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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

三十

 
 暁の瞳が現れたアルジマールを捉える。
「アルジマール、何度目――?」
 アルジマールは咄嗟に掴んでいた手を離した。ルシファーの周囲を鋭利な風が渦巻き、アルジマールの手があった場所を裂いた。
「死にに来たのは」
「僕は一度だって、そんなつもりは無いけどね。準備だって」
 風が鳴り、アルジマールへとなだれかかる。
「いつも万全だし」
 宙に方陣円が浮かび上がる。円は発光し、なだれかかる風ごとルシファーの身体を弾き、後方の木立へ叩き込んだ。木立が軋み裂ける音を立て、次々倒れる。
 アルジマールは身を返し、干上がった土に倒れているアスタロトの傍らに膝をついた。全身の細かな裂傷と火傷の痕に眉を顰める。
「アスタロト公――遅くなった」
 アスタロトはうっすらと目を開けた。間近にある光と、その光が当てられた場所から痛みが和らいでいくのがわかる。アルジマールの手のひらだ。
「――アル……」
「今治す。少しじっと」
 視界の端を何かがよぎり、アスタロトは咄嗟にアルジマールに飛びついて地面を転がった。今いた地面が無数の矢か槍を受けたかのように抉れ、土煙が視界を霞ませる。
 転がった身体を走った激しい痛みに、アスタロトは堪らず呻きを零した。
 アルジマールが宙に指先を走らせる。広がった光の傘に、風の刃が突き立つ。
「ッ、もう――! その身体で動くのは止めたらどうだい?!」
 アスタロトを背に、アルジマールは空へ向き直った。
 木々の梢の上にルシファーの姿が浮かんでいる。皮膚はアスタロトの炎を受けて焼けたまま、身体は苦痛を堪えているのか、俯き、抑えた呼吸を繰り返している。
「限界だろう。君だって傷が治ってないじゃないか。そんな状態で僕と炎帝公、二人を相手取るのはさすがにもう無理だよ」
 とは言え、僕も今はこれが限界だ、と微かな呟きが口元から洩れる。
 右手で前方へ防御陣を展開し、後へ伸ばした手でアスタロトへ治癒を施している状態だ。どちらかに集中したいのが本音――それ以上にアルジマール自身も、風竜をアルケサスへ転位させたことによる疲労がまだ回復しきっていない。
「ボードヴィルは落ちた。君が掲げていた『王太子』は投降した。コーネリアス・ヒースウッドも、王太子を庇って命を落としたよ。ほんとうにもう終わりなんだ。君が目指したものは」
 項垂れていたルシファーの顔が上がる。
 暁の瞳がアルジマールを見つめ、唇が小さく、「そう」と動いた。
(何に、反応した?)
 アルジマールは空に浮かぶ姿を見据えたまま、左の手、治癒へ注意深く意識を傾ける。アスタロトの傷は全身に及び、深い。もう少し時間が欲しい。
「……君も投降すべきだ。君の持つ駒は何もなくなった。正規軍はボードヴィルとはこれ以上戦わない。君の意図がなんだったにせよ、そろそろ幕を下ろす時だ。大戦から、三百年が経過したんだよ」
「そんなもの――」
 焼けた頬と対照的に、瞳の中の夜明けの光がアルジマールを見据えた。
「関係ないわ」
 風が渦巻く。
 それは瞬く間に速度を、威力を増した。これまでで最大の大気の渦になり、ルシファーを取り巻いて唸りを上げる。
「大戦も関係ない。三百年の時も関係ない。もう――」
 煩わしい、と微かに呟く。
 細い手が顔の半分を覆う。暁の瞳は虚ろだ。
「ああ……そう――もういっそ、全て煩わしい。――もういいわ」
「まずい」
 風の渦の中を無数の刃が埋める。
 アルジマールはアスタロトへ向けていた手を戻し、指先で新たな法陣円を描いた。防御の、光陣。五つ光陣がわずかずつ重なり合って円盤状に広がり、更に二つ、全体を覆う光陣が重なる。
 大気がひときわ大きく、揺れた。
 無数の刃が叩き出され、降り注ぐ。地を踏み鳴らすような轟音が周囲を包んだ。
「ッ」
 広がった光の盾に風の刃が次々突き立つ。暴雨の如く。高みから落ちる瀑布の如く。三重の防御陣を通しても重い。恐ろしく。
「凌ぎ、きれなきゃ――」
 死だ。
 押し潰され、切り刻まれ、粉々に粉砕される。
 残っている力をありったけ掻き集める。
 降り注ぐ風の刃が防御陣円の範囲外を抉り、削り取る。
 アルジマールの双眸が虹の輝きを増す。だがそれは不安定に明滅した。勢いを増し続ける風に対し、掻き集められる力そのものが尽きかけている。
 足が押される。
 外周、最大の光陣が軋みを上げ、次の瞬間、砕けた。
 連鎖し、第二の盾もまた砕ける。
 連なり広がる五つの光陣が、その端からじわりと削り取られて行く。
 アルジマールの腕の血管が破れ、赤い血が散る。
 小柄な身体が踏み締める地面が、光陣の形ごと、次第に陥没して行く。
 アルジマールは右手でもう一度術式を描いた。六枚目の光陣が戻り、広がり――途端に震え、砕け散った。
 地面が膝まで陥没する。
 広がっていた五枚の光陣が歪んだ。
 アルジマールは噛み締めた奥歯から、掠れた声を押し出した。
「――ちょっ、と……、拙いぞ」
 もう術式に注ぎ込む力が残されていない。双眸の虹色が、淡く光を落とす。
 その瞳に黒髪が映り込み、揺れた。
「いい、アルジマール」
 よろめく身体を引き起こし、アルジマールの前に立つ。
「アスタロト公」
「私が」
「でもその傷はまだ」
「だい、丈夫」
 アスタロトは苦痛の混じった息を吐き、空を見上げた。
「――ファー……!」
 掠れた、けれどなお凛とした声が風の唸りの中に散る。
 届いているのかどうか、アスタロトはそれでも更に声を張り上げた。
「思い出してほしい。あなたのその想いが、誰のためだったのか――」
 一歩、踏み出す。血が流れ全身が引きつるように痛んだが、なおも声を押し出す。
「本当にあなたが望んだことは、何だったのか! こんなことじゃない――」
 アスタロトが、語る言葉ではない。解っている。
 それでも。
「あなたの大切な人が望んだのは、こんなことじゃない! 解っているでしょう!?」
 風が地上へ、轟き、雪崩れ落ち、叩き付けた。
 巻き込まれた水、土塊つちくれ、草の葉一枚すら鋭利な剃刀となって襲い掛かる。
 アスタロトの肌に無数の裂傷が生じ、血が赤く渦を染めた。
 一瞬上げかけた苦鳴を噛みしめ、アスタロトはもう一歩、踏み出した。
 かつて暮らしたこの美しい場所を破壊することも、本当は望んでいないはずなのに。
「だから」
 その足元から炎が吹き上がる。輝く炎は昼の中にあってなお、周囲を煌々と照らした。
「――だから、何」
 冷えた声が落ちる。
 それでも自分を見た暁の瞳に、アスタロトは絶え間ない激痛の中で、空へ手を伸べた。
「だから私が――止まれなくなったあなたの代わりに」



 半年前。春。
 あの時、アスタロトの館で、差し伸べられた手。
『変わらないものなんてない――絶対なんてないのよ。想いでさえ簡単に流れていくのだもの』
 唇に笑みを宿し、唄うように綴られた言葉。
『だから行く事にしたの。全て変わる前に』



「変わってしまうことが、怖かったんでしょう? でも、今のあなたは、あなたが恐れていたあなたでもない。だから」
「だから――? それが何」
 凍りついた声。
 その中に――その裏側に。
 かつての彼女に。
 変えたくなかったもの、否応なしに変わっていってしまったもの、
 三百年前から――大戦の前から、ずっと抱え続けてきた本当の想いが、
 流してしまいたくない想いが、あったはずなのだ。
 だから。
 唇に笑みを刷き、真っ直ぐに見上げる。
「私が――、終わらせる」
 全身を炎が取り巻く。
 瞬間、風が叩き付ける。
 瞳の奥を焼くほどの炎は、風に一度、拡散した。
「ッ」
 アスタロトが息を吸い、右手を伸ばす。風に手を腕を切り裂かれながらも、その手を握り込んだ。
 風に散っていた炎が煌々と輝きを増す。
 風を巻き込み、炎が灼熱に揺れる。
 炎が勢いを増すのと対照的に、次第に渦がその勢いを失い――
 一瞬、空と湖面との狭間はざまに無音が広がった。
 風が止まる。
 そして全て、アスタロトの意思に従った。
 それまでの回転とは逆に、風が――炎が回る。
「ファー!」
 風の刃すら炎を纏わせ、それらは全て、一つ残らず向きを変えた。
 一つの流れとなり、渦巻き、中心に立つルシファーへ。
 暁の瞳が炎を透かしアスタロトを見つめる。アスタロトはその瞳を見つめ返した。


 ルシファーの左胸を、炎の刃が貫いた。
 再び――今度は風も、炎も、全てが止まる。辺りは全てが凍り付いたかのよう静まり、その中に、水を湛えた湖面に立つ波の、岸を打つ音だけが聞こえた。
 空に立っていた身体が傾ぎ
 湖面へと落ちた。





 空が回る。
 空と、もう半分の湖面と。
 入れ替わり、混じり合う。光を入れ替えながら。

(ああ――)

 冷たい水が身体を包んだ。
 沈む。

 あんな、青い光は見たことがなかった。
 長い時間を過ごした湖の中でさえ。風の渡る空の中でさえ。
 あんなにも澄んで揺らぎ、光の移ろう、どこまでも青く濃く、果てなく広がる世界は。



『あなたは空からいらしたのか』
 初めて会った時、水面へと降りていく自分を見上げ、驚いた瞳でそう言った。

『大空を舞うのは翼ある者だけだと思っていた』
 海の世界と同じ、どこまで澄んで見渡すその瞳。
 やわらかな笑みを浮かべた。
『では我々も、世界に縛られなくてもいいのだね』



 忘れられるわけがない。
 忘れられない。
 忘れる。
 忘れた。


 忘れてしまった――


 顔も。
 声も。
 その響きも。


 だから。


 もう一度。





 湖面が彼女の体を受け止め、水飛沫が陽光を弾いた。
「ファー……っ」
 アスタロトは流れる血も、痛みも構わず湖の畔へ駆け寄り――実際には身体は思うように動かずよろめき歩き、そのまま水の中に踏み入った。膝までだった水面があっという間に胸まで上がる。息を吸い込み、痛む身体で水に潜った。
 水中に揺れる身体が見える。アスタロトは水を蹴り、近づき、痛みに震える手を伸ばしてその身体を掻き抱いた。
 浮上し、水面に顔を出し、大きく息を吸い込む。
 名前を呼ぼうとした唇を噛み締める。
 左胸の損傷がひどく、呼吸もごく僅かだ。
「ファー」
 掠れた声にうっすらと目蓋が上がる。
 覗く暁の瞳の色は、白んでいく空のようだ。
 唇が僅かに動いた。
「何――?」
 微かに笑みが浮かぶ。
「――」
 何か言いたくて、けれど言葉が出てこなかった。何を言えばいいかわからない。
 ただ、これは全部、自分が背負っていくものだと――そう思った。
 身体が更に浮き上がる。全身から水を滴らせながら、アスタロトはルシファーの身体を抱きしめ、振り返った。
「――戻ろう、アスタロト公」
 アルジマールもまた苦しげな息を吐き、ただ彼の前に敷かれた法陣円が淡く光を放っている。
 頷いて、ルシファーの身体を抱えなおす。
 瞬きの後――、アスタロトはもうサランセラムにいた。
「公!」
 声を上げ、タウゼンが駆け寄って来る。ハイマンスと、マイヨールの姿もある。
 彼等の向こうにボードヴィル砦城が見えた。
 上がっているのは白い旗ばかり。丘に満ちていた緊張は薄らいでいる。
「――良かった」
 終わったのだ、と、そう思った。
 全身から力が抜け、丘の枯れかけた下草の上に座り込む。
「これで――」
 瞳を伏せ、息を吐きかけた時、腕の中の重さを見失い、アスタロトはぎくりと瞳を見開いた。
 今まで両腕で抱えていたルシファーの姿が消えている。
 咄嗟に立ち上がろうとして、身体は逆に倒れ込んだ。
「公!」
 タウゼンが傍に膝をつく。アスタロトは倒れたまま、空の両腕を見つめた。
「どこに」
 あんな傷で――
 アスタロトの心を読んだように、アルジマールの声が重なる。
「あの傷で、どこにも行けるわけがない――」
 アルジマールの指が宙に滑る。
 浮かんだ光る法陣円を見つめたアルジマールは、半ばで指先を止めた。
「アルジマール? ファーは……」
「――後は追う。でも、もうその必要はないだろうけど」
 アルジマールはそう言って、ボードヴィル砦城を見つめた。






 ボードヴィル砦城の貴賓室の廊下は、十名の兵が見張りに立ち、静まり返っていた。
 貴賓室への扉は開いたままだ。
 階下や中庭、そして街全体が騒めき、落ち着かない空気を纏っていたが、この廊下だけは声を躱すのすらはばかられる空気が漂っていた。
 ふと、微かな音がして、扉脇にいた兵士は顔を上げた。室内からだ。
「なんだ……」
 おそるおそる室内を覗き込む。
 誰もいないはずの――、ヒースウッドとエメルの亡骸しか無いはずの室内に、佇む姿を見つけ息を飲んだ。
「だ、誰だ!」
 咄嗟に剣を抜き踏み込もうとした兵士の身体が、宙に張り付けられたように動きを止める。「どうした」と駆け寄る同僚達の緊迫した声を背に、兵士は扉に立ち止まったまま声を押し出した。
「……あ、あなたは」
 床に横たえられたヒースウッドの亡骸の横に、女の姿があった。
 恐怖を感じることすら忘れるほど、傷を負い、血に塗れ、立っているのが不思議なほどだ。
 血を滴らせたままの細い手が、横たわるヒースウッドの上にかざされる。
 ヒースウッドの大柄な身体が、床から重量を感じさせず浮き上がった。胸の辺りまで浮き上がったヒースウッドの顔に、ルシファーは視線を落とした。
「――コーネリアス。あなたの忠心に、まだお礼を伝えていなかったわね」
 顔を覆う面頬に指先を触れる。
 唇に、微かな笑みが浮かぶ。
「私はこれでも、あなたを信頼していたわ」
 見つめる兵達に視線を向けることもなく、その血に濡れた姿も、ヒースウッドの亡骸も、室内から消えた。













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2020.5.3
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