二十五
騒がしい城内の音を聞きながら、イリヤは露台への窓に立ち、何度目か空を見上げた。
半刻ほど前、風竜が大屋根から飛び立ったのはイリヤからも見えた。光が瞬いたかと思うと空に光が照り映え、幾つも色を変え――そして元に戻った。
身を覆っていたものがあったのだと、不意にイリヤはそう実感した。
うまくは言えない。けれど、身体の周りにあったものが、あの光の消失とともに無くなった感じたのだ。
アルジマールならば、それを風竜の持つ『磁場』の消失と評しただろう。
(何があったんだ)
中庭に面したこの部屋からは、サランセラムへの空は中庭を挟んだ向かいの建物に遮られ、状況が判らない。
ただ兵士達が走る姿が中庭や城壁の上に見え、城内が騒然としているのはイリヤにもわかった。王都軍は期限を切って宣戦布告をした。兵達への投降勧告とともに。
騒然としているのはどちらが原因だろう。王都軍に抗する為か、それとも降伏する為か。
一つ間違いなく理解しているのは、いずれ――すぐにでも、この部屋に兵士達がやってくるだろうということだった。イリヤはここでそれを待っているようなものだ。
最後のけじめに。
喧騒に耳を傾ける。
中庭の兵士達の慌ただしい動き。時折、イリヤのいる窓を見上げる者もいる。
塔の上に掲げられていた王太子旗が一つ、引き下ろされて行く。
「――」
イリヤは息を吐いた。
背後で、靴音が立つ。
ヒースウッドか、それともこのボードヴィルの兵士か。まだ王都軍がここまで入るには早いだろう。
何にしてもようやくだと、振り返ろうとした彼を、思いもかけない声が呼んだ。
「イリヤ」
息を呑み、振り返る。
視線の先に立っていたのは、ヴィルトールだった。
「ヴィルトール中将――?!」
『海皇陛下はお会いになれないとのこと――明日、改めてお越しくださいませ』
恭しくお辞儀する女官長の頭を、レイラジェは無言のまま見下ろした。
早朝に呼び出しを受けたのだ。海皇の名で。
(それを会えないとは、どういうことだ)
だが女官を問い詰めたところで得られる答えは無いだろう。
レイラジェは踵を返し、謁見の間に隣接する控えの間を出た。光が揺れる廊下は相変わらず生命の気配がなく静まり返っている。
廊下の先にある謁見の間の扉は固く閉ざされている。
(アレウスへの再進軍の話かと思ったが――)
早朝、海皇の急な召集を受けてファロスファレナから駆け付けたが、つい先ほど控えの間に通されるまでにも既に三刻待たされていた。
挙句にこれだ。
結局海皇との面会が流れたことを腹立たしく――そして、どこかに引っかかるものを覚える。
(これが何の意味も持たぬ訳がない)
他の将軍達の姿も無かった。
レイラジェは表情の乏しい西海人独特の面を引き締め、やや足早に廊下を歩き出した。ファロスファレナに戻る必要がある。早急に。
その足がすぐ、止まった。
廊下の先にフォルカロルが立ったからだ。硬貨の色に似た銀の双眸を細める。
『レイラジェよ、どこへ行く』
フォルカロルは口元に薄ら笑いを浮かべ、問いかけた。
『海皇陛下に呼ばれたが今はお会い頂けない。一度ファロスファレナへ戻る』
フォルカロルの薄ら笑いが更に広がる。ゆったりとした足取りでレイラジェの前まで来ると腕を組み、顎を持ち上げた。
『いちいち戻る必要があるか? 海皇陛下がいつお呼びになるか分からぬのだ。そもそも貴様はここのところイスにあまりおらず、頻繁にファロスファレナに篭っているようではないか』
『ファロスファレナが我が部隊の本拠地だ。有事に即応する為に本拠地に指揮官が身を置くのは当然だろう。貴様もそうするがいい、フォルカロル』
『ふん』
鼻を鳴らし、レイラジェを睨め付ける。
『尤もらしいことを。だがレイラジェ、貴様はこのイスに留まってもらうぞ』
『その意思はない』
視線を断ち切られ、フォルカロルは忌々しくレイラジェを睨んだ。
『待て』
鋭く警告を含んだ響きだ。それでも足を止めないレイラジェへ、フォルカロルは唇を歪め毒の篭った言葉を吐いた。
『ファロスファレナに兵を向けた』
レイラジェの足が止まる。フォルカロルの面に気色が浮かんだ。
『――何だと』
普段ほとんど変わらない顔色が確かに変わり、それを確認してフォルカロルの喜色が深まる。
『穏健派というのだったか――』
舌舐めずりをするようにそう言った。
『貴様は知っていたか? ファロスファレナは穏健派とやらの温床だ。海皇陛下は早朝、ファロスファレナの殱滅を命じられた』
『馬鹿な』
『もう既に、我が精鋭部隊がファロスファレナへ向かっている。そろそろ攻撃が始まるだろう。貴様はここに留まり、そして海皇陛下の裁きを受けてもらう』
二人の立つ廊下の左右から、西海兵等が湧くように現われ、塞ぐ。
レイラジェは壁を背に立ち左右へ視線を投げた。左右の距離は右が十間、左が七間ほどだ。それぞれ二十名近い兵の姿があり、おそらくまだ廊下の角の向こうに犇いているのだろう。
『これはもはや疑いという段階ではない。貴様が穏健派を率いているのは判っている』
フォルカロルは勝ち誇りつつ、兵達の間へと退いた。反対に兵士達がじり、と間を詰める。緊張が長い廊下を一杯に満たした。
『――なるほど、では尚更戻らねばならん』
レイラジェの上体を取り囲むように、宙に数十の銀色の刃が生じる。
放射線を描くように並ぶそれは、一つ一つが短い柄を持つ片刃の矛だ。
それらが更に浮き上がり、全ての切っ先がレイラジェを取り囲もうとする兵達へと狙いを定める。そしてフォルカロルへ。切っ先の冷えた光にフォルカロルの顔が歪む。
『馬脚をあらわしたか――捕えろ! 海皇陛下への反逆だ! この場で殺しても構わん!』
左右の兵達が槍を水平に倒し、互いの身を寄せ密集する。槍の穂先は剣山のように並びレイラジェへ狙いを定めた。
『行け!』
指示と共にフォルカロルの姿が床に沈み、波紋を残して消える。
同時に、槍を構えた兵達は迫る壁となって左右からレイラジェへと突き進んだ。
レイラジェの矛が次々打ち出され、迫る兵達の上に突き立つ。兵達がばたばたと倒れ、だがその上を踏み越えて更に次の槍の壁が突進する。
レイラジェは腰に帯びていた長剣をずらりと抜き、迫る壁へ一振り、薙いだ。
槍を断ち、二列目の兵までが身体を絶たれ湿った音を立てて床に崩れる。なおも突き進もうとしていた兵達は低い呻きを上げたたらを踏んだ。レイラジェの周囲へ矛が戻り、放射線を作る。
レイラジェが一歩前へ踏み出し、兵達が後退る。
昂然と顔を上げ、レイラジェは兵達を睨め付けた。もう一歩。
『退け。無駄に死にたくなければな。遠からずこの戦いは終わるのだ』
兵達が顔を見合わせる。
『私が約束しよう。戦いは終わり、貴様等の前に立つ者は海皇ではなくなる。貴様等を死に駆り立てる者はいなくなる』
『だ――黙れ! そのような、出まかせを――!』
後方にいた将官が雄叫びを上げ、手にしていた槍を、力任せに投擲した。
槍がレイラジェを串刺す瞬間、レイラジェもまた床へ沈む。
(海皇の恐怖は、まだ兵達を縛るか)
疑わしい開放よりも、目の前の恐怖に動く。まだレイラジェの言葉は早い。
(ファロスファレナへ戻らねばな)
ファロスファレナの、物見台に戻るのがいい。状況が一目で掌握できる。
フォルカロルの派兵した部隊が早朝に出たのならば、もうファロスファレナに到達する頃だろう。精鋭部隊というのならば第一軍の奇襲要塞ギヨールと、第一中隊二千。ギヨールは厄介だ。
ただファロスファレナは堅牢さを誇り、また麾下の大将ミュイルを残してきている。例え攻撃が始まっていたとしても持ち堪えているはずだ。
(ヴィルトール殿は、留め置くか地上に戻すか)
ボードヴィルと繋ぎを取ると言っていた。ボードヴィルが陥ちる前にアレウスの王子を一旦、ファロスファレナに置きたいと。
(同意したが――今はファロスファレナの方が危険が増した)
移動にかかる時間は思考を一つ巡らせるほどでしかない。
視界に光が戻るのを感じ、ファロスファレナの状況を把握しようとレイラジェは顔を上げた。
踏み出しかけた足を止める。
いや、それは強制的に止められた。
レイラジェの出た場所はファロスファレナではない。
未だ皇都イスの、謁見の間だ。
ナジャル、フォルカロル、ヴォダ。
取り囲む兵達は百を超える。
奇しくもそれは、半年前の不可侵条約再締結の日、西海軍がこの謁見の間でアレウス王やアスタロト達を取り囲んだ状況そのものだった。
(引き込まれたか――)
フォルカロルは先ほどの勝ち誇った笑みのまま、嘲りを露わにレイラジェを睨んだ。
『どこへ行くと、もう一度尋ねようか』
レイラジェは背筋を伸ばし、フォルカロルとヴォダ、取り囲む兵達を見回した。その先のナジャル。
『跪け。海皇陛下の御前だ』
そして、壇上の暗がりの中、椅子に座す、海皇――
海皇の纏う闇がぞろりと動く。
黒々としたその塊が、墨が流れるように壇上から階を伝い、流れ出した。
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