕立てを以って、『ミオスティリヤ』が生きる道を作るつもりだと、ワッツは告げていた。
(難しいな)
 既にイリヤは、ボードヴィルにおいて、自らの名を王太子旗に掲げた存在だ。
 和平の繋ぎが今の王都の認識と方針、そしてミオスティリヤに対する王家の意思と決定を覆すほどの切り札になり得るか。
 偏った前例を作らないことは、国を維持する上で重要な要素になる。次に続く者を作らない為にも。王家転覆にも通じる存在と行為を一つ認めれば、次の行為の種を植えることに他ならない。それは国を危うくする。
 ただ、裏返せば違う姿が見えるとも、ロットバルトは考えていた。
 功罪は表裏一体だ。
 ヴィルトールが考える通り、ミオスティリヤの罪はイリヤの功で消せばいい。功を認めないこともまた国を危うくし、そして功を認めることで次の功を引き出すことにも繋がる。それが西海との和平であれば、十分だ。
 ただし、イリヤの功だけを立てる訳にはいかない。
 あくまでも国王代理は王が定めた王太子ファルシオンであり、そして玉座を継ぐ者はファルシオンでなければ、功は再び罪に転じる。
(慎重すぎるくらいの仕立てが必要だ……、全く)
 これほどの情報を伝令使に乗せてとは、随分と手軽く持ち込んでくれたものだとロットバルトは息を吐いた。
 取り敢えず。
(ボードヴィルへの方針を決定する前に、この情報を聞けたのは幸いだった)
 対応が決定した後では、ヴェルナーひとつで動かせる内容ではない。
(少なくともまず老公と、大公への根回しをすべきだろう。お二人の理解と賛同を得なければ、この話を進めることは到底できない)
 暖炉の上に置かれた時計を確認する。深夜の一刻を回っているが、急を要する話だ。
(大公ならば六刻にはお会いできるか)
「それまでにもう少し、西海に関する情報と確証が欲しいな」
 ワッツへ伝令使を戻す為に、ロットバルトは腰掛けていた長椅子の肘置きから立ち上がった。
(穏健派の情報だけではなく、ヴィルトール中将が置かれている現在の状況も知る術があれば――ヒースウッドとルシファーにとって、ヴィルトール中将がどこまで重要な要素になっているかに身の安全が左右される)
 ヴィルトールを利用して、王都へ対し、少なくとも揺さぶりを掛けることはできる。近衛師団、そしてレオアリスに対して。
 ファルシオンに対しても。ファルシオンは自らの兄を救う為に派遣したヴィルトールを見捨てようとは思わない。
(彼が今捕らえられていると仮定して、その価値をより高く見積もらせる仕立てをするのが――)
 ふと踏み出した足を止める。
 耳を、微かな水音が掠めたからだ。
 意識に引っかかったその音の出所を探そうと巡らせかけた視線を、暗がりから湧いた声が引き寄せた。
「ヴェルナー侯爵とお見受けする――」
 ロットバルトは振り返り、部屋の角に生けられていた花瓶へ、視線を向けた。正確にはその前にいつの間にか立つ、一人の男へ。
 咄嗟に左手を浮かせたが、近衛師団にいた頃と異なり、剣は帯びていない。
 ただ剣がないこととは別の理由で、ロットバルトは息を吐いて手を下ろし、その男と向き合った。
 男は胸に手を当てて上体を伏せている。敵意はないと、そう示しているようだ。
 ロットバルトは戻った時に室内に誰の影もなかった事、自ら扉に鍵を掛けたとこを思い起こして、頬に苦笑を浮かべた。
「――困った話ですね。当家の中心部であるこの館に、面会予定のない来客とは」
「無作法をお許し頂きたい」
 そう言って、男は伏せていた上体を持ち上げた。
 歪に突き出した後頭部と、濡れた肌。来訪者はこれまで何度か目にしたことのある、西海の住民の特徴を持っていた。身を包む服装から男が高い身分にあることが伺える。
「お初にお目にかかる――我が名はレイラジェと申す」
 西海四軍の第二軍を預かる者だと、そう告げる。
「レイラジェ――」
 ワッツの情報の中にあった名だ。
「レイラジェ将軍」
 いかにも、と男は頷いた。
「先ほど、ワッツという男が貴殿に告げた穏健派――それを率いてもいる」
 ロットバルトの苦笑が濃くなる。先ほど、ということは、少なくともロットバルトが伝令使を呼び出した時点から、この男はこの部屋に潜んでいたことになる。
 西海の住民は水を媒介に移動することができると知識では知っていたが、実際に目の前でやってのけられると改めて厄介な能力だと言えた。ただ、今に限っては、どうか。
「防御陣再構築が遅れていることの影響ですか。凶と捉えるべきか、吉と考えられるのか」
「吉と捉えて頂きたい。ヴィルトール殿が貴殿と繋ぎを取れと、そう言われた。防御陣が完全に構築されていれば私はここに入ることは叶わなかっただろう」
「ヴィルトール――貴方は彼を」
「彼は今、我々と共に我が第二軍軍都ファロスファレナにいる。ボードヴィルから我等が連れ出した」
 ロットバルトは瞳を見開いた。
 ややあって、もう一度息を吐く。
「――状況が掴み切れないな」
 確かに情報と確証が欲しいとは思ったが。
 少なくない懸念を覚え、こめかみに手を当てる。
 厄介ごとの種が増した。
 直接、西海の使者が訪れるとは。
(一つの家がいきなり抱える問題じゃない。あの二人は、全く)
 とは言え。
 ロットバルトはレイラジェへ改めて向き直り、傍らの長椅子の一つを示した。
 何にしても、穏健派の首魁であるレイラジェ自身がこの場にやってきたことには、幾つもの意味が含まれている。
 穏健派の存在の証明、ワッツの言葉の裏打ち、彼等の意思の表明――
「お座りください。まずは胸襟を開いて話をしましょうか」




 半刻後――
 既にレイラジェの姿は消え、後に数滴、花瓶が置かれた床の上に雫を落とすのみだ。それだけを見れば今、西海の住人と向かい合っていたのが現実の出来事だったのか疑わしさすら覚える。
 だが、レイラジェの言葉は確かな重みを持っていた。
 西海の穏健派は間違いなく、アレウス王国との和平を望む、と。
 今日――既に昨日だが、ボードヴィルから脱出したワッツを救ったのはルベル・カリマの剣士だという情報も入った。先ほどの伝令使も同じ情報を伝えてきた。
 新たな道が一つ、荒地の中に延びているのに気付いたような感覚だ。
 事態は複雑で、ヴィルトールの目指す通りの和平を為すのは容易ではないが、そこに関わるのなら、ヴェルナーを継いだ甲斐が少しはあったと言えるだろう。ルスウェント辺りは後悔するかもしれないが、ならば思う存分後悔してもらいたい。
(まずはワッツ中将へ、この状況を伝えるか)
 ヴィルトールの現在については驚くだろうが、安堵もするに違いない。
 そしてやはり早朝にも、大公ベールと内々に話をしなくてはならないとそう考え、ロットバルトはまずは伝令使を手招いた。
















Novels



2020.2.2
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆