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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

三十六

 

 ファロスファレナが暗い海へと、その巨体を沈めていく。
 周囲はごく僅かずつ、だが確実に、光を失い始めた。


 ファロスファレナの外殻上、ギヨール兵とファロスファレナ兵との戦いが続く中で、ファロスファレナ兵はギヨール兵を引っ張りつつも、撤退を開始した。それまで触腕を離れず戦っていた戦線が、まるで触腕そのものが伸びるが如く延びる。
 ファロスファレナが沈んでいると示すように、倒れ、或いは漂う兵達の亡骸が、まだ戦う兵達の頭上を通り越し、上へ流れていく。
『エルハイル大将! ファロスファレナが潜航を始めました!』
 ギヨール指揮官、西海第一軍大将エルハイルは暗さを増していく周囲を見据え、八本の触腕が捉えるファロスファレナを睨んだ。
『海溝深く潜り、我らを引き剥がそうという腹か――そうはさせん。更に締め上げつつ、振動波を放て』
『し、しかし、外殻上に戦線が伸びております。振動波を放てば味方の兵を多数巻き込み……』
『構わん。ファロスファレナ破壊が優先だ』
 第一隊将軍フォルカロルは、ファロスファレナの破壊と兵及び住民の殲滅を命じギヨールを送り出した。それは海皇の命だ。その成果を持たずにイスに戻ることはできない。
『これは好機だ。でかい自分達の方が水圧に耐えると考えているのだろうが、振動波で外殻を破壊すればファロスファレナは海溝で自滅する。残るのはこのギヨールだ。勝利するのは』
 エルハイルはまだ躊躇いを見せる副官を、苛立ちの篭った眼差しで一瞥した。
 この状況で決断を鈍らせれば、その分ギヨールの有利は遠退くと解らないか。
『放て。それとも海溝に呑まれたいか。もしくは戻って、ナジャルに』
『――は!』
 副官は敬礼を返し、身を返した。制御兵へ片手を上げる。
『振動波、用意――!』



 ギヨールの四本の触腕が締め付ける力が一層増し、大蛸の貼り付くファロスファレナの頭部は不安を掻き立てる軋みを上げた。
 更に四本の触腕が開く。
『閣下! ギヨールが振動波を』
 レイラジェは前方で開いていく四本の触腕を見据えた。
『潜航速度を早めよ』



 足元が滑り、ヴィルトールは咄嗟に窓枠に手をかけ、身体を支えた。足元、いや、長い廊下全体が、ヴィルトールが進もうとしていた方向とは反対へ、斜めに下がっている。
「潜航を早めたようです。お急ぎを。第五層まで退避するようにと、住民含め退避命令が出ております」
 案内の兵も状況を見回し、そう言った。外殻からまだ一階層しか入っていない。だが外の状況を測ることができるのは、斜めに傾いだ廊下と、身体に伝わる微細な振動だけだ。
(深海へ――とは言っても、一体どうなるのやら見当もつかないな)
 ヴィルトール個人には、最早何もできることがない。
 生きて家に帰れたら、この体験を娘にどう語ろうか。
 そう思いふと目にした窓を塗りつぶす色に、ヴィルトールは思わず息を呑んだ。
 夜の闇――、それよりも濃い、べったりとした黒。
 一切の光は無い。
 驚くほど呆気なく、光は失われた。
 それまで意識していなかったファロスファレナに掛かる重量が不意に増したように思え、自らの身体にもまた、その途方もない重量がのしかかっているように思える。
(――あの子に語れるものじゃないか)
 こんな暗闇は。
 語るのは光に満ちた青い情景だけにしておくのがいい。
「ヴィルトール殿、こちらへ――」
 そう促された瞬間、ヴィルトール達のいる廊下全体が、再び大きく振動した。



 放たれた振動波がファロスファレナの外殻を削る。
 まだ外殻上に残った兵達を襲い、ギヨール兵の硬い銀鱗の鎧ごと、潰し、捻る。ファロスファレナの兵達も例外ではない。振動に打たれ、意識を、或いは命を失い、外殻から漂い流れていく。
『状況を報告しろ!』
 内部まで伝わった振動を頭を一つ振って払い、すぐにミュイルが叱咤に近い声を上げる。
『外殻、三割まで破損……ですが第二層までは至っていない模様』
『兵達は』
『第一隊及び第二隊ゲイラ大将各隊は既に半数まで撤退を終えています。しかしながら半数の退避が間に合わず、振動波により損失――』
 ミュイルが両拳を握り込む。
『第三隊ノウジ大将、第四隊アルビオル大将各隊は上海域に展開を終了、影響はありません』
 ミュイルの後でレイラジェは、失った左脚を窺わせること無く、静かに前へ出た。
『第一、第二の撤退を急がせよ。撤退完了後、外殻を閉じる』
『潜航はどう致しますか』
 一旦止まるかという問い掛けに、レイラジェは明瞭に返した。
『続けよ』



『ファロスファレナ、更に速度を上げ、潜ります! 現在、深度一海里まで残り四十間(約120m)!』
 エルハイルは忌々しく壁を拳で打ち付けた。
『何故まだ潜れる! もう三度も振動波を喰わせているのだぞ!』
『お、おそらく、深く潜っていることにより、振動波の威力も落ちているものと』
 副官の言葉にエルハイルが歯を軋らせる。
『ならばもう一度振動波を放て! ファロスファレナを砕くまで続けよ!』



 ファロスファレナ前方でギヨールの触腕が四度目、広がる。
『閣下! ギヨール、触腕が広がります! この深度で振動波を喰らえば、外殻に深刻な影響が出ます』
『深度は』
『現在、およそ一海里(2,000m)に到達』
 観測兵の言葉にレイラジェは再び正面を向いた。既に三度、振動波により外殻に損傷を受けている。深度が増すに連れ振動波の威力は落ちていくが、それでも次に振動波を喰らえば、ファロスファレナ本来の限界深度である二海里を待たず、ギヨールよりも先に海水に圧し潰される危険性が高い。
『閣下――』
 ミュイルの問う視線に、だがレイラジェは躊躇いを見せなかった。
『更に潜れ』
 ミュイルはレイラジェの面を見つめ、了承の意を敬礼に込めた。
『潜航継続』
 振動波を喰らうことへの危機感、そしてファロスファレナに加わり続けている膨大な海水の圧力による崩壊の危機感、双方がミュイルの中にもあるが、それを呑み込み前を向く。
 レイラジェは銀色の双眸で前方を見据えている。その眼差しは無謀な賭けをする者の色ではない。
(お考えがあるのだ。ならば閣下の意志のままに、俺は動く)
 生か、死か――そのいずれかを選ぶことが、今ようやく自らの意思でできるのだ。




 ギヨールの四本の触腕が四度目に開き――だが、開き切る前に触腕は軋みを上げて動きを止めた。
 エルハイルが制御兵を振り返る。
『どうした! 振動波を放て!』
『で、できません!』
 制御兵の悲鳴に近い返答へ、エルハイルは苛立ちを込めて怒鳴り返した。
『できぬだと! いいから――』
 その声を遮り、今まで経験してこなかった振動が、ギヨール全体に響いた。ぎしぎしと、ギヨールが苦痛の呻きを上げる。
『何だ!?』
『し、深度一海里を超え――、水圧により、開いた、触腕が……っ』
 エルハイルは細い窓から見える外へ、視線を走らせた。喉に呻きが迫り上がる。
 振動波を発する為に開きかけていた四本の触腕が、その先端から、崩れ始めている。ファロスファレナに張り付くことによって軽減されていた水圧を、細い触腕にじかに受けている為だ。
 エルハイルは事態を悟って青ざめた。
『触腕を戻せ! 早く!』
 兵達の顔も引きつる。
『――できません!』
『できぬでは――』
 重い振動が、体に伝わった。兵が今度こそ悲鳴を上げる。
『第――、第二、四、六、八腕、ほ、崩壊――! 触腕半数を損失……!』
 全身を激しく血が駆け巡り、エルハイルの面がどす黒く染まる。
『エ、エルハイル大将、撤退を』
『撤退はない!』
 副官の言葉に怒鳴り返す。
『ファロスファレナは既に三度、振動波を受けている! 張り付いていれば先にファロスファレナが崩壊する! こうなれば我慢比べだ――』
 ギヨール内の司令室を、恐ろしいほどの無音が包む。
 ファロスファレナと共に、ギヨールもまた、尚も沈んでいく。
 一海里を過ぎ、一筋の光もない、更に深い、膨大な闇へ。



 鼓動さえ聞こえそうな静寂が、ファロスファレナ内部にもまた、満ちていた。
 無人となった廊下、同じく無人の第一層、第二層、第三層――ヴィルトールや住民達の退避している第五層。
 張り詰め、何か些細な切っ掛けによってはち切れそうなほどの緊迫。
 深く沈んでいくことを示す、ファロスファレナ全体が軋む音だけが、不規則に、微かに、だが確かに耳を捉える。
 ミュイルは観測兵の手元にある深度計を何度目か、確かめた。
 深度計の針はそろそろ二海里を指そうとしている。ミュイルの視線を追うように、観測兵の声が流れる。
『間も無く、二海里へ到達――ギヨール、未だ動く気配はありません』
 単純な大きさを考えれば、圧力がより多く掛かるギヨールが先に潰れる。
 だが今はギヨールはファロスファレナに張り付いた状態だ。ギヨール単体が受ける水圧をファロスファレナが分散している。
 ギヨールを先に潰すのならばまず触腕を剥がす必要があるが、今のファロスファレナには尚更その手段は無い。
『耐えろ――』
 ミュイルは声を押し出した。
 命を守る防壁が、途方もない水圧に軋む音。
 微かな響き一つが心臓を掴む。
『二海里まで、あと百間(約300m)』
 喉の奥が鳴る。
 重い振動が響いた。レイラジェの視線が上がる。
 だが期待したギヨールの動きではない。
『だ、第一外殻、剥離が始まっています……!』
 背筋が凍る。
『第二外殻、圧力を感知』
 振動波を受けた分、耐久限界に達するのが早い。
 ミュイルはレイラジェへ、指示を求めるように顔を向けた。
 だがレイラジェは正面の、ファロスファレナ前方に広がるだろう海溝の闇を見据えている。
 ぎしぎしと全体が軋みを上げる中、ファロスファレナは尚も沈み続ける。
『に、二海里――超えました!』
 悲鳴に似た響きがミュイルの耳を捉える。
『前頭部、第一外殻そ、喪失……っ、ギヨール触腕、第二外殻を捕らえています』
 振動に、ファロスファレナが大きく揺れる。
 メリメリと、身を、命を、意識を引き裂くような音。振動。
 ミュイルは奥歯を噛み締め、
『こ……これ以上は――、ッ』
 その言葉を飲み込んだ。
 拳の中に爪が食い込む。
 まだ。
 まだだ。
 あと、どれほど耐えるか。耐えられるか。
 ギヨールの限界はまだ来ないのか――
 それともこのまま、沈み続けて共に、水圧に圧し潰されるのか。



 永劫の彼方とも思える、その瞬間が、訪れた。
 ファロスファレナに張り付くギヨールの触腕の先端に、最初の亀裂が走った。
 亀裂は瞬く間に根元へと走る。ギヨール本体へ。
 残った四本の触腕の内、下部を掴んでいた一本が根元から失われ、ギヨール本体は斜めに浮いた。
 途端にギヨールの紡錘形の本体が、膨大な海水の水圧を受け、歪む。
 レイラジェは鋭く声を上げた。
『潜航停止、浮上せよ――!』



 ファロスファレナの外殻は今や無残に罅割れ、剥離し、その欠片が砕けたギヨールの触腕と混じり合い、真っ黒な闇に消えていく。
 下へ。
 底が無いとすら思える、海溝の闇へ。
 けれどファロスファレナはゆっくりと、浮上を始めた。
 ギヨールはひしゃげながらも、未だ三本の触腕を絡めている。ミュイルは腹立ちを拳に握り、もう片方の掌に打ち付けた。
『ギヨールめ、しぶとい。だが触腕三本、最早できることは限られてる』
 安全海域へ上がり、今度はこちらから移乗し指揮官エルハイルを討てばいい。
『深度、一海里!』
 観測兵の声が走る。
『良し』
 ミュイルは身を返し、レイラジェへ膝をついた。
『閣下。深度二百まで上がった段階で、第一隊、移乗攻撃を行います。御下命を』
『その必要は無い。ギヨールは海溝に落とす』
『は……、しかし』
 残り三本だけとはいえ、二海里の深度でも触腕は外れなかった。
『まさか、また潜られると』
 青い顔をしたミュイルへ、レイラジェは笑った。
『そこまでの無謀はせぬ。水流波をぶつける』
 それも無茶だ。ミュイルは思わず口を開けた。
『それでは、この外殻自体が崩れます』
 外殻損傷は現時点でさえ五割を超え、更に第二層にまで損傷は及んでいる。今水流波を発生させれば、第二外殻も崩壊するだろう。
『そうなれば、街が――』
『住民達にはしばし、耐えてもらう。残り三本とはいえ先に振動波を放たれれば形勢は逆転する。ギヨールはここで完全に沈めねばならん』
『ギヨール、離脱――、触腕開きます!』
 観測兵が声を上げる。
 既に深度は海面下二百間(約600m)まで戻っている。
 ミュイルは立ち上がり、レイラジェの下命通り、右手を上げた。
『水流波、放出しろ!』
 ファロスファレナが身体を揺する。
 全長二百六十間を超える巨大な鯨の身体が、水流のうねりを発する。
 同時にギヨールが、残された三本の触腕を振動させた。
 水流波と振動波がぶつかり合い、再び海域は嵐の如く荒れ、揺さぶられた。
 ファロスファレナの外殻が、渦に削られ、ギヨールの触腕が捻られ砕け、本体もまた渦の中に巻き込まれる。



 エルハイルは水流が自らを押し潰す寸前、目にした光景に呻き、憤りと、そして驚嘆を喉から押し出した。
 水流の中に垣間見える、白い輝き。
『ファロス、ファレナ……ッ』
 ギヨールが砕ける。
 その欠片は水流に巻き込まれ、再び、足元の暗い闇の中へと、沈んで行った。





 次第に収まっていく水流の中、海面から差し込む光が戦場跡の海中を穏やかに浮かび上がらせていた。
 ギヨールの姿はなく、そして、ファロスファレナの姿も無い。
 そこに在るのはただ一つ――


 ヴィルトールは光の中に足を踏み出し、感嘆の声を上げた。
「これは――」
 咄嗟に言葉が見当たらない。
 潜航前に目にしていた岩のような外殻は失われ、ヴィルトールが立つそれは、全く違う姿を見せていた。
 白く輝く、流線形の外観。
 いわば巨大な、白く美しい鯨の姿だ。
 元の姿より一回りほど規模を落としてはいるが、ファロスファレナそのものだと判る。
「一体」
「本体が剥き出しになったようなものだ」
 振り返ると、ミュイルが水を蹴り、斜め後ろに降り立ったところだった。疲労と、それから重荷を下ろした顔で肩を竦める。
「鎧と、住民達の住居部をすっかり失ったがな。閣下もまったく思い切りの良い」
「本体、これが……」
「そうだ。ああ、あと」
 もう海溝への潜航はできないな、とミュイルが笑う。
 ヴィルトールは苦笑を返した。
「次に潜航することがあっても私は、遠慮したいけどね」















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2020.5.24
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