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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

二十七

 

「殿下!」
 身体が腕ごと後ろに引かれ、誰かの身体にぶつかって止まる。見上げた先の顔はイリヤには見覚えがなかった。
 二人、この場に飛び込んできた新たな兵士――ワッツの部下のウォルターとオーリだ。ウォルターがイリヤを抱え、オーリはエメルに対して剣を抜いた。慎重にその場を見渡す。
「申し上げます。街門は解放されました。ワッツ中将がもうすぐ来られるでしょう。エメル中将、少将、准将方、この場の判断はもうワッツ中将と王都軍に委ねましょう」
 ソロー達が顔を見合わせる。
 戸惑い、けれどイリヤと、床に組み敷かれているヒースウッドと、俯いているエメルを見つめ、ややあって溜息を落とした。
「分かった――」
 ソローの手から剣が落ちる。
「俺達ももう」
「お、俺は!」
 叫んだのはエメルだ。
 エメルはどす黒く染めた顔を上げ、不意に吠えオーリを突き飛ばすと、左手に掴んだ剣を腰だめに構えイリヤへ突進した。
 切っ先が金属を削る音を鳴らし、そのまま肉に埋まる湿った音に変わる。
 イリヤは息を呑んだ。
「ヒースウッド中将!」
 エメルの剣はヒースウッドの腹、ちょうど鎧の継ぎ目を砕いて刀身の半ばまで埋まっている。
 一呼吸後、ヒースウッドの喉から鮮血が溢れ出た。
「どけ! 裏切り者共め――」
 エメルが剣を引く。ヒースウッドは左手を伸ばしてエメルの腕を掴むと、よろめく身体を足を開いて踏ん張り、右手の剣を高く上げ、振り下ろした。
「放――」
 鈍い音と共にエメルの首が撥ね飛ぶ。
「き、貴様こそ、裏切り者だ……」
 首を失ったエメルの身体が血を吹き出しながら傾ぎ、音を立てて倒れる。ヒースウッドは返り血と自らの血とで白銀の鎧を真っ赤に染め、そのまま数歩、よろめきながら前に出た。
「ヒースウッド殿――」
 ソロー達が呻き、後退り、輪が広がる。
 イリヤは白銀の背に手を伸ばしたが指先は届かず、ヒースウッドは尚もよろめき、一歩一歩足を踏み出して行く。足元の床に血の筋を引く。
「――ァー、様……」
 白く輝く面頬の覆いの中で、口の端から血の泡を吹き出しながら、ヒースウッドは掠れた声を押し出した。
「貴女を……お守り、しなくては――」
 床に膝が落ちる。
「どちら、に――」
 一瞬、強い風に露台への硝子戸が鳴った。
 ヒースウッドはゆるゆると窓へ顔を向けた。空から、硝子を通して陽光が落ちている。
 もう一度、風は窓をかたりと鳴らした。
 血に汚れ青ざめた頬に笑みが浮かぶ。
「……そこに、おられましたか――今……」
 そのまま床へ、何の抵抗も無く倒れた。








 ルシファーは暁の瞳を上げた。
「ファー」
 呼ばれ、空に向けたそれを、正面の少女に移す。
 鮮やかな炎が自分を映す二つの瞳に踊っている。白い頬に微かな微笑みを浮かべた。
 空と、地上の樹々の緑や燃え立つような紅や輝く黄金色の葉、そして幾つも連なる凪いだ水面。
 美しい場所だ。ここで育つ間、この場所がとても好きだった。
 それを思い出した。
(ずっとそのまま、いられたら良かった)
 風竜と共に空の中に朽ちていけば。



「ファー」
 アスタロトはその名をもう一度、呼んだ。
 ゆっくり息を吐き、そして瞳をやや伏せ――右手を伸ばす。炎を呼び起こす。
 その掌に、柔らかな炎が生まれ、揺れる。
 ルシファーはまた微笑んだ。懐かしくて心を掴まれる。
「迷いはもう無いようね」
「うん。もう大丈夫」
 アスタロトはきっぱりと頷いた。
 本当は、彼女ともっと交わす言葉があるのかもしれない。ようやく言葉を交わせる機会で、これが最後の機会かもしれない。けれどそれをしたら決心が鈍ってしまいそうだ。
 だから、そうしない。
 アスタロトの身体をふわりと炎が包む。それは彼女の身を焼くことなく、湖に落ちて濡れた身体を瞬く間に乾かした。そしてそのまま、身の回りに留まり揺らぐ。
 ルシファーの周囲に風が渦巻くのが、あたかも風が形を持っているかのように見て取れる。
 次の瞬間、アスタロトの全身へどっと風が叩き付けた。
「っ」
 身体の周囲を渦巻き、捻り、擦り潰そうとする力、流れ。
 その流れに炎を解放する。
 風は炎を巻き込み、炎の竜巻となって高く立ち上がった。
「風の中にある炎なら、私が使える」
 風の支配が炎の支配に移る。炎の竜巻――火炎旋風は激しい熱を放って空に弧を描き、ルシファーへと迫った。
 ルシファーを捉える瞬間、その姿が消える。
「!」
 同時に、それまでアスタロトを空に立たせていた見えない足場が消失した。身体が落下する。
 水面が急激に迫る。アスタロトは手を伸ばした。
 火炎旋風が向きを変え、アスタロトの身体を水面に落ちる直前で跳ね上げる。
 アスタロトは後方の緑の草地に降りた。
 とたんに足元が柔く沈む。湿地だ。
 だが踝まで浅い水に浸かったほどで止まった。動き易くはないが、それでも空や湖の上よりもずっとマシだ。
 空に腰掛けたままのルシファーを見上げる。
 身を揺らす火炎旋風をそのままに、アスタロトは右手を伸ばし肩の高さに上げた。開いた五指に添うように炎の矢が生じる。
 中空に照準を据え、アスタロトは矢を打ち出した。
 ルシファーの周囲に風が渦巻く。風の壁に当たり炎の矢は次々と散る。
 尚も炎の矢を生み出す。五本、十本、二十本――無数に、矢継ぎ早に生み出し、射出する。
 全てが一点へと叩き込まれ、だが渦巻く風の盾が炎の矢を一つ残らず巻き取り、ルシファーの髪の毛一筋も掠らない。
 それでも矢を生み出し続けるアスタロトを見下ろし、ルシファーは冷ややかな笑みを浮かべた。
「無駄ね。炎と風は相性が良すぎるわ。そのまま続けても貴女が参ってしまうだけでしょう」
 アスタロトは一度、溜めていた息を吐き出した。
「そうだよ。でも――」
 暁の瞳が見開かれ、アスタロトから自らの周囲へと注がれる。
 風の中に炎が舞っている。
 全て巻き取ったはずの炎だ。
「散っただけで消えてない。だって風は無限にあるから」
 巻き取った。
 だからこそ炎は全て拡散し、ルシファーを包む風の渦の中に残っていた。
 炎が再び膨れ上がり、風の渦の中のルシファーを取り巻く。
 炎に包まれ、ルシファーは身を捩って落下した。湖面へ。
 水柱が立つ。
 その水柱が、膨らんだ。
 アスタロトは踝を濡らす湿地を蹴り、後方へ跳んだ。
 風と共に水の刃が息も付かせず降り注ぐ。肌や髪、軍服を剃刀のように断つ。
 アスタロトが炎を纏う。
 炎に触れた水が瞬時に蒸発する。
 唇を噛み締め、アスタロトはそのまま一歩前へ出た。水の刃は止まることなく降り注いでいる。
(決め手が無い――)
 炎は風に巻き取られる。足元に水は大量にあり、炎は消され、そして水ですらルシファーの武器になる。
 一方でアスタロトにも風は防げる。水の刃も蒸発させられる。
 だからこそ決め手が見つからない。せめてルシファーの動きを止めて、捕らえなくては。
(私の炎で、どうやって)
 風が湖の上で渦を巻き、その水を巻き込み吸い上げる。空へ。
 高音の炎を纏ったアスタロトへ、豪雨となって降り注いだ。
「――!」
 水が炎に触れ、水蒸気が立ち昇る。次々と立ち昇るその高温が一瞬にしてアスタロトを包んだ。
 水蒸気が皮膚を炙る。
 庇うように交差した腕にたちまち水膨れが生じた。
「ッ」
 咄嗟に炎を消し去る。降り注ぐ水はアスタロトの身体を押し流し、背後の木立へと叩き付けた。
 木の幹に背中と頭を打ち付け、視界が霞む。水蒸気で火傷を負った腕がヤスリで擦られるように絶えず痛みと熱を訴えている。
 アスタロトは身体を起こし、唇を噛んで立ち上がった。
 視界が歪んでいる。まだ立ち込めている水蒸気と、それから痛みと。
(――どこ)
 正面はそれまでの湿地の景色が失われ、草と水と泥が辺り一面に散乱している。
 陽炎の向こうに波立つ湖面。
 けれどルシファーの姿が見えない。
 腕を絞るような痛みが覆い、アスタロトは堪らず呻いた。
「水――」
 腕を冷やさなくては。自分のそれを見たく無い。
 絶え間ない痛みを奥歯で噛みしめ、沼のようになった湿地を一歩一歩進み、どうにか湖のほとりに立った。
 澄んだ水に震える腕を浸す。
 その途端迫り上がる呻きを懸命に喉の奥に押し込んだ。
「――っ」
「まだ戦う?」
 息を詰め、振り返る。
 すぐ後ろにルシファーの姿があった。
「諦めた方がいいわ。経験の差が大きいもの」
 柔らかな微笑みが見えた瞬間、アスタロトの身体は湖の中に叩き付けられるように沈んだ。














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2020.4.19
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