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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ


 

 ルシファーを西海の皇太子の妃に迎えたいと考えていたのだ、と、レイラジェは言った。
「皇太子殿下――その方は、」
 レイラジェの面に哀切の色がよぎる。
「身罷られた」
 端的な言葉に面を伏せ、そして次にレイラジェが口にした言葉が、ヴィルトールの面を上げさせた。
「四百年前、皇太子殿下をしいしたのは、海皇だ」
「――海皇……しかし海皇は」
「その通り。殿下の実の父だ。だが海皇に血の繋がりなど関係はない。微塵もな」
 邪魔であれば引き裂き、望めば喰らう。
 それが海皇の治世であり、そして今、この西海を支配する唯一の法だ。
「殿下はそれを変えたいと望んでおられた。弱者が弱者であるだけで喰われることのない世界へ。そもそもこの西海は、我等の祖がくだる前からそのような世界ではあった。ナジャルが太古の王として君臨していた世界だ。その在り方は、世の本来の姿であるのだろう」
 人の文化という手が入るまでは――今でも人の生活の及ばない場所では、生物達はそのように生きている。自然淘汰の中で弱い個体は消え、生き延びる力を持った個体が種を繋いでいく。それが本来生物としては正しい姿だ。
 生まれ落ちても自ら生き延びる力が足りなければ命を落とす。老いては生命活動を維持する機能が落ちれば、ながらえることはできない。弱いものから切り落とされ、網の目から落ちていく。
 生物とはそういうものだ。そしてそれを抱える世界全体も、そういうものだ。それが本来の在り方であり、そうして均衡を保っている。
「だが、知性を持ち文化を持ち暮らす場では違う。違う摂理があって良い」
 あるべきだ、と。
 そうあれなければ何故、我々は意思を持ち、知性を持ち、文化を持ったのか。
「ルシファー様は皇太子殿下のお考えに共鳴された。お二人はお会いになってすぐ、お互いの意思を理解された。あの方が地上にいるのであれば、我等は――皇太子殿下は、そのお考えのもとに進む事ができると考えていた」
 西海の摂理を変え、新たな理念のもとに国家を樹立する。
 その際、地上の理解は重要だ。
 ルシファーはその架け橋になると考えられ、そして本人もまた、それを望んでいた。
「その皇太子殿下を、海皇は殺害した――」
 レイラジェの言葉に怒りが篭る。
「殿下の死は両国の間に軋轢を生むよう仕組まれ、そして大戦は始まった」
 海皇は自らの地上への復権だけを望み、西海を、この昏く、重く澱み、青く澄み、輝く世界を顧みなかった。


 初めて知る西海の、大戦の真実をレイラジェは語って聞かせる。
 ヴィルトールはレイラジェが語る間、以前のことを思い出していた。
 いつだったか、レオアリスが疑問を口にしていたと思う。ルシファーは矛盾していると。そう見えるのだと。
 レガージュから帰った後、王との謁見の間で告げたという言葉。その時ルシファーは、『もう一度選ぶ』と、そう言った。
 離反する直前、アスタロトの館で対峙したルシファーの言葉。
 『理由はあるわ。でもそれはもう、長い時の間に、私を止めるだけの力を持たなくなった』
 その『理由』こそが、皇太子の死なのだろう。
 けれど『離反の理由』が、『自分を止めるだけの力を持たなくなった』とは?
 姿勢を改め、ヴィルトールは尋ねた。
「ルシファー……彼女は、今何を望んでいるのか、貴方にはお分かりですか、将軍」
 レイラジェ達がボードヴィル砦城へルシファーを訪ねて来たのは、彼女の意思を確かめる為だろう。
「正直に申し上げれば我々には、彼女の真実は見えませんでした。地上において、誰もそれが見えた者はいなかったかもしれません」
 いや――王一人は、或いは。
 レイラジェはヴィルトールをじっと見て、首を振った。
「今は判らぬ。貴殿が目にした通り、我等は門前払いを喰らい続けているからな。だが、あの方のお心にはかつてと同じ想いがまだあるのだと信じている。我等の上になくとも、皇太子殿下の上に」
 そう信じたいだけかもしれぬが、と自嘲を浮かべる。
「我等はあの時、皇太子殿下の死を目前に見ながら、その事に怒りを沸き立たせながらも、海皇とナジャルの暴虐の前に矛を下ろしてしまった。怖じけたのだ。武人にあるまじき行いよ」
 自嘲がありありと露出した響きだ。
「その我等を今更あの方が信頼してはおられぬのは当然だ。そしりは甘んじて受けなくてはならぬ」
 許されることを望んでいる訳ではない。
「だが不可侵条約が破棄され、新たな戦乱が始まった今、我等は今度こそ、矛を掲げなくてはならない。皇太子殿下の意志を継ぎ、その理想を実現することこそが、我等に課された役割と考えている」
 言葉を切り、レイラジェはヴィルトールへと向き直った。
 その面は容貌こそ異なるものの、ヴィルトールにも汲み取れる表情を浮かべている。
「貴殿等はあの方の行動を許せぬだろう。貴国が混迷に至る原因ともなっている。我等の行動は一面では、あの方の行いを正当化するようなものだ。それを許せぬと考えるのも当然――」
 その問いは、予期していた。
「それでも貴殿は我等と共に動こうと思われるか」
 ヴィルトールはしばし思考を巡らせた。
 ルシファーの離反がアレウス国内を混乱させ、戦乱の只中に近付けたことは誰の目にも明らかだ。
 ヴィルトールが王都と繋ぎを取り西海との和平を提案した時、ルシファーに対する反発は必ずあるだろう。
 その為に、和平交渉は難航することも考えられる。
 だが。
「思います」
 明瞭に言い切り、ヴィルトールは「しかし」と続けた。
「私は彼女を正当化して良しとは思いません。過去の悲しみ、その想い故に、今、数十万という人々を苦しめることに繋がって良しとは考えません。アレウス王国が和平に向け正しく動くなら、必ず彼女を断罪する流れになるでしょう」
 それは避けられない手順でもある。
「逆にお尋ねします。それでもなお、あなた方は我々と共に動こうと思われますか」
 レイラジェの面に笑みと、そして厳しさが同時に昇る。
「思う」
 レイラジェもまた同様に言い切り、ヴィルトールへと背筋を張った。
「皇太子殿下の願った国を実現する、それが何より我等が掲げる目標であり理念だ。御方の今の有りようは、そこに反している。悲しい事にな」
 悲しいと言ったその言葉は、ただ相手への憐憫れんびんではない。
「それは本来のあの方も望むまい」
 彼等が挟んで座る食卓へ、小さな窓から差し込む陽射しが四角く落ちている。
 ヴィルトールはその光を見つめ、今はまだ狭いそれが、いずれこの部屋全てを照らし出す様を想った。
「では、レイラジェ将軍。一つお願いをしたい――私の朋友、正規軍第七大隊中将ワッツと連絡を取りたいのです。私と、彼が」
 一度言葉を切り、レイラジェを見る。
「そして今ボードヴィルにいるイリヤという青年が、王都との繋ぎ役になります」
「イリヤ――アレウス国王の遺児か」
 ヴィルトールは目を見張り、そして頷いた。
「はい」
 西海は当然、それを承知している。
「ただ、ワッツの居場所は不明です。連絡を取れますか」
「それは無理だな。我等にそのワッツという男は辿れない」
「では」
 難しいだろうと、それはヴィルトールも考えていた。
 ただ方法はあった。
 今だからこそ、可能な連絡手段だ。
 王都の防御陣は今、潜り込む余地がある。
 そしてワッツも彼を、情報の結節点に考えるだろう。
「アレウス王都アル・ディ・シウムの、ヴェルナー侯爵に」






 白い竜の骸を撫でる。
 見下ろすボードヴィルの砦城は昨夜の一件で混乱し、兵達の多くは戸惑っていた。
 ミオスティリヤ暗殺を謀ったメヘナ子爵が捕らえられ、その共謀者として近衛師団中将ヴィルトールと左軍中将ワッツの名が挙げられた。
 上級大将ヒースウッドはメヘナと共に二人を捕らえようとしたが、二人は姿を消した。
 ワッツはボードヴィルの外へ脱出したのが判っている。追手を出しているが、一夜明け、その内の三班、東の方面へ出した班が、少将ゼンともども戻っていない。ヒースウッドはまさか三十名がワッツ一人に倒されたとも思えず、何か問題があったと考えている。
 そしてそれ以上に、ヴィルトールが消えた状況が不可解だと頭を悩ませていた。
 貴賓室の前室で、兵士達に周りを取り囲まれている中、突如として消えたのだから。
 王都の法術士が関わっているに違い無いと不安を募らせるヒースウッドを、ルシファーはボードヴィルに張った防御を強化すると約束し宥めた。
(そうね)
 ルシファーは白い骸をもう一度撫で、瞳を貴賓室のある四階へ落とした。中庭に面したその窓は、何事も無く昼の光を弾いている。
 口元に微かな笑みを浮かばせる。
(昨日は私に、顔を見せもしなかったのね)
 彼等・・は。
 彼等がやろうとしていることは想像が付いている。四百年前、が叶えようとしていたことだ。
 けれど、四百年遅い。
(あなた達が何をしようと、今更無駄なのよ)
 あの時に動かなかった足を今動かそうとしても、向かうべき目的の場所はもはや無い。

 『理由はあるわ。でもそれはもう、長い時の間に、私を止めるだけの力を持たなくなった』

(貴方は私を止めたでしょう)
 この行為を望まないのもわかっている。
 わかっている。
 わかっている。
 わかっている。
 わかっているからこそ――

 三百年、耐えたのだ。
 もう声も、顔も思い出せなくなって――彼を誰も言葉に出さなくなって、存在したことも薄れて。
 だから断罪しようと思った。
 未だあの形のまま在り続ける西海。
 世界を正そうとしない王。
 自分を正そうとしない王。
 ルシファーは瞳を伏せた。

 わかっている。





 イリヤは窓の向こうに見えるルシファーの姿を見上げ、何度目かの苛立ちを溜息に変えて吐き出した。
 イリヤはすっかりこの部屋から出ることができなくなった。
 出る時は湯あみの時くらいだが、側に警護の名目の兵士が張り付き、侍従達の目と共に片時もイリヤから視線が外れない。
 ヒースウッドはほとんど訪れず、ルシファーに至っては、イリヤの存在など忘れたかのようだ。
 けれど、ヴィルトールが捕らえられたとも、ワッツが捕らえられたとも、まだ聞こえていない。
(だから無事だ)
 ヴィルトールは恐らく、西海が連れて行った。連れ去ったのがヴィルトールが和平の交渉をしようと考えていた相手だと、イリヤは信じている。
 いずれヴィルトールと、ワッツと、それぞれ連絡が来るはずだ。
(それを信じる)
 ボードヴィルへは、東方公の問題が片付き次第、時を置かず王都から討伐隊が派兵されるだろう。
(今日が、十月の末日)
 王都は東方公への派兵を、明日、十一月の一日に決めている。その結末でボードヴィルを占うことになると、ボードヴィルの誰もが理解している。
 遅くても十一月半ば――早ければ、数日後にも。
(ボードヴィルの命運は尽きる)
 だからこそ、イリヤは西海との和平の話を進めたかった。ファルシオンに必要の無い負い目を負わせない為にも。
 ボードヴィルの兵達を無駄に死なせない為にも。
(ヴィルトール中将、ワッツ中将、お願いします)
 二人に頼るしか無い自分を情けないと思う事は、止めた。
 二人を頼る。
(俺の役割は、その先にこそある)
 ラナエが、彼女が側にいてくれたら、イリヤの背を押してくれるだろう。生まれているだろう子供が、誇れることをしろと。
(まだしばらく君を一人にする。ごめんね)
 脳裏に浮かべたラナエの姿に懐かしさと愛おしさを揺さぶられながら、イリヤは窓の外に向けていた眼差しを下ろした。

















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2020.1.26
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