二十八
ヒースウッドが倒れ、事切れた床を、誰もが束の間無言のまま見つめていた。
白銀の鎧はあちこちが凹み、だが未だ彼の身体を守り覆っている。
それでもその鎧の下には次第に血溜まりが広がっていた。
「――」
ソローは息を吐き、剣を取り落とし空になった両手を開いて、じっと見た。疲労が身体にのし掛かるようだ。
残った八人の将校達も、ウォルターやオーリ、そしてイリヤも誰も動かず、外の喧騒が時折大きくなり、伝わってくる。
静けさの中に複数の足音が近付き、やがて扉を潜り、ワッツが室内に入った。
室内の状況を見て取り、ワッツは分厚い掌で首の後ろをさすり、ごきりと首を鳴らした。
「――街も、砦城内も全て一刻の内に掌握が完了する」
ウォルターとオーリ、そしてワッツと共に入ったダンリーが手にしていた剣を鞘に収める。
ソロー達は俯いていたが、その脇をイリヤが進み出た。
「ワッツ中将――」
ワッツの緑の瞳がイリヤを捉える。イリヤはもう一歩、前に出た。
「投降します。ソロー少将達は」
自分の名前にソロー達は一瞬、身を縮めた。
「彼等は私に、自らの過ちを認め、旗を下ろすよう願い出ました」
弾かれたようにソローは顔を上げた。
イリヤの横顔は、左の緑の色だけが見える。
「不必要な血を流してしまった。エメル中将も、ヒースウッド中将も。もう、充分です。これ以上ボードヴィルの血を流すつもりはありません。投降を受諾いただけるよう、どうか」
「――お前さん」
ワッツは口の中で呟き、だがそれを飲み込んだ。
「受諾しよう。貴方の身柄はまずは正規軍将軍アスタロト閣下が預かる」
イリヤは頭を下げ、再びその背を真っ直ぐに伸ばした。
これで終わりではない。まだこれから、イリヤは自らの役割と責務を果たさなくてはならない。
「ウォルター、オーリ、お連れしろ」
「はっ」
二人がイリヤの両脇へと立つ。ワッツは廊下へと出ていくイリヤを見送り、その身体をソロー達へ向けた。
「お前等も自分の足で出るな?」
ソローが無言で敬礼を向け、空の手のまま廊下へと向かう。他の将校達も同様に廊下へ出て、そこにいた兵達に周りを囲まれながら歩いて行く。
ワッツは室内を振り返った。
「エメルは悪運も尽きたか」
倒れているエメルと、ヒースウッド、二つの亡骸へ視線を落とし、窓の外へ一度目を向ける。
「最期にここじゃなく、違う場所に居たかったんだろうなぁ、ヒースウッド」
この国を騒がせ揺るがした行為はこれから改めて裁かれるが、亡骸はせめて丁寧に葬るべきだろう。
廊下に残っていた兵二人にこの入り口を見張るよう指示し、ワッツはその場を離れた。
イリヤが投降し――ワッツとしては悔いが残るが――、砦城に僅かに残ったままだった王太子旗も順次下されている。
ボードヴィルの中はこれで蹴りが付いた。
「とは言え、まだ肝心の大物が残ってるからな」
ルシファーと、風竜。
この二者を倒さなくては、サランセラムの戦いは幕を下ろせない。
消えたアスタロトと、そしてアルケサスにいるはずのレオアリス。二人が今どうしているか、おそらく困難なはずのその戦場を、ワッツは想像することもできなかった。
再び湖に沈む。身体に泡と水が纏い付く。
火傷を負った腕の痛みと、喉の奥に水が流れ込む苦しさ。それらがごちゃ混ぜに意識を覆い尽くそうとする。
何より呼吸を奪われる、恐怖――
(駄目だ、呑まれちゃ)
冷静にならなくては。
アスタロトは必死に手を伸ばした。明るい方へ、水面へ。
顔を出した瞬間、息をつく間も無く上空から風の礫が降り注ぐ。石を投げ落としたかのように水面に無数の水柱が立つ。
「ッ」
腕や頬を風の礫が打ち、切り裂く。堪らずアスタロトは再び水中に身を沈めて逃れた。一呼吸だけできたのが幸いだ。けれどこのままでは浮かび上がることもできない。肺の酸素などすぐに尽きる。
(どうする)
陸に上がらなくては、反撃もままならない。少しでも不利ではない場所に行きたいが、ルシファーはそれすらさせてくれないだろうし、場所を移しても勝つ手が見えない。
(どうしたらいい)
空も、地上も、水中も。全てがアスタロトにとって不利だ。
あまりにも風を自由自在に操る。
彼女の言うとおり、経験の差が大きい。
肺が酸素を求めて内側に縮まって行く感覚。苦しさのあまり視界が霞んだ。
(――このまま、ここにいたってどうせ死ぬ)
何の意味もなく。
顔を上げ、アスタロトは水を蹴った。
水面から顔を出し、ほんの束の間、息を吸い込む。風の礫が空を切る甲高い音。水面を目がけ無数に降り注ぐ。
空高くに、ルシファーの白い姿が浮かんでいる。
だがアスタロトは次は水中へ沈まず、もう一度息を大きく吸い込んだ。礫が肩を撃ち、頬を切り裂く。耳を鋭い音が叩く。痛みと逃げたがる身体を堪え、唯一、覚えている術式を唱えた。
降り注ぐ風の礫を受けたまま、術式を唱え切る。
次の瞬間、アスタロトは先ほど降りた湿地の上にいた。湿地に倒れ込み、泥に塗れながらもようやく、水中から逃れられたことに荒い息を繰り返す。
(出れた)
転位の術式だ。以前地中に落ちて閉じ込められ、だからこの法術だけは覚えた。
礫を受けた肩や背を鈍痛と熱が覆い、血が流れている。
風切音が響く。先ほどとは違う、その鋭く笛のように甲高い音。
「――っ」
起こしかけた身体を再び湿地に伏せた。アスタロトの首があった場所を透明な、円盤に似た風の刃が疾る。
後方にあった木立が巨大な斧と化して刈り取る。
再び、風切音。
持ち上げた視線が迫る風の刃を捉える。
アスタロトは腕に炎を纏わせ、風に向かって振った。
炎が風を巻き込み、喰らう。
風の刃は激しい炎に飲まれ、アスタロトの額に触れる直前で消失した。
息を吐く。
「少しは戦えるかしら?」
柔らかな笑みを含んだ声が問う。
アスタロトは全身から滴を滴らせながら、空に顔を上げルシファーを見据えた。
「戦うよ」
「その腕と、身体で?」
両腕はじりじりと熱と疼きを帯びている。風礫を受けた箇所の痛みと、切り裂かれた傷から流れる血。アスタロトは既に満身創痍で、それなのにルシファーは居間の椅子に腰掛けているだけに見える。
「死んでしまうわよ」
アスタロトの印象そのままに、ルシファーは膝の上に頬杖をついた。淡く色付いた唇が微笑む。
「まあそうするつもりなのだけど。だから逃げたっていいのよ? あなたの部下は誰も見ていないのだし恥ではないわ。――あなたに命乞いをされるのなら、私も考えを変えてもいい」
アスタロトは荒い呼吸を繰り返したまま、真っ直ぐ見つめた。
見下ろす暁の瞳。澄んで深いその瞳は、王都にいる時の記憶から変わらない。
死ぬのは、怖い。
何をしても勝てないかもしれないという想いが、この場に立つ前よりも強い。
(でも)
誰かが見ているとかいないとか、関係ない。
死ぬかもしれない?
そんなことは承知の上だ。
そうでなければ、この風の王とは向き合えない。
向き合う。
その為にも来たのだ。
王都で、そしていつだったか、ここではない別の湖の上で会った時――彼女の印象が、時々、泣いているように見えたから。
(もっとあの時、私がファーと……全部としっかり向き合っていれば、今の状況は変わったのかな)
思い上がりだろう、それは。
瞳を閉じ、上げる。
「私は、戦う。炎帝公として。――あなたの、友人として。もう終わらせたいって、あなたが思ってるから」
暁の瞳が束の間見開かれ、そして不快そうに細まる。
「――くだらないわ。私とまともに戦うこともできないくせに」
ルシファーは空の中にすうっと立ち上がった。その身体を風が渦巻き始める。
ゆるく。
次第に早く。
「私にすら勝てないのなら、生き延びてもどうせナジャルと戦えば死ぬのだから、ここで死になさい」
アスタロトの足元の湿地が風に煽られて波打つ。草や土、水が風に巻き上がる。耳元で唸りが響く。
「ここで死ねばナジャルに喰われなくて済む。あなたの部下達が、国が――レオアリスが、ナジャルに喰われるところも見なくても済むわ」
淡く微笑む、花弁のような唇。
「勝つよ」
微笑みが失せる。
苛立ちが浮かんだ。
「決意なんてね――すれば必ず実を結ぶものじゃないのよ」
渦巻いていた風が塊となって押し寄せる。
アスタロトもまた身体の周囲に炎を纏った。
渦巻き立ち上がる炎が風を喰らう。火炎が周囲を焦がし、足元の湿地から水が蒸発する。
「同じことよ」
風が巻き上げた水の塊が、頭上からアスタロト目がけて桶の水をひっくり返したように落ちる。
炎に触れ、大量の水蒸気が一瞬にして辺りを白く曇らせた。
「――ッ」
蒸気が肌を焦がす。
だがアスタロトは歯を食いしばって苦痛を飲み込み、更に、炎に集中した。
勢いを増した炎が、アスタロトを中心に放射状に広がる。水蒸気すら瞬時に掻き消す。
ほぼ二十間(約60m)四方、一帯に広がるのは先ほどまでの湿地ではなく、砂漠の如くひび割れた地面だ。
アスタロトは息をつかず、無数の炎の矢を撃ち出した。
ルシファーの風の前に炎の矢が霧散する。そのまま風の渦は一瞬失せ、巻き込んだ炎をやり過ごし、そして再び渦巻く。
アスタロトは一歩踏み出した。
ルシファーの周囲に炎の壁が生じ、包み込む。
その炎が、次の瞬間には消失した。ルシファーは火傷一つ負っていない。
肩で息を吐く。
「消耗戦になるのかしら。でもあなたが私に近付けない以上、あまり打つ手はないでしょう。ずっとこのままだったら結果は見えているのではない?」
「解ってる」
風を巻き込み炎の威力を上げてもすぐに消されてしまう。近付かなくては、遠間からの攻撃ではルシファーを捉えきることができないのはもう判っていた。ルシファーの言うとおり消耗戦だ。それはアスタロトに不利だった。
水蒸気を浴びた身体は皮膚が焼け、全身痛みを訴えている。
(何度もは、さすがに耐え切れないや)
近付かなくては。
空に風が渦巻き始める。水面から水が巻き上がる。竜巻の周囲に浮かぶのは一つ一つが円盤状に渦巻く、九つの風の刃だ。
「――もう、終わりになさい。諦めて。苦しみを長引かせなくたっていいわ」
「諦めない」
アスタロトは空に浮かぶ姿を見つめ、術式を口ずさんだ。
「転位――? 逃げる気になったのかしら。今更もう遅いけど」
九つの風の刃が一度に撃ち出される。四方から、アスタロトを目掛け甲高い唸りを上げる。
アスタロトは身体の周囲に炎を巻き上げた。最大の、火焔流。風の刃を巻き込み、喰らう。喰らいきれなかった刃が腕を、脚を裂く。紅い血が風と炎の中に散った。
「同じことばかりね――無駄なのに」
竜巻に吸い上げられた湖の水が降り注ぐ。火焔流に触れ、瞬く間に蒸発した。辺りが白く染まる。肌が炙られる。
アスタロトは詠唱を唱えきり、水蒸気へ手を突っ込んだ。
灼ける腕に構わず、掴む。
ルシファーの腕だ。
驚いた瞳が目の前にあった。
「何――」
「転位って、ただ移動するだけじゃないんだって。そこにあるものを入れ替えるんだよ」
引き寄せ、抱きしめる。
「ファー」
ルシファーは自身の肌も焼く水蒸気に悲鳴を上げた。突風が水蒸気を吹き散らす。
辺りは束の間、静寂に満ちた。
「近付けた」
自分ごと、再び呼び起こした火焔流に包み込む。
炎の高熱がルシファーを包み、ルシファーは喉をのけ反らせて声にならない悲鳴を上げた。苦しむ手がアスタロトの肩を掴み、爪が食い込む。
「ファー、もう止めよう。終わらせよう。あなたの話を聞きたい。何が悲しくて、何を憎んだのか」
抱きしめる腕にもう少し力を込める。
今、こんな状況でも、この女性が好きだ。
優しく、悪戯っぽく、微笑んでくれた日々があるから。
戻れなくても。
「ファー――」
苦痛にのけ反っていたルシファーの口元に、淡く笑みが閃いた。
アスタロトの肩を掴んでいた両手が離れ、背中に回る。
「ファ」
頭がぐいと後ろへ引かれる。ルシファーの手が括った髪を掴んでいる。
笑みは尚更深まった。
「くだらないわ――」
「っ」
炎が、いつの間にか消えている。
髪を掴む強い力と、息苦しさにアスタロトは喉を反らせ、そして喘いだ。
苦しい。
呼吸ができない。
暁の瞳が覆いかぶさるように覗き込む。焼けた頬に浮かぶ、それでも美しい笑み。
「前に教えてあげたでしょう? 火を起こすよりも、消す方が簡単だって。あなたが私の館を訪ねて来た、あの時に――」
アスタロトの脳裏に、声が蘇る。
海の中に沈んだような夜の館。
『消すときはもっと簡単よ。酸素を断っちゃえばいいから』
「忘れてしまってはダメよ」
ルシファーは美しく微笑んだ。あの夜のように。
「――」
息を吸おうとしても、肺にほとんど入ってこない。
苦しい。
ルシファーを抱きしめていた腕が解け、自分の喉を掴んだ。
「あ」
微笑みが、細い身体が離れる。
涙に滲む瞳が、ルシファーの身体との間にあるモノを捉えた。微かに視界を妨げる、薄い膜のようなもの――それは球体状にアスタロトを包んでいた。
「可哀想だからほんの少しは残しておいてあげる。でもその中で炎を使えば全て無くなるわ。あなたがその檻を壊す前にね」
冷えた眼差しには、声に含まれるような柔らかさはない。
微笑みにも。
「残念。私を殺せなかった。あなたの部下達は巻き込まないつもりでいたけど、仕方がないわね」
「待っ」
伸ばそうとした腕があまりに重い。その動きだけで球体の中に残った僅かな酸素を消費する。
頭が何かで殴られているようにガンガンと痛む。吐き気がこみ上げる。
視界が霞む。
勝てない。
どうやっても、ルシファーの能力が上回る。
「せめて最期まで見守っていてあげる。安心して死になさい」
死ぬ――
そう、死ぬ。
意識が鈍く、死への恐怖も鈍かった。
身体が球体の中に倒れる。
手を伸ばした自分の指先が霞んでいる。
もういいと、そんな思いが心の中に満ちた。
もう、できることがない。
ここで。
(ここで――、私が死んだら、どうなる)
このまま、ルシファーはここに留まってなどいない。
ボードヴィルに戻る。
(ダメだ……それは)
それとも、アルケサスに。
(だ……めだ)
レオアリスは今戦っているはずだ。風竜はここに来ていないのだから。
遠いアルケサス。
見たこともない砂漠。
そこで、姿は見えないけれど。
アスタロトがここで死んでしまったら。
(それは、駄目だ――)
視界が赤く染まる。
「――」
よろめく身体を引きずるように立ち上がったアスタロトを、ルシファーは瞳がそこに釘付けになったかのように見つめた。
裂傷から血が滲み、溢れ、滴る。
酸素はほとんど絶たれ、動けばそれだけ死に近づく。
「――止めなさい。無駄な足掻きを……見苦しい」
アスタロトは身を起こし、球体の中で一歩、前へ出た。
俯いた口元から大量の血が吐き出され、足元に滴り濡らす。
血で濡れた掌を球体の見えない壁につく。血の跡が壁にべとりと筋を引いた。その掌から炎が溢れ出す。
「止めなさい!」
ルシファーのすぐ横に風の刃が生じる。
「止めないのなら今すぐ――」
球体の中に炎が渦巻く。
「アスタロト!」
炎は瞬く間に球体の内部を、完全に埋め尽くした。
伸ばしかけた手が、止まる。
子供のようなやや小さい手が、後ろから肘を掴んでいる。
「止めるのは君だ、ルシファー」
「ッ」
振り返った先に、アルジマールの姿を睨んだ。
アルジマールの背後は空間が揺らぎ、そこにサランセラムの丘が歪みながら浮かんでいる。
アルジマールは虹色の瞳をルシファーに据えた。
「ボードヴィルに戻るよ。もうボードヴィルは陥ちた」
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