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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

二十九

 

 海面を抜けて落ちてくる拡散した陽光が、青く澄んだ海を進む巨大な鯨の姿を柔らかに照らしていた。
 ただその身体は岩の塊で造られ、頭部には物見台や城壁を有する砦、背には幾層にも重なる街を負っている。
 ファロスファレナ――『灯台鯨』の名を冠し、およそ五万人が暮らす西海軍第二軍の軍都だ。
 流れる柔らかな海水に身を撫でられながら、物見台の上で前方を見据えていた第二軍の兵は、視線の先で海水が歪んだことに気付き、もう少し良く確認しようと身を乗り出した。
『何だ――』
 次の瞬間、ぞわりと首筋が粟立つ。
 たった今まで何もなかったはずのそこに、黒々とした、巨大な塊が出現し、浮かんでいた。
 およそ二海里(4㎞)先。
 ファロスファレナの進路の直線上だ。
 その姿。
 息を呑み、声を張り上げる。
『ほ――北東より、進軍――ッ!』
 物見兵の緊張を帯びた叫びが落ち、すぐ下の城壁にいた将校が兵士のいる物見台へ、水を蹴って跳び乗った。
『進軍だと?!』
 次の言葉を口に出す前に将校の足はその場に釘付けになった。
 浮かぶ黒々とした塊。
 滴に近い紡錘形の、どこか捩れたような、歪さを覚える姿。
 それが何か、将校も、傍らの物見兵も知っている。
『何てことだ』
 物見の兵の声が怖れを帯びて走る。
『第一軍奇襲要塞、ギヨールです!』
 横を向いていた塊がゆっくりと方向変え、ファロスファレナへと紡錘形の尖った先端を向ける。その先端が花が花弁を開くように、八方へ開いて行く。
 はっとして、将校は物見台の警笛の取手を引ったくり引いた。
 ファロスファレナへ、甲高い警笛が鳴り響く。
『防御態勢――』
 直後、海水全体が振動し、二人のいた物見台が一瞬にして弾け飛んだ。




 ミュイルは足元から伝わった振動に、素早く辺りを見回した。
 西海の、ファロスファレナの広間だ。
 振動と、そしてボードヴィルと繋いでいた道が途切れかけたのを感じ、すんでのところでヴィルトールごとこの場へ戻った。
「ミュイル大将!」
 ヴィルトールの問いかけが聞こえたが、ミュイルはそれには応えず広間の窓へと走り寄った。小さな開口部から外を覗き、並んだ窓の横を走って露台への扉から外へ出る。
 周囲から慌ただしさが伝わってくる。叫ぶ声、まだ揺れている足元。
 ただならぬことが起こっていると、海水を震わせ伝わって来る。
『何だ』
 広い露台の手摺りに駆け寄り、思わず呻き声を上げた。
 砦の形が変わっている。所々が崩れ落ち、無残な傷跡を晒していた。崩れた欠片や外壁上に居ただろう兵士達が漂っているのが見えた。
 そしてその先、前方にある黒々とした影。
 ミュイルは奥歯を鳴らした。
『ギヨール――!』
 紡錘形の特徴的な形状は第一軍の精鋭部隊の要塞、ギヨールだ。後方部が丸みを帯び、前方は鋭利に尖っている。その前方は蛸や烏賊の触腕に似た可動部であり、それが捻るように束ねられ銛のような尖端を形作っていた。
 その三つの特徴的な機能と、任務も良く知られている。
 ギヨールが有する機能の一つは外皮の擬態色。たった今、監視の目をくぐりファロスファレナの正面に現われたその理由となる機能だ。
 そして任務は、擬態色を駆使した奇襲。
『あれが来たってことは、もう完全にバレてやがるな』
 ミュイルは諦念の籠もった息を吐き出した。そして、ギヨールが強襲したその理由の奥にあるものに、胃の奥に塊が迫り上がるような危機感を覚える。
(閣下)
 レイラジェは海皇の召命を受け、イスにいる。
 迫り上がる危機感をミュイルはぐっと噛み殺した。
(今更、取り繕おうとしても無駄だろう)
 だが、攻撃を甘んじて受けるつもりも欠片も無い。ここには二万の兵とその家族達がいる。
『戦うのみだ』
『大将!』
 ミュイルの姿を見付けて駆け寄る二名の将官へ、ミュイルは素早く指示を出した。
『第二波に備えろ! 全面に水流展開! 住民は内部へ避難させろ!』
 ギヨールの先端が再び、花が咲くように開いて行く。
 その触腕が水を振動させ、強烈な振動波を発生させる。
 先ほどの揺れ、そして外壁を破壊したのは、ギヨールを特徴付ける二つ目の機能。
 あの八本の可動部を振動させて発した、振動波だ。
 物見兵の声が走る。
『振動波、第二波――、来ます!』
『水流展開!』
 ファロスファレナが巨大な身を揺する。
 海流がその身を取り巻いて流れる。
 ギヨールから放たれた二度目の振動波が、ファロスファレナを取り巻く水流と、激しくぶつかり合い、海域を揺さぶった。
 周囲に幾つもの渦が生じ、海面へと伸びる。海面は轟音を立て、うねり泡立った。






『跪け。海皇陛下の御前だ』
 イスの謁見の間、レイラジェはその中央に立った。前方の第一軍将軍フォルカロルと第三軍将軍ヴォダ、背後の百を越える兵達。
 きざはしの下にナジャル。
 そして壇上の玉座の海皇。
『――』
 昏い階の上からゆっくりと、闇の塊がなだれ落ちてくる。
『跪けと言っている!』
 立ったままのレイラジェに苛立ち、フォルカロルは自らの手にしていた矛でレイラジェの右脚を激しく打った。レイラジェが顔を歪め、右膝を落とす。その肩へ、フォルカロルは振り上げた矛を切り裂く勢いで振り下ろした。
 レイラジェの肩を覆うように短い矛が複数出現する。フォルカロルの矛の刃がレイラジェの矛の柄に阻まれ、止まる。受け止めた斬撃の重みにレイラジェの体が押し込まれ、右手をついた。
 現われた矛と、尚も身を起こそうとするレイラジェに、フォルカロルが苛立ち声を軋らせる。
『貴様――まだ抵抗するか! 良い、ならばこのまま殺してやる――』
『まあ待つがいい』
 兵達へと上げかけた手を、フォルカロルは止めた。背後のナジャルへ視線を投げ、腹立たしそうに、やや怯えを隠して黙り込み、矛を引く。
 ナジャルはその双眸を細め、レイラジェへ据えた。
『レイラジェ、もう一度だけ問おう』
 フォルカロルの矛から解放され、レイラジェは右手をついていた身体を起こした。視線をナジャルへと上げる。
 ナジャルの足元へ、階の上から闇が落ちて来ている。
 じわりと広がる。ゆっくり、床を這ってくる。ナジャルの姿もまた、闇と一体になったかのような錯覚を与えていた。
『これは疑問ではない。お前はただ頷くしかない問いかけだ』
 舌舐めずりを思わせる気配が、膝をついた床からレイラジェの身体を這い上る。その気配が身体を呪縛し、指先一つ動かそうとするのも困難だった。
『貴殿が穏健派を率いているのだろう?』
『――』
 先ほどから、この場を抜けようと試みている。
 だが、足元はただの硬質な床でしかない。普段は容易い移動のすべが、今は一切封じられている。
 ナジャルの気配が一段濃くなり、レイラジェはその位置を確認した。まだ、一歩も動いていない。だが。
『何故なのだね?』
 言葉そのものは穏やかだ。
『貴殿は以前、皇太子殿下との親交はなかったように記憶しているが――』
 蛇の舌先がちらちらと見え隠れするような感覚。
『あの時、貴殿がもしも表立って皇太子殿下をお支えしていれば、殿下はお命を落とされることもなかったのではないかね? 今になって、皇太子殿下の理念に啓蒙されたということか――?』
 ナジャルの姿は闇に揺れている。この場を囲む兵達が恐怖に硬直しているのが分かった。フォルカロルやヴォダでさえ、後退りたいのを堪えている。
『当時皇太子殿下の理念を一顧だにせなかった貴殿が、今頃になって何故穏健派などを率い、平穏な世などとそのような腑抜けた望みを抱いているのか。恥ずべき変節とは思わないのかね? いやいや』
 ナジャルの口が耳元まで裂け、深く、おぞましい笑みを形づくる。
『これは変節の方がまだ節度があるというものではないか? 先の折は我が身可愛さに皇太子殿下を見殺しにしたのだと、そう言った方がいっそ誠実と言うもの』
 レイラジェは湧き上がる感情を抑え、声を押し出した。
『好きに言え』
 同時に、レイラジェは呪縛を断ち切り、立ち上がった。
 その上体を取り囲み、短い柄を持つ片刃の矛が放射線を描いて並ぶ。
 取り囲む兵士達が息を呑み、身を打たれたように後退る。
『貴様――!』
 フォルカロルは吼え、強烈な斬撃を振り下ろした。レイラジェの視線が動き、放射の鉾の一部が回転する。フォルカロルの矛の刃を回転が弾き上げる。一瞬遅れ、高い金属音が響いた。
 フォルカロルが弾かれた矛を構え直す。痺れた手に力を取り戻そうと、二、三度握り込んだ。
 苛立ちに奥歯を鳴らす。
『ヴォダ、ナジャル、手出し無用! 海皇陛下――この裏切り者の始末、我にお任せを――!』
 一度石突で床を突き、反動ごと矛を両手で回転させながら頭上へと掲げた。
 その回転数が上がると共に、謁見の間を満たす海水も渦巻いていく。
 発生した渦は、フォルカロルの頭上に長く身を揺らした。柱や天井に揺れる旗が渦に飲み込まれ、中心のフォルカロルの矛に触れて千切れる。取り囲んでいた兵達の一人が足を滑らせ、あっという間に渦に飲まれたと思うと短い断末魔を上げた。渦が赤く染まる。
『フォルカロルめ、陛下の前で功をがめ・・ようなどと』
 ヴォダは舌打ちし、だがその場から身を引いた。
『俺の部下は連れて行くぞ。巻き込まれては叶わん』
 最後に残った声と共に、謁見の間を埋めていた兵士の半数が次々と消える。
 フォルカロルは作り出した渦と共にレイラジェへと突き掛かった。















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2020.4.26
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