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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

二十六

 

「ヴィルトール中将!?」
 驚くイリヤを他所にヴィルトールはどこか面白そうに自分の身体を見回し、それからイリヤを手招いた。その手が薄く透明な膜に覆われている。全身も。
「時間は余りない。君を連れに来た。行こう」
「今までどこに――いえ、どこに行くって」
「どちらも答えは、ファロスファレナだ。西海第二軍の軍都だよ。私は西海の穏健派とそこにいる」
 穏健派、と呟き、イリヤは改めてヴィルトールを見た。それから、壁際の床に置かれていた花瓶に視線を移す。
 あの時、ヴィルトールが姿を消したことにはやはり西海が関わっていたのだと、かつてその力――西海の三の鉾ビュルゲルの力を経験したイリヤだからこそ、すとんと理解できる。ヴィルトールの全身を覆っているもの――水の膜が、あの夜イリヤをファルシオンの居城に連れて行ったように、ヴィルトールをここに出現させたのだと。
 そして、穏健派とはこのボードヴィルに何度か現れた彼等のことだ。
「……その、第二軍の軍都というのは」
 ヴィルトールは前室への扉へ歩き、内輪から鍵が掛かっているのを確認した。「第二軍将軍、レイラジェ殿が率いる穏健派の拠点だよ。彼等と王都とを、私とワッツとで繋いだ。王都側はヴェルナー侯爵、西海側はレイラジェ将軍。そこを結節点として今、和平への道が整いつつある」
 振り返り、イリヤがまだ元の場所から動いていないことに片眉を上げた。
「君がそこに仲介するのが理想だ。君達のために」
 イリヤと――ラナエと、彼等の子供のことを、ヴィルトールは言っている。イリヤは両手を握り込んだ。
 ヴィルトールはイリヤの様子を見つめ、手を差し伸べた。
「ボードヴィルはもう陥ちるだろう。君がここに留まっていたら、その先は見えている」
「判っています、でも」
「ヴィルトール殿」
 二人の姿しかないはずの室内に、やや軋むような声が流れた。ヴィルトールが背後の花瓶を振り返る。そこにいつの間にか、もう一人立っている。
 イリヤは息を呑み、思わず後ろへよろめいた。
「ビュルゲル――」
 歪に突き出た頭と、濡れた青白い肌。
 男の銀色の双眸がイリヤへと向けられる。『なるほど、彼が』
 その呟きはイリヤの知らない言葉だったが、ヴィルトールは驚くことなく振り返った。
「ミュイル大将」
(大将――穏健派の?)
 ミュイルと呼ばれたその西海人は、イリヤからヴィルトールへ視線を移した。
「ヴィルトール殿、悪いが手早く。どうも先ほどから道が安定していない。一度切って繋ぎ直すほどの時間は、ここも無いのだろう」
 ヴィルトールは頷き、イリヤへもう一度手を伸べた。
「彼はミュイルと言って、レイラジェ将軍麾下の大将だ。ビュルゲルとは違うよ」
 イリヤはヴィルトールと、彼がミュイルと呼んだ西海人を見比べ、そして息を吐いた。
「――行けません。俺は、自分の役割を果たさなくては」
 ヴィルトールは差し出した手をまだ下ろしていない。
「君の役割は西海とこの国を繋ぐことだろう。ここで命を落としたらその役割は果たせない」
「いえ。俺の役割はまだあると思っています。ここで。――まだあるというか、ボードヴィルが陥ちた後にこそ」
 迷いを両手に握り込む。
「……だって俺がもし西海にいて、西海から声を発して、王都は果たしてその言葉を信頼するでしょうか」
「――」
「ボードヴィルで旗を掲げて、そして今度は西海から旗を掲げるのは、和平を成立させるためには正しくても、俺には何か、違うんです。こんな、何の力もない俺が、自分勝手なことを言ってるって……分かってます、でも」
 イリヤは顔をしっかり上げた。
「それに、俺が西海にいたら、ファルシオンが困ります。何も確証も保証もないけど、それだけは確かでしょう」
 ヴィルトールは押し黙り、イリヤの言葉を測るように、色違いの瞳を見た。
 ほんの束の間――その沈黙が騒がしい音に破られる。
 足音が廊下に響く。すぐに前室の扉を金属か何かで無遠慮に叩く音が、この居間にも荒々しく届いた。
「いいや、やはり」
 踏み出したヴィルトールの腕を、背後から伸びたミュイルの手が突然掴む。「ヴィルトール殿、すまん!」
 ミュイルの声にはそれまでと違う、焦りがあった。
 振り返りかけたヴィルトールと、その腕を掴んだミュイルの姿がイリヤの目の前から唐突に消えた。
「ヴィルトール中将!?」
 二人がいた床には花瓶からの水が溢れ、そして微かに水面を揺らしている。
 その揺れはすぐに収まり、あとはただイリヤの姿を逆さまに映している。
「――」
 少し息を吐いた。
 これで良かったと、そう思う。
 ただ、ヴィルトールが納得して消えた訳ではない。あの西海人も、イリヤとは別のことを最後は気にしていたように思う。
(何かあって――?)
 前室の扉が激しい音を立てて開き、床を複数の足音が鳴らす。イリヤは小さな水溜りから顔を上げ、前室とを隔てている扉へ向き直った。
 ヴィルトールにああ言ったように、自分にはここでまだやるべきことがある。
 それは決して後ろめたさからではないと、そう思う。
 ラナエや、ファルシオンや、そしてまだ顔も名前も知らない、自分の子供と会うことを諦めた訳ではないと、そう思う。
 部屋の扉が激しく打ち鳴らされる。
「ここを開けていただこう! ミオスティリヤ殿! それとも破られ、強引に捕らえられたいとお考えか!」
 くぐもっていながら鋭い声は、おそらくエメルだろう。
 イリヤは扉へと歩み寄り、把手に手を掛けた。
「ミオスティリヤ殿!」
「今、出ていく――」
 扉の向こうが静かになった。
 息を吐き、鍵を回し、把手を上げる。
 扉を引き開け、イリヤは彼等の前に出た。
 束の間、しんと静まり返る。
 イリヤは彼等と――ボードヴィル右軍中将エメル、中軍少将ソロー、ドレン、カマル、そして准将達、九人と向き合った。
「自分から出てきたのは、良い心がけですな。王太子を騙った最後の矜恃という訳ですか」
 エメルが唇を歪めて笑い、右手を伸ばしてイリヤの腕を掴む。
「参りましょうか」
 丁寧な言葉とは裏原に、エメルはイリヤを半ば引き立て廊下へと向かった。
「待て!」
 鋭い声が耳を打つ。エメルが忌々しそうに足を止め、ソロー達もまた廊下を振り返り、身構えた。
 重い足音と共に、厳しい顔を強張らせ大柄な身体を覆う白銀の鎧を鳴らし、ヒースウッドが扉を潜る。
 エメルと彼が捕らえているイリヤの姿を見てとり、「殿下――」呟いて、双眸に怒りを漲らせ侵入者達を睨んだ。
「貴様等――、貴様等、一体何をしている! エメル! ミオスティリヤ殿下を放せ!」
 ソローは思わず後退り、口籠った。他の将校達も同様だ。ヒースウッドが腰に帯びた剣に手をかけ、更に踏み出す。
 ヒースウッドは白銀の鎧で全身を固め、エメルやソロー達は動きやすさを重視した鎖帷子を主体にした軽装だ。人数的にも九名いるエメル達が有利だが、ヒースウッドは人数の不利も身を鎧う重量も感じさせず、もう一歩踏み出した。
「殿下の居室に許可もなく踏み入り、何をしていると尋ねているのだ! 答えは無いのか!」
 ヒースウッドの声と気迫に打たれ、その場の全員が一瞬言葉を失った。
「我が身惜しさにこのような狼藉を働くなど、軍人として最も恥ずべき行動だ!」
「――ッ」
 ソローの中でおそれと、羞恥より、怒りが勝った。
「貴方が!」
 叫び、ソローは前に出た。
「貴方に何が判る! 誰のせいでこうなったと――貴方は、何を導こうとしていたのだ!」
「ソロー? 何を言っている……我々はこの国の為、ミオスティリヤ殿下をお支えし、お助けしようと考えていたはずだ! 目を覚ませ! 自分が何をやっているのか分かっているのか?!」
 ソローがぐっと息を呑み込む。ヒースウッドは両手を広げた。
「お前達も――! 一度忠義を誓ったお方を裏切るなど、それが正しい行いなのか! 己に恥じぬ行いか!」
 ヒースウッドは慎重に足を進めながら、声を張った。
「今すぐ殿下から手を離せ! お前達はこの国の兵として誇りを持っているはずだ! その誇りを――」
「黙れ!」
 弾く声でソローは叫んだ。その手が剣を引き抜き、その勢いで大振りに振るう。
 切っ先がヒースウッドの頬を裂き、赤い血が散った。
「ソロー!」
「何が誇りだ! もういい加減にしてくれ! 俺達を巻き込むな!」
「何を」
「お前の理想とお前の心中に他人を巻き込むなと言っている」
 皮肉たっぷりの声とともにエメルが嘲笑う。
「な――、何を」
 ヒースウッドは頬を打擲ちょうちゃくされたように身を強張らせ、立ち竦んだ。エメルの言葉と、そしてエメルがイリヤの腕を後ろ手に掴み、喉元に剣を当てているからだ。
「聞こえなかったのか? 巻き込むな、だ」
 エメルは自らの剣をイリヤの喉元に当てつつ、少将達へ剣を抜けと顎をしゃくる。鞘から次々と抜かれる剣を見つめ、ヒースウッドは尚も声を押し出した。
「理想を――共にしたではないか……我等は」
 右足が一歩、後方へ下がる。
「このボードヴィルで、ミオスティリヤ殿下をお守りし、今は理解されなくとも国の為と――、共に戦う同志として」
「同志だと? いい加減気色の悪い」
「エメル――!」
「そんな薄っぺらい言葉で動かされるのはお前くらいだ。大方あの女にお前は同志だ、特別だとでも囁かれたのだろう」
「わ――私は、このボードヴィルを、想って――あの方の導きで」
「あの女が何を導いた。今ボードヴィルは破滅しようとしている。導いたのは破滅だけだ。お前を使って。あの女は始めからそれが狙いだったんじゃないか?」
 ヒースウッドはさっと青ざめた。
「ち、違う! 断じて――! あの方はッ……あの方は、ボードヴィルを破滅させたいとお考えになっていた訳では……」
 唇を噛み、苦悩するように首を振るヒースウッドへ、エメルはいよいよ呆れた眼差しを向けた。
「おいおい、呆れて物も言えんぞ。その様子だと先刻承知の上ってとこか? すっかり籠絡されやがって――王太子守護だ上級大将だ何だと、あの女が用意した椅子に座ってご満悦か」
 エメルは呆れたそぶりで肩を竦め、嘲る色に顔を歪めた。
「それほど抱き心地が良かったか、あの女は」
「き……貴様――ッ!」
 ヒースウッドの面がみるみる怒りで強張り、朱に染まる。
「あの方を侮辱することは許さん!」
 ヒースウッドは剣を引き抜き、エメルへ斬り掛かった。エメルが咄嗟にイリヤを突き飛ばして身を躱し、だが喉仏の上を薄くヒースウッドの切っ先が裂いている。エメルは怒りに眼を剥き吼えた。
「捕えろ! この裏切り者を王都軍の前に引き出せ! 最悪首だけでも構わん!」
 ソロー達がヒースウッドを囲む。だがヒースウッドは彼等に目もくれず、尚もエメルへと突進した。
 大振りを鍔元で受けたエメルの手から剣を弾き、更に振り下ろす。エメルが転がるように避け、ヒースウッドの剣がエメルがいた後ろの壁を掠める。ソロー達の剣がヒースウッドを追い、白銀の鎧を掠め、打ち鳴らす。火花が散った。
 次々と突き出され斬りつける剣がヒースウッドの首を掠め、二の腕を叩き、脇腹を、脚を覆う鉄を叩き、更に背中に強打を受け呻いたが、ヒースウッドは構わずエメルを追った。
 エメルが弾かれた自分の剣へ右手を伸ばす。その腕へ、ヒースウッドは剣を振り下ろした。鎖帷子に覆われたエメルの二の腕が、鈍い音と共に折れる。エメルの苦鳴が上がる。
 怒りに形相を変え、ヒースウッドは再び剣を振り上げた。
「ひ」
「駄目だ!」
 イリヤがヒースウッドの右腕に飛び付く。
「どけ!」
 ヒースウッドは咄嗟に腕を払い、その剣がイリヤの身体を掠めた。
 直後に気付き、ヒースウッドは硬直した。
「で、殿下……」
 イリヤの左肩からは薄らとだが、斜めに傷が走っている。その傷を手で押さえ、イリヤは静まり返った室内を見回した。
 ヒースウッドが体全体で繰り返す粗い呼吸の音だけが束の間耳を捉える。白銀の鎧は切っ先さえ防いだものの剣を受けたところどころが歪み、鎧の背中は破損した破片が皮膚を裂き血が滴っている。口元からも血が滲み、打撃が骨や肉に響いているのは明白だった。
「もう、いい。やめてください」
 ゆっくりと息を吐き、二つの色の瞳をヒースウッドと将校達に向ける。
「俺は抵抗しようとは思っていない。あなた方が王都へ俺を渡したいのなら、そうしてください。そうする権利があなた方にはある」
「――殿下……」
 ソローや同じ少将のカマル、准将達が、おずおずと顔を見合わせる。
 エメルは折れた腕の苦痛の呻きの中から声を張り上げた。
「と、捕えろ! 二人ともだ! 二人とも裏切り者――国賊だ! 投降ではなく、俺達が捕らえなければ意味がない! 何をしている! カマル! ヒースウッドを捕えろ!」
 カマルと准将達が反射的に動き、立ち尽くしていたヒースウッドから剣を取り上げ、数人でその身体を床へと倒し押さえ付ける。
「ソロー! その王子――いいや、どうせ偽物だ、捕えろ!」
「エメル中将」
 イリヤはエメルを見下ろし、きっぱりと告げた。
「貴方は初め、ワッツ中将にボードヴィルの裏切りを告発したはずです」
 エメルはギクリとイリヤを見上げた。
「な、何を」
「ワッツ中将から聞いています。そうやってボードヴィルから正規軍に戻り、正規軍がサランセラムで敗れたらまたボードヴィルに戻った。今度はボードヴィルを裏切って王都軍ですか」
「な、何を、でたらめを――でたらめだ!」
 エメルはソロー達へ青ざめた顔を向けた。ソロー達はエメルを凝視している。
「もう止めましょう。貴方のことだって、本当は俺が否定できる訳じゃない」
「黙れ!」
 エメルは落ちていた剣を掴み、イリヤに斬りかかった。
「止せ!」
 ヒースウッドが引き倒されたまま叫ぶ。
 イリヤは避けようとして足元をもつれさせ、それでも迫る切っ先を真正面から見据えた。
「殿下!」













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2020.4.19
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