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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

三十九

 
 燃え盛る炎が集い形を作り、炎の竜が、空にその姿を揺らした。




 風竜の喉に膨れ上がった風とレオアリスの剣の青白い光が、ぶつかり合い烈しく空を鳴らす。
 フレイザーは飛竜の上で咄嗟に振り返った。
 風と剣光が砕ける。
「上将――!」
 瞬間、叩き寄せた風が飛竜の体ごと押し流し、制御の間も無く飛竜は砂丘へと叩き付けられた。フレイザーの乗騎だけでは無く、上空に上がっていた近衛師団隊士の十数騎の飛竜もまた、その背に乗せた隊士や法術士ごと砂丘へ落ちる。
 砂が墜落の衝撃を吸収し、だがその上へ、砕けた風がとなって降り注いだ。激しい音と共に礫を受けた砂が、水面に石を落としたように立ち上がる。
 風の礫の驟雨が飛竜の翼の皮膜を穿ち、鱗を裂き、隊士や法術士の身体を貫く。
 砂丘の近衛師団の布陣を。砂丘上に敷かれていた法陣円を。
「――ッ」
 フレイザーは右肩を貫いた風の礫に短い苦鳴を上げ、唇を噛み締めた。身体を可能な限り丸め手足を抱え込む。耳を掠める鋭い音が肌を泡立たせる。
 風が鳴らす音、砂を穿つ音、隊士や法術士達が上げる苦鳴。
 いつ果てるとも知れない風の驟雨は、だがやがて衰え、ゆるい風となり、止まった。
 束の間、一切の音が消え、静寂が満ちる。
 その静寂はすぐに、周辺の混乱の気配に紛れた。隊士達の呻き、砂を踏む足音、呼び交す声が耳を捉え、フレイザーは強張っていた肩を動かし、顔を持ち上げた。
(――生きてる)
 風竜の息をやり過ごしたのだ、と、息を吐いて身体を起こしかけ、身体の重さと走った右肩の痛みに唇を噛み締めた。風の礫が穿った傷から血が流れている。
 両手をつき、もう一度重い身体を起こす。その拍子に背の上にあった重さが失せた。代わりに砂の上に何かが倒れて音を鳴らし、背中にあった温もりが消える。
 それで初めて、自分の上に誰かが覆い被さっていたことに気付いた。
 緑の双眸を見開く。
「――クライフ!?」
 フレイザーの傍らに倒れた身体は血に染まり、まだ流れ出るその血を砂が吸っている。
「クライフ!」
 さっと青ざめ、フレイザーは傷が痛むのも忘れ屈み込んだ。
 背中と、腕や脚に何箇所か、風の礫が穿った傷が見える。
 伸ばした手を、クライフの手が取った。フレイザーは息を呑み、それから湧き上がる安堵とともにその手に左手を重ねた。
「クライフ! ――今、手当てを」
「お、俺は、いい、……指揮を――転位は、も……無理、だ。撤退を――」
 フレイザーは辺りを見回した。砂丘の形は変わり、布陣していた隊士達の陣形は元の形を留めず崩れ、法陣円の輝きは消えている。
「もう一度、あれが、来たら……」
 風竜の息が。この場所はもう持たないだろう。
 クライフの手をぐっと握り返し、フレイザーは顔を上げ立ち上がると、声を張った。
「原地点から離脱する! 無事な者は自分の身を第一に、東へ後退しろ! 可能な限り速やかに、可能な限り距離を取れ!」
 飛竜や隊士が砂に埋れ、動かない者達も多い。ざっと見る限りで千名の隊士の、一割か、二割だ。
 フレイザーは唇を噛んだ。
 レオアリスが出た場で、これほどの被害をこうむったのは初めてだ。
(これが、風竜――)
 レオアリスは。
 レオアリスが戦っていたはずの背後はとても静かだ。
 とても。
 身体の芯に触れる恐れを、何とか押しやる。今はこの場を離れ、体勢を整えるのが先決だ。
 それから、転位。部下と、法術士達と、クライフを。
「クライフ、支える。少し厳しいと思うけど、歩いて」
 そう言って見下ろしたクライフから、反応がない。一瞬全身を占めた不安は、苦しげに上下する胸の動きにほんの僅か安堵に変わった。
 クライフを無理にも抱えて行くべきか、それに耐えることができるか、状況を求めて空を見上げ――、フレイザーは息を呑んだ。
 後退して行く隊士達の足もまた、空に広がるその光景に気付き一人、また一人と止まる。
 砂丘に広がっていた混乱は、気付けば一切の音を失っていた。




 青く抜けるような空に、赤々と身を揺らし、炎の竜が浮かんでいた。
 およそ三十間は超える、空を埋めて揺らぐその身体。
 燃え盛る炎で形作られた竜が、空に首を伸ばす。その正面に浮かぶ、白い骸の竜へと。
 炎の竜と骸の竜は、空の中で向かい合った。


 レオアリスは霞む視界にその姿を映した。音はなく、唇が名を綴る。
(赤、竜――)
 そう、あれは赤竜だ。それ以外に有り得ないとさえ思う。
 北の黒竜、西の風竜、東の地竜、そして、南の赤竜。
 そう名付けたのは彼等自身ではなく人だが、その存在を現実的に捉えていた者は、ほんの数年前までそう多くはなかっただろう。
 それは余りに現実離れした光景だった。四方の竜の、その二角までがこの場に存在することが。
 風竜に対しては、骸の姿でありながらその美しさに感嘆を覚えた。
 この赤竜に対して感じるのは、圧倒的な畏怖――在り方がまるで違う者に対する、畏敬の念に近い。
 風竜もまた同じ念を炎の竜に抱いているのか、その動きを止め、白く長い首を炎へ向けている。
 プラドも、ティエラも。二人が全ての神経を、空に浮かぶ炎の竜へ向けているのが分かる。


 炎の竜はそのあぎとを開き、空気を震わせた。
アィエーティウルム・・・・・・・・・
 そう響いた。
 大気に広がる音色だ。
 風竜への呼び掛け――その名か。風竜は白い骸の長い首を、僅かに降ろした。白い骨がからからと澄んだ音を鳴らす。
『骸と化しても尚動くとは、其方そなたが斯様な妄執を抱こうとは思わなんだ』
 空が炎に揺れる。
『とは言え、我等が直接顔を合わせたのは、この国の始まり辺りが最後であった。今の其方の心中など、この儂に測りようもないか』
 炎の竜がその黄金のまなこを薄く細め、首を伸ばす。空へ。
 一つの動きごとに身を創る炎が地上へと降り注ぐ。それは皮膚に触れても一切の熱を感じさせなかった。
『モルスガルムは今ようやく白鱗が育っておるところ、ウィータウルムはここ二、三千年、儂の前に姿も見せん。そのような状態で知己である其方の存在を失うは、まこと惜しいが』
 風竜は一切動かない。
 空に、砂丘に満ちる炎の存在がその動きを縛るのか、様子を窺っているのか。
 炎の竜は気にした素振りもなく、空へ向けていた双眸を戻した。
『その有り様を悼むが故に、其方が渇望していた解放をやろう』
 深く、慈悲に満ちた響き。
『眠ると良い』
 炎の竜が翼を伸ばす。
 燃え盛るそれは、空全体を覆うように広がった。
 風竜は白く長い首を天空へと持ち上げた。湧き起こった風がその身を包み、渦を巻き吹き荒れ、大気を――世界を捻り、歪める。砂丘から砂塵を巻き上げる。
 だが、一度だけだった。
 炎の竜が広げた翼が、白い骸を荒れ狂う風ごと、包み込む。


 白い骸がゆらりと揺れ、それから、崩れ始めた。
 重ねた層が一枚一枚剥がれるように、骸の竜を形作っていた白い骨が砂丘へと落ちて行く。
 落ちる側からそれは脆く崩れ、灰になる。
 ゆっくりと、けれど瞬く間に、巨大な骸は全て崩れ、灰となり、砂丘へと降り積もった。
 やがて最後のひとひらが灰の山に落ちる。
 ふわりと降りたその一片を受け、灰の山はさらさらと風に流れ始めた。
 流れる灰の中から青い翼が空へ立ち上がる。
 実体ではなく、炎の竜と同じ幻影のようなもの。
 青く輝く美しい鱗、その鱗が覆う、長い首と広い翼。尾。
 優美なその姿は、かつての風竜のものだと解る。
 空と同化するような青。
 青い竜は一度首を揺らし、炎の竜の鼻先に自らの鼻先を近付けた。
 翼を震わせ空に浮かぶと、青い皮膜に風を孕み、そのままどこまでも空へと昇って行く。

 次第にその姿は空に溶け、やがて消えた。





 炎の竜はゆるりと長い首を砂丘へ巡らせた。砂丘に立つカラヴィアスを双眸に捉える。
 炎は燃え盛り、空を朝焼けのように照らす。
 金の瞳――その一つでさえ王城の窓一つほどの大きさを持つ瞳が、この場にいる者を一人一人映していく。
 カラヴィアス。プラド。ティエラ。
 レオアリス。
 長い首が地上へ、ぐうっと降りる。
『カラヴィアスよ。その子供、あの蛇めと戦うには不十分であろう』
 黄金の双眸の虹彩、その一筋一筋に、炎が揺れている。
『導き手が必要なのではないか? どれ、儂が』
 炎の竜が首を伸ばす。実体のないその質量が大気を圧すようだ。
 カラヴィアスは組んでいた腕をほどき、炎の竜の前に広げた。
「貴方の役割は済んだのだろう。名残りを惜む気持ちは解らないでもないが、貴方はその状態であっても人の世には負荷の大きい存在だ。黄金の寝床へ戻られよ」
『冷たいのう。もう少し外の空気に触れていたいのだが。儂の寝床は至福の場だが、たまの翼を広げる機会も必要なのだ。今日久方ぶりに動かしたが、動かし方を忘れていたかと思うた』
 やや口を尖らせるような口調で言って返る答えを待ったが、カラヴィアスが何の返答もするつもりがないのを見てとり、炎の竜は諦めたように首を揺らした。
『仕方あるまい、儂は大人しく戻るとしよう。其方の求めに応じたのだ、我が寝床の黄金も少しかさを増そうからな』
 カラヴィアスは苦笑した。
「お約束しよう」
 にんまり、という表現がぴったりに、炎の竜は瞳を細めた。
『ああ。長よ、あの剣帯の贈り主にくれぐれも礼を述べてくれよ。あの赤は良い。我が鱗のような麗しい色であった』
「心得ている」
 炎の竜は身を揺すり、その動き一つで集っていた炎は空へ、花火が開くように散った。
 光が一瞬目を眩まし、空にはもう炎の欠片もない。
 ただ途方もない質量が失われたかのような、そこにぽっかりと、目には見えない大きな穴が開いている感覚が残った。
 カラヴィアスは何事もなく広がる空を見つめ、律儀なものだと肩を竦めた。あの原初の竜はその経てきた気の遠くなる歳月に似合わず、どこか子供っぽい。
(伝え聞く地の竜の方が、の名には似つかわしいようだ)
 カラヴィアスは顔を戻し、砂丘を見渡した。
 常に形を変える砂丘の上にすら、風竜の風とあの剣との戦いの傷跡は、ありありと残っている。
 この戦場が満足のいく結果であったかどうは、カラヴィアスの判断では無く、彼等の判断だ。
「さて――」
 さくりと砂を踏み、砂丘を降る。




 レオアリスは空に散った炎から、視線を移ろわせた。ようやく力の戻り始めた腕で、身を起こそうとして叶わず、息を吐く。
 一度力を込めれば、その分だけ力が逃げていくようだ。
 今のことをどう判断すべきか、まだ半ば霞のかかった思考を掴もうとしても滑って行く。
(あれは、今はいい)
 今あの炎を理解しようとしても、情報が足りなさすぎる。
 それよりも、隊士達は。風竜の風を受けてどんな状況にあるのか。無事なのか。
 覗き込むティエラを見上げる。
「近衛、師団は……法、術院、と」
 押し出した声は笛を鳴らすような音を含んだ。
「……完全に無事とは言い難いかもしれないけど、でも貴方は自分の心配をして」
 ティエラはどことなく陰りを含んで微笑み、右手の指先で柔らかくレオアリスの額にかかる髪を掻き上げた。
「少しは落ち着いてきたかな。まだ動けないでしょうけど」
 プラドが振り返り、腕に顕していた剣を消すと、レオアリスへと歩き出した。プラドをカラヴィアスの声が追う。
「彼をどうするつもりだ?」
 プラドはレオアリスの前に立ち、視線を落とした。ティエラはレオアリスの傍らに座ったまま、瞳はプラドの判断を待つように彼へ向けている。
 束の間、レオアリスの肺が繰り返す微かな、掠れた音だけが耳を捉える。
 ややあって、プラドはレオアリスから視線を離した。
「まずは治癒が必要だろう。十分な治療ができる場所に移す必要がある」
 カラヴィアスの笑い声が答える。
「真っ当な判断だ。万が一このまま抱えて連れて行くとでも言われたら、さすがに他氏族のこととは言え対応に苦慮するところだった。見たところ回復力が不足している。我々の血のみではこの負傷を治すには足りん。この状態で無理に連れて行けば、氏族のもとに辿り着く前に死なせかねないからな」
 黙しているプラドの横に立ち、切れ長の瞳を向ける。
「まあもう少しゆっくりと眺めることだ。判断を急いでも良いことはない」
 プラドは何も言わず、代わりにティエラが首を傾け微笑んだ。
 カラヴィアスはレオアリスの傍らにしゃがみ込んだ。膝を両腕で抱え、切れ長の瞳に呆れた色を宿してレオアリスへ向ける。
 起き上がろうと身を動かしたレオアリスの肩を伸ばした右手が押さえ、再び膝を抱える。
 膝の上に軽く、顎を乗せた。
「ルフトの子――レオアリス。お前、つい先刻まで死にかけていたのだが、それを理解しているか?」
 深い、滋味を含んだ声の響きだ。この人物がやはり、氏族を束ね守る長であることを表しているような。
「剣士でここまでの状態に陥る者などそうはいない。まあこんな戦いをする者もそうはいないし、そんな状態で限界まで剣を使おうとすればそうなるのだがね、これを教訓に戦い方を考え直すべきだぞ。誰も指南する者がなかったのだから無理もあるまいが――」
 意識が、ゆっくりと沈み始める。
 カラヴィアスの声は染み入るように心地良かった。
「まずは右の剣を戻せ。でなければ同じことを何度も繰り返すだけだ。その為のものはザインがお前に渡しただろう?」
(剣――)
 そう、戻さなければ。
(戦えない)
 今回のように、他を巻き込む戦い方では、この先には対応できない。剣を戻し、そして違う戦い方をしなければ。
 でなければナジャル――あの存在は。
(あと、少し)
 あの存在を倒し、海皇を。
 そうすれば。


(きっと――)


 今度こそ――



 手が、届く。















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2020.6.14
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