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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ


 

 目が覚めて、ヴィルトールは自分がどこにいるのか、しばらく考えることになった。
 ボードヴィル砦城ではない。
 横になっていた寝台の上に起き上がり、下ろした片脚にもう一方の足を組む。
 昨夜のやり取りは覚えていたが。
「さて」
 室内は壁こそ白い石で化粧されていたが、天井はゴツゴツした岩肌が剥き出しになっている。
 何より、ヴィルトールは自分の身体の周囲にだけ、薄く空気の膜があることに気が付いていた。海中の酸素が泡となって寄り付いてくるのが見え、側から眺めたらそれは奇妙な光景に違いない。明らかに、地上では必要のない現象だった。
 自分は西海に、それも海中にいるのだと、認識が次第に、確かに結ばれていく。
(海の中――これがか)
 西海の重く昏い海を行く移動要塞、西海軍第二軍将軍レイラジェが率いる軍都、ファロスファレナ。
 昨夜はこの部屋に直接案内され、ほとんどレイラジェ達と話す機会は無く、先行きが見えないまま休むことになった。
 とは言え、レイラジェはヴィルトール達との話を深めると告げた。それなりに期待はできるということだ。
(どう交渉を進めるかな。地上とは連絡が取れるんだろうか)
 ボードヴィルとは。
 レイラジェ達がヴィルトールを連れ出せた以上、可能なのだろうが
(可能だった、か?)
 もうルシファーはそれを見逃さないだろう。
 イリヤとの連絡は困難な前提で考えた方がいい。
(イリヤは粗略には扱われないだろう。仮にも旗印だ。ワッツは――)
 無事、ボードヴィルを出られたのか。
 ワッツならばと思いはするものの、情報を得られない状態ではやはり懸念が多い。
 無事脱出を果たしていて、そして王都と、レオアリスと連絡が付けば。
 ワッツは王都と繋ぎを付け、ヴィルトールはこの機会を利用して西海の穏健派と和平の道を仕立てる。イリヤをその中心に据え、王都が西海との和平を前向きに受け止めるよう形を作る。
 その為にはまだ手が必要だ。
(やっぱり、ロットバルトに噛んでもらいたいな)
 彼を信頼しているし、それも今はヴェルナー侯爵家当主だ。和平を考えるならば今国の中枢にある存在が絡まなくては立ち行かない。
 もともと連絡を取っていたワッツが外に出られていれば、都合がいい。
(まずはワッツと連絡が取れるよう、彼等に働きかけるところからか。私一人じゃ手も足も出ない)
 それからレイラジェ達の考え、真意、目的を把握し、ヴィルトール達の考えを理解してもらう。
 既に一度伝えてはいるものの、国家間の和平となると彼等も受け止め方が異なるだろう。
(ルシファーがどの程度、彼等と関わりがあるのかも分からない)
 そこを間違えれば、ヴィルトールの思惑など簡単にひっくり返るだろう。慎重に、だ。
 扉が二度ほど叩かれ、ヴィルトールは石造りのそれへ目を向けた。地上の建造物に用いる石材よりも軽い素材で作られているようだが。
 扉へ寄って開く。鍵は内鍵だ。
 開いた先は窓のない廊下で、淡い人工的な光が揺れていた。蝋燭などの火は当然、用いられることがないのだろう。
 廊下に立っているのは西海兵で、レイラジェと似た姿――青みを帯びた皮膚とやや後頭部の突き出た頭、陰影の少ない面が特徴だが、受ける印象は地上の住人とさほど変わりはない。
 兵士はヴィルトールへ頭を下げ、
「レイラジェ将軍が、朝食を共にと」
 と言った。




 案内された部屋は、ヴィルトールがいた階より一つ上にあった。
 横長の広い部屋に長い卓が一台。ヴィルトールにとっても見慣れた食卓だ。
 レイラジェは既に卓に座り、ヴィルトールへ斜め前の席に座るよう手を述べた。食卓の上にはまだ何も用意されていない。
 銀貨のような光を宿す双眸が席に着いたヴィルトールを捉える。
「食卓をどのように共にするか考えたのだが、やはり水の中では難しかろう。今、浮上するところだ。少し時間がかかるがそこは勘弁してもらおう」
「いえ――」
 何と挨拶すべきか迷い、まずは食卓に招かれたことに礼を述べた。
 和平に向けた話に取り掛かるべきか、それとも拙速すぎるだろうか。
「そういえば、ここに来る際改めて感じましたが、廊下を楽に歩いて来れました。余り水の抵抗感が無いないのですね」
 ここまでは窓のない廊下を歩いてきた。少し足の運びは重かったが、水の中にいるとは思えないほど身体は楽に動かせた。
「私の身を覆うこの空気の膜もそうですが、これは今、私のみの為に仕立てられたものではないのだと感じます」
 レイラジェは頷いた。
「かつては慶賀使が行き来していた。その名残だ」
「慶賀使――」
 大戦以前、両国間の国交がまだあった頃の話だ。
「失礼ながら、貴方はその頃からおいでなのですか」
 レイラジェがかつてを知っているのなら、和平をもって当時に戻ろうと考える素地はあるだろう。
 ヴィルトールの問いにレイラジェは頷き、ヴィルトールは内心息を吐いた。足掛かりが一つ。
 そして、レイラジェがルシファーと関わりが深いことの理由の一つも、そこに窺える気がした。
 ルシファーとのことをどの時点で尋ねるか。どのような関係があったのか、ボードヴィルへルシファーを訪ねてきていたのは何のためか。
(上手く聞き出して話を持って行かなくては、イリヤを追い込みかねない)
 足下が揺れ、部屋全体が揺れたのだと気づき、視線を窓へ向ける。
 窓とは言っても地上のように広くはなく、盾ほどの大きさの開口部が間隔を開けて並んでいる。
 そこから青い光が溢れていた。
「ファロスファレナが浮上しているのだ」
 その言葉はボードヴィルでも伝え聞いた皇都イスの浮上を思い起こさせ、ヴィルトールに緊張を覚えさせたが、レイラジェはそれまでと変わらない様子で椅子から立ち上がった。
「浮上まで、外をご覧になるといい。すぐそこが物見台になっている」
 先に立ってレイラジェは歩いていく。窓側の壁に一つ扉があり、レイラジェが歩み寄ると兵士が素早く扉を開く。
 ヴィルトールは昨夜の暗く重量を感じさせる海中を思い起こし、やや構え、かつ少なからぬ興味と共に扉へ近付いた。



 一歩、外に出て、目の前に広がった光景にヴィルトールは声もなく息を呑んだ。

 光。

 果てない広がり。
 最初に感じたのはそれだ。
 揺らぐ光が、頭上から幾筋も降り注いでいる。
 光はゆらゆらと、時に混じり合いながら拡散し、青く透明に輝く、澄んだ世界をどこまでも照らし出していた。
 足下から浮かび来る白い泡がそこここに立ち昇り、空へと吸い込まれていく。群れをなして泳ぐ魚の、銀色の鱗が弾く陽光。
 視線を遠く投げれば、世界は地上よりもなお果てを感じさせず、濃い青を重ねながら続いていた。
 美しい世界だ。
 これまで西海に抱いていた印象とは、全く重ならない。昨夜見た、あの暗く重い、押し込められるような水の檻と同じ場所とは全く思えなかった。
「これは、すごい」
 単純な、そんな感想だけが口から溢れる。
 ふと視線を巡らせ、ヴィルトールは灰色の瞳をもう一度見張った。
 要塞のすぐ下に街がある。昨夜は側面から見ただけで、ごつごつした岩肌に窓や扉がいくつも穿たれている様子が、軍都という言葉に相応しく物々しさを覚えさせた。
 しかし今、ヴィルトールの眼下にはレイラジェが軍都――都と言った意味が形となって広がっている。
 敷き詰められたように並ぶ屋根の色は鮮やかな色彩で、色とりどりの花を散らしたように見えた。
 ヴィルトールが今いる場所は高台になっている。昨夜見た、一際高い場所にあった城の部分だろう。全体が縦長の構造は巨大な海洋生物のように見えたが、城はそのの部分に位置し、後方へ長く街が伸びている。
 弾ける響きに目を向ければ、城の足元辺り、屋根の上に数人の子供達が遊んでいるのが見えた。
 驚き、そして納得したのは、屋根の上を飛び回るようなその動きが、海中ならではだと今更ながらに実感したからだ。
(水の中だから、空でもどこでも遊べるのか。すごいな。エリィがどれだけ羨ましがるか)
 彼の幼い娘の顔を思い浮かべ、きっとこの光景を見たら自分も空を飛んで遊びたいとせがむだろうと笑った。満足するまで何を言っても帰らないに違いない。
 子供達のはしゃぐ声はヴィルトールには聞き慣れたものだ。そしてとても懐かしい。
 再び頭上を見上げれば、身を洗うような光が全身に降り注いでくる。
「――」
 ヴィルトールはゆっくり、息を吐いた。
 ゆっくりと。浮かんだ想いを見据える。
 これまでヴィルトールは、和平を自分達の視点だけで見て、考えていた。
 イリヤを救う為、彼とその妻と子供の為、ヴィルトール自身が再び妻と娘に会う為、ボードヴィルの兵や人々の為、レオアリスの為、ファルシオンの為、王都の人々、アレウス王国の人々の為――
 その中に、西海の人々の姿は無かった。
 今、この光景を目にして初めてそれに気付いたことが、ヴィルトールにとっては少なからず衝撃だった。
 海の中で遊ぶ子供達は間違いなく、ヴィルトールが片時も忘れずにいる彼の娘と同じ姿をしている。
 同じように笑い、同じように生きている。
「――そうか」
 呟いた時、「どうかされたか」と声がかかり、ヴィルトールは振り返った。レイラジェが物見台に巡らされた手摺に手を置き、ヴィルトールへ視線を向けている。
 ヴィルトールは彼へと向き直った。
「いえ――あなた方は新しい視点を私にくれました」
 レイラジェはその言葉をどう思ったのか、黙したままヴィルトールの前まで歩く。やや手前で立ち止まり、その面を巡らせた。
「貴殿はこの世界をどう思う。どう見る」
 試すが如き質問だ。そこを間違えればレイラジェとの距離は開くかもしれない。
 ヴィルトールは視線を逸らさずレイラジェを見た。
「何と美しいのかと、そう思います。これほど美しい光景は地上にもそうは無い」
 レイラジェの眼差しは厳しく、ふと浮かびかけた色は嘲笑か、失望に近い。だが、ヴィルトールが継いだ言葉にその色を変えた。
「そしてまた、これほど恐ろしい世界も地上には無いでしょう」
 表情の読み取りにくい面を、レイラジェは微かに緩めたようだった。




「さて、何から語ろう――」
 レイラジェは食卓に着き、改めてヴィルトールへ銀貨のような双眸を向けた。
 ファロスファレナはその一部、城の部分だけが海上に浮上していた。遠目から見ればその姿は、海上に突如として島があらわれたかのように見えるだろう。西海の都市を見た船乗り達の間には、一夜で消える島の伝説があったかもしれない。
 食堂は水の膜を通さない素のままの陽光が差し込み、先ほどよりも明るさを増している。室内を満たしていた水は引き、それを待って食卓へ、様々な料理を盛り付けた皿が運ばれた。ヴィルトールから見ても違和感のない料理だ。レイラジェは時折食卓に上らせるものだと、そんなことを言った。
「共に事に取り組むのであれば、互いの目的を共有しなくてはならない」
 ヴィルトールはレイラジェに対し、真正面に向き合うことを選んだ。
 言葉を飾るべきではない。
「同感です。私が望むのはまずは停戦、そして、和平です」
 レイラジェの表情に驚いた色は無い。
「私が持っている情報は余り多くはありませんが、可能な限りお話ししましょう」
 レイラジェが笑みを刷く。そして明瞭に告げた。
「我らの望みは、西海の平穏――」
 静かな、確たる口調で続ける。「海皇と、ナジャルの打倒。新たな国家体制の構築」
 ヴィルトールの表情にもまた、驚きがないことを見て取り、レイラジェは椅子の背もたれに頭を預けた。
 束の間、沈黙が落ちる。
 それはほどもなく解かれた。
「まず御方――ルシファー様について話さねばなるまい」
 食堂の中を、光と共に風が流れる。
「我々はあの方を、我等が皇太子の妃として迎えたいと考えていたのだ」


















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2020.1.19
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