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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

三十七

 
 風竜の喉元で、剣光の青白い光と風の白い奔流がぶつかる。
 白い光が更に膨らむ。
 レオアリスは腕に鉛を括られたように重く感じられる剣を、渾身の力を込め振り切った。
 青白い剣光が顎と、喉を断つ。
 風竜の息、その奔流は砕け威力を削られ、だが空と砂丘へと、拡散した。
 風竜が呼び起こしていた竜巻と一体となり、嵐のようにうねり、空を捻り、砂丘を抉る。
 四方から叩き付ける風が幾千もの鋭い刃となってレオアリスを包む。身体を覆う盾――アルジマールの護符が造る最後の盾が千刃に触れ、激しく震えた。
 足が砂丘を滑り、押し流される。威力を削り、盾があってさえなお、皮膚を薄く削られ、手足を捻ろうと伝わる強烈な力。
「――ッ」
 鳩尾が熱の塊を抱え、右手の剣が光を不安定に揺らした。鳩尾から突き上がる肉を裂く苦痛に視界が霞む。
(――まだ)
 歯を食い縛り、柄を握る手に力を込め直す。
 拡散した風の刃は同様に、百間(約300m)後方に布陣する近衛師団と法術士へもなだれかかった。
 砂上の大蠍ごと、風は彼等を巻き込み、巻き上げ、叩き、流し、切り裂いた。
「フレイザー! クライフッ!」
 風は完全に拡散し、静寂が戻った。もうもうと立ち上がる砂塵が視界を遮り後方の状況が見えず、だが僅かに伝わる混乱の空気で辛うじて彼等の命がまだあることが窺える。損害がどれほどか――
 近衛師団へ足を向けた時、背後の大気が一段、重量を増した。
 見上げた空で再び、風竜の喉が光る。今度は先ほどよりも更に深く、激しい輝きを帯びている。
 身を返した膝ががくりと落ちる。それを堪え、足を前に踏み出した。
 銀翼の飛竜が風竜の後方で翼を返すのが見えた。
「来るな! ハヤテ!」
 叫び、更にもう一歩、砂丘を踏んだ。剣を下方から、風竜へと掬い上げる。一閃――
 相殺では足りない。相殺しただけでは先ほど同様風が拡散し、後方の近衛師団をも巻き込む。次を受ければ全て切り裂かれる。
 ただ断つだけでも駄目だ。幾ら剣を叩き込み骨を断とうと、風竜の再生力は無限にすら思える。
 あれは一度生を失い甦った骸――その身体を動かしているのは、血でも肉でも心臓でもない。
 陽を受けて輝くほどの白い骸の身体、視界を塞ぐ巨大な翼。二つの翼を広げれば、およそ二十間もの体躯を有するその存在は、限界を知らないように再生し続ける。何度でも。
(頭を砕く)
 斜めに斬り上げた剣を、返す。
 初めの閃光が消える前に、剣を重ねる。三閃。
 輝く風竜の喉から、風の奔流が放たれた。
 剣を握る腕、腕だけではなく全身に、風竜の息の重量が叩き付け、捻じ切ろうとする感覚。
 鳩尾――剣を失った右側が、熱を帯びる。一瞬遅れ、それは肉を裂く激痛に変わった。
 奥歯を噛み締める。
 砂丘に踏み降ろした足元で、砂が流れ、身体が滑る。
 身を覆っていた最後の盾が、砕けた。
「ッ」
 瞬時に途方もない重量がのし掛かり、無数の風の刃が身を切り裂く。感じるのは痛みよりも熱、視界を染めた赤は切り裂かれた傷が吹き上げたものだ。
 身体を支え、鉛のように重く感じられる剣を、再び、薙いだ。計五度の閃光が叩き下ろす風の奔流とぶつかり、凌ぎ、砕き、押し戻す。
 だが狙いは風の拡散ではなく、風竜本体だ。
 レオアリスは喉の奥に呼吸を飲み込み、その一瞬に剣を薙いだ。
 青白い閃光が走る。風竜の白い骸に、三筋の亀裂が交差し刻まれる。
 踏み込み、剣を返し、薙ぐ。負荷を受け裂傷が血を吹き出す。
 更に三筋――鳩尾が引き攣り、喉の奥に熱を感じたかと思うと、砂の上に血を吐き出した。
 その血の上に踏み込む。
 閃光を、重ねる。
 重ねた剣は十。
 風が砕けた。
 風竜が空へ、身を伸ばす。


 一瞬の、静寂。


 白い骸の身体は、刻まれた閃光の痕のまま、細断され――
 砂丘に砂煙を上げながら、ばらばらと落ちた。
 胸、上腕、翼、下肢。
 長い首。
 そして、頭部が。
 落ちて行くそれへ再度剣を振りかけ、沸き上がった身の芯が砕けそうな痛みに、呻きを飲み込む。
「――」
 視線の先でばらばらに落ちた風竜の白い骨が、束の間の静寂後、ゆるゆると蠢き始めた。
 次第に、中心へと寄り集まって行く。その動きは這う蝸牛のように遅い。
 だが。
 砂上に足を引きずる痕を引き、レオアリスは前へ、歩き出した。砂丘に落ち散らばった風竜の骸の、頭蓋へ。
 身体が腕が鉄のように重く、剣を持ち上げることが叶わない。引き摺る一歩ごとに視界が霞み、呼吸も身体の中から突き上がる苦痛に阻害される。
 視線の先、僅か五間ほど先でしかない場所で風竜の翼が再生し、形作られて行く。
 それでも、頭部を砕けば、おそらく、終わる。
(もう――)
 あの竜を眠らせるべきだ。
 誰かが。
 かつて、父がそうしたように――
「俺、が――」
 白い、白い骸。
 長い間晒され、三百年の時を経て尚、動こうとするその身体。それを動かすもの。
 もういからこそ。
 近付いていく正面の、自分の背丈より尚大きい、小屋ほどの大きさの頭部を、その空洞の眼窩を見つめる。虚ろな。


 ”――お前は、私を斬る者か――”


「そうだ」
 それが望みなら。
 砂上に刻まれた血の筋が、風竜の頭部の手前で止まる。
「これで……終わりに……」
 下ろした右腕の、手の中にもう一度剣の柄を確かめようとし、その指が何の感触も得られず握り込まれる。
 剣が無い。意思に反し、既に形を消している。
 右手に向けた視界が回転する。
 傾いだ身体が砂に倒れ、そのまま砂丘の下へ、ただ人形の体を落としたように滑り落ちた。
 青い、澄んで輝く空の天蓋が視界を覆う。
(――動、け……。今、風竜を……)
 頭部を、断たなくては、甦り続ける。
 腕や脚に刻まれた風の刃の痕は、筋肉や腱を半ば切断している。鳩尾は右の剣を失った、その傷を再び開き、中の肉を裂いていた。
 視界の、青い空。
 そこへ白い塊が持ち上がる。
 断ち切られた骨が組み上がり、細い枝を伸ばし、接合されていく。元の白い骸の竜の姿へ――
 長い首がゆるりと持ち上がり、それはまだ身体を統べる頭部を失ったままだ。
 首は、落ちた自身の頭部を探し、その切断面を砂丘へと伸ばした。
 レオアリスは身体を覆い絶え間なく疼くごちゃまぜの苦痛の中、視線だけを空へ向けた。
 視界が次第に暗くなっていく。
 痛みよりも、ただの無音。
 風竜が降ろしていた首をもたげる。空へ。
 天空へ伸ばされた白い骸の竜の姿だけが瞳に映る。取り戻した頭部の、虚ろな双眸が。
 砂丘に現れた時よりも、さらに空虚な。
(――転位……せめて――)
 近衛師団と、法術士達の。けれどもう、身を起こす力がどこにも無い。身体の在り処すら感じられなかった。
「――」
 ハヤテが翔けてくる、その銀鱗が陽光を弾き、瞳に射し込む。
「……る、な」
 その銀の姿と、陽射しに輝く風竜の白い頭部の向こうの、間の空が揺れた。
 一瞬渦巻き、何かがそこ・・から現われ、落ちる。砂丘へ。
 レオアリスの真横の砂が受け止め、僅かに舞い上がった砂と共に人影が立ち上がった。
 背の高い男だ。右腕に添って顕れている、白々とした長剣には風を纏っている。
 黒い双眸が横たわるレオアリスの上に落ちる。
 レオアリスは唇を微かに動かした。
 プラド。
 プラドは右腕の剣に左の手首を当て、引いた。血を滴らせる手首をレオアリスの上に伸べ、胸元に――裂けた軍服から除くアルジマールの護符へ血を注ぐ。
 護符は受けた血を吸い込み、白から赤に発光した。その光が術式を浮かび上がらせ、螺旋となってレオアリスの身体を包む。
 プラドはその光から視線を外し、そして正面の風竜を見据えた。
「風竜――我々ベンダバールが守る、地の守護竜にして、討つべき者。――俺はベンダバールのプラドと言う。それが判るか」
 白い骸の頭部がゆるりと動き、眼下に立つ男を見下ろす。
 その双眸はアルケサスに現れた時よりも空虚だ。
「がらんどうの入れ物――入れ物ですらない」
 プラドは剣に風を纏わせたまま、歩き出した。
「待――」
 レオアリスはその背に手を伸ばしかけ、だが実際には指先一つ動いていない。その手を、誰かがそっと取った。黒く長い髪が落ち掛かる。
(アスタロト――)
「じっとしていた方がいいわ。貴方の身体はもう限界みたい」
 覗き込んだのは見知らぬ少女だ。傍らにぺたりと座って見下ろしている。
(違う。一度会った)
 王都のデント商会――マリーンの家で。
 確か、ティエラと。
 空からハヤテが降り立ち、長い首を揺らして威嚇したが、ティエラは微笑み宥めるように片手を上げた。
「大丈夫よ、貴方のご主人を救けたいだけだから」
 そう言うと、ティエラもまた先ほどのプラドと同じように自らの手首に剣を当てた。引いた傷から血が滲んだ手首を、レオアリスの口元に運ぶ。
「ちょっと我慢して、飲んで。私達の血はほんの少し、命を繋ぐ助けになる。剣士同士だとどうしても影響しにくいのだけど術の補強にはなるし、貴方と私達は同じ血だから効きやすい思う」
「――」
 口の中に新しい・・・血の味が、ゆるく広がる。ティエラの傷はすぐに閉じたが、それでも冷えた身体にじわりと熱が通った。
 指先が動く。護符から発した術式は身体を螺旋状に取り巻き流れている。
 少しずつ身体が自身の意思を受け付け始め、レオアリスは僅かに首を動かしプラドの姿を追った。
 レオアリスがその瞳を見開き、同時にティエラが首を廻らせ、背後を振り返る。
 プラドは風竜へと歩く足を止め、やはり振り返った。
 厳しい眼差しが、レオアリスの倒れている砂丘の上へ据えられる。
「――ルベル・カリマか。何をしに来た」
 そこにもう一人、女が立っていた。
 プラドほどでは無いが、鍛えられた身体はすらりと高く、腕を組んで立つその姿は周囲を圧する空気を纏っている。
 美しく整った面の切れ長の黒い瞳が砂丘の下を見下ろす。
 ぴんと空気が張り詰めたように思えた。
(もう、一人――剣士――?)
 剣を顕してはいないが、剣士だ。
 けれどそれよりも――もっと別の何かが、レオアリスの意識を撫でた。
 レオアリスは、砂丘の上に立つ女のその向こうへ、視線を泳がせた。
 何か。
「何をとは、この国を去ったとは言え、かつて同じ役割を担った者の言葉とは思えないな。まあ、お前が今ここにいる目的は変わっていないようだが」
「カラヴィアス殿か」
 アスタロトが四か月前に会った、ルベル・カリマの長、カラヴィアスだ。
 カラヴィアスは唇の端を上げ、涼やかな声で言った。
「このアルケサスで竜が暴れているというのに、我々がただ観ている訳には行くまいよ」
「――」
 プラドは黙したまま、カラヴィアスの後方、空へ目を向けた。レオアリスが視線を据えている一角に。
 その仕草にカラヴィアスは今度は明瞭に苦笑した。同じ空に首を巡らせる。
「一つ、掟破り紛いを詫びねばならないが――まあ致し方がなかろう」
 声は涼しく、どことなく呆れ、そして厳然とした響きを持っていた。
この件は最早・・・・・・彼等の領分だ・・・・・・
 空が、揺れる。
 陽炎のように――
 炎のように。
 何も無いそこに、炎は一つの姿を象った。
 プラドが身構え、レオアリスの傍に座っていたティエラは驚いた響きで息を呑んだ。ハヤテが警戒し、レオアリスを庇うように身体の上に長い首を伸ばす。
「安心しろ」
 カラヴィアスは振り返りもせず、笑みを浮かべたまま、その炎を背後に背負っている。
(――竜)
 それは実体ではない。
 燃え盛る炎が作り上げている、巨大な、真紅の竜。
 実体では無いと解っているにも関わらず、身体の奥底から震えに似た感覚が湧き起こる。それは畏怖に近い。
 黒竜とも、風竜とも、その存在は違うと、それだけは判った。
 同時に、再生したはずの風竜が、全く動いていないことに気付く。
 風竜もまた、身体の動かし方を忘れたかのように、まなこの無い眼窩で炎の竜を見つめていた。


 炎の竜は降ろしていた長い首をゆっくりと持ち上げ、白い骸の竜へ、向けた。














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2020.5.31
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