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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

二十三

 

 空の虹が溶ける。
 束の間、耳が痛くなるほどの静寂がサランセラムの丘を支配した。
 空に浮かんでいた風竜の姿は、虹の消失と共に拭い去られるように消えていた。



 更に数呼吸後、サランセラムの丘にはまず、混乱が戻った。
 風竜の翼が起こした暴風が丘の上に広がっていた王都軍の陣形を、ざる・・の中で転がした豆のようにひとかたまりに押し流していた。
 ワッツは何もかもごちゃ混ぜになった陣内を走り、声を張り上げた。
「無事な者は陣形を立て直せ! 救護班! まずは負傷者を一箇所に集めろ!」
「ワッツ中将――」
 若い兵士が横倒しになった馬体の下敷きになっている。ワッツは馬の首を抱え上げ、隙間を作った。這い出した兵には目立った外傷は無いが、馬は首をやられていてもう駄目だ。この周りにも地面に重なり合い、負傷し動けなくなっている者や、運悪く既に事切れている者も少なからず見て取れる。ワッツは口元をへの字に曲げた。
「怪我は」
「あ、ありません」
「良し。なら周りの補助にまわれ。陣形を立て直す」
 分厚い手のひらで肩を叩く。兵は敬礼して立ち上がり、きょろきょろと周りを見回してまだ倒れている同僚へと駆け寄る。
 ワッツも立って首を巡らせた。
「武具なんざ誰のモンでもいい! そこらに転がってるやつを拾え!」
 次第に兵達が落ち着きを取り戻し、陣形を立て直す為に動き始める。
 改めて見ればワッツが今いるのは丘と丘との合間の緩い谷になっている所で、先ほど陣取っていた丘の頂点からは五十間(約150m)ほども押し流されていた。風竜の翼のひと煽ぎで。他の丘の陣も同様だ。
 空を見上げる。あの白い骸の竜の姿はそこにはない。そのことにようやく、一息つくことができた。
(あんな代物を転位させるとはな)
 ただ感心しかなく、そして感心している場合ではないとも理解している。
 もう一人、ほとんど同じ脅威がまだボードヴィルには残っているからだ。
 この谷底からではボードヴィルの様子が見えず、丘を上がろうとした時だ。
 布陣していた五つの丘の内、本陣のある中央の丘から、警告の響きを帯びた声が上がった。
 背後を見上げたワッツの視線が、青い空に浮かぶ少女のような姿を捉えた。
(ルシファー!)
 本陣の上だ。
 ワッツは草地を蹴って駆け出した。








 どこまでも果てなく広がる砂漠を、静寂が支配していた。
 太陽が高く上がるにつれ、重なる砂丘を染めていた影が形を変え、砂丘を輝かせていく。それは満ちていた潮が引き、水面の下にあった岩礁が次第に現れていく様にも似ていた。
 レオアリスは砂丘の上に立ち、太陽の位置で姿を変えていく広大な砂漠を見渡した。
 十一月ともなれば、想像に反して大気は冷たく肌を包む。
 四か月前、ちょうどアスタロト達がルベル・カリマの里を目指し熱砂を進んだ時からすれば、今の時期の太陽の熱はさほど脅威ではないのだろう。
 レオアリスの後方、ほぼ百間(約300m)を置き、近衛師団の二小隊――竜騎兵百騎と、法術院の術士三十名が布陣している。クライフとフレイザーがそれぞれ近衛師団と法術院の指揮を執っていた。
 レオアリスの上空には高い位置に一騎、銀翼の飛竜が緩く風を掴み、ゆっくりと旋回を繰り返している。
 翼の影が時折、太陽を遮りレオアリスの足元に落ちる。

 静寂と緊張の中――、旋回していたハヤテが、銀の翼を緊張に振るわせた。
 レオアリスも同時に視線を上げる。右手を鳩尾に当てた。
 晴渡った空に、一点――
 虹色の光が湧き起こる。
 渦を巻く。
 風がその中心からなだれ起こり、砂丘へと叩き付ける。風の唸り。砂丘の砂が舞い上がり、視界をまだらに染めた。
 後方で法術院の術士達の詠唱が流れる。竜騎兵の半数が空へと駆け上がる。
 レオアリスは右手を沈めた。
 青白い光がこぼれ、白白とした砂丘の上で、陽光の輝きと混じり合う。
 続いて白刃が現われ、一層強まった光が沸き起こる砂塵を切り裂く。
 風が砂を巻き込み頬へ、全身へ叩き付ける。カラカラと、木琴を鳴らすような音が落ちて来る。
 法術士達の前方に法陣円が浮かび、それと同時にレオアリスの身体を光の膜――法術の盾が包んだ。
 一枚目の盾。
 次いで二枚目。
 三枚目――、一呼吸ごとに更に重なる。合わせて五枚。
 耳鳴りに似た音も、肌に感じていた叩き付ける風も、視線の先では未だ砂塵を巻き起こしていながらも、最後の五枚目の盾が輝くと同時に、凪いだ。


 レオアリスは静かに息を吐き、真っ直ぐ、空を見上げた。
 空から流れる澄んだ音色。骨と骨が打ち鳴らす音。
 つい先ほどまでは何もなかった空に今浮かんでいるのは、巨大な、真白な骸の竜だ。その身体は以前カトゥシュ森林で相対した黒竜よりも、おそらく一回りは大きい。
 長く生きれば生きるほど、竜は体格を増して行く。三百年前の段階でこの竜はどれほどの時を生きて来たのだろうと、そんな想いが心を過った。
 レオアリスの父、ジンがこの竜を斬るまで。
 父はどんな想いでこの竜と相対し、剣を抜いたのだろう。
 そう思わせるほど、白い骸の身体でありながら、青い空を背負い浮かぶ竜は美しい。自分がこれから斬ろうとしている相手とは思えないほどに。
『――ジン――』
 空から、声が降った。
 あたかもレオアリスの心の中を読み取ったかのようだ。
 眼窩にあったはずのまなこは無く、それでいてその視線は意思を持って砂丘に立つレオアリスへと、確かに向けられている。
 そこに篭った感情に、レオアリスは意外な想いを抱いた。
 それは自らを斬った者に対する憎しみなどではなく、驚きと。
『そこにいたのだね』
 懐古。
 それと同時に、風竜の言葉がレオアリスの胸を突く。
 そこに――
 ここ・・に。
「――」
 激しく渦巻いていた風が、ゆるゆると吹くそれに変わる。
 一旦は緩く。


『ジン』


 懐かしみ、そして何かをその底に請うる響き。
「――俺は、ジンじゃない。……ジンの子――」
 自然と返す言葉が出た。
「ルフトと、ベンダバールの末――レオアリスという」
 風竜が失せた瞳を見開いたのが、判った。
『ああ――』
 風が更に和らぐ。
『ベンダバール。懐かしい名だ。彼等が去って、もう五百年は経っただろうか。私が眠った後だ』
 風竜の声はあくまでも、懐かしむ響きだった。
 穏やかで、柔らかく。
 けれど。
『ジンと、そしてベンダバールの子なのだね。ではやはり――、お前は、私を斬る者か』
 眼球のない双眼。
 レオアリスはそれを見上げた。
「――そうだ」
『有難い』
 風竜は、そう言った。レオアリスはそれを意外とは、何故か思わなかった。
 けれど。風が歌う。
『今はまだ、ほんの少しの猶予をもらえないものか。可哀想な我が養い子を、救けてやりたいのだ』
「――貴方の言葉は、少し理解できる気がする。けど」
 空に浮かぶ白い骸の身体が、その翼を再び広げた理由。
「望みがそれである以上、その願いを叶えることはできない」
『そうだろうね。互いの望みが違う以上、それは仕方のないことだ』
 カラカラと白い骨が鳴る。
 辺りに満ちている大気の温度が急激に下がった。
『次に私を斬る者が出るのを、また気長に待とう』
 風が耳を鳴らして渦巻き、砂塵が立ち上がる。
 唐突に、レオアリスの身を覆う盾が一枚、砕けた。アルジマールが翼の起こす風ならば二、三回は凌ぐだろうと想定したそれ。
 耳元の風の音が一段増す。周囲の空気が厚みを増し、身体を締め付ける。
 レオアリスは踏み込み、手にしていた剣を空へと、大気を掬うように振り抜いた。
 剣圧が青白い光を伴い一直線に大気を切り裂き、砂塵の中に青空の筋を生み、風竜へと疾る。
 風竜に届く寸前で剣光は消失した。
 風竜の翼が大気を打つ。風が唸りレオアリスの立つ砂丘を崩す。滑りかけた砂の斜面を蹴り、レオアリスは宙へと跳んだ。銀色の翼が矢のように疾駆し、その背にレオアリスを掬い上げる。
 ハヤテは叩き付ける風を拾い、一息に上空へと舞い上がった。風竜の頭上を超える。
 レオアリスは右手の剣を手の中で握り直し、ハヤテの背を蹴った。ハヤテが縦の弧を描いて離脱する。
 落下するレオアリスの身体を青白い陽炎が包む。周囲に渦巻く風が一段と音を増す。もう一枚の盾が、砕ける。風の音と圧力が増す。頬や腕、脚を剃刀のように風が擦り抜け、吹き出した血が霧となって散った。
 振り下ろした剣が激しく光を発し、風と、砂塵を切り裂く。
 白刃が風竜の長く白い首へ落ちた。










 アスタロトは風竜の姿が消え唐突に広くなった空を束の間見据え、すぐにその瞳を戻した。
 風竜を転位させることに成功した。
 その次は。
「タウゼン、すぐに動く。次はルシファーだ。アルジマール、手当てしてもらってて。私が」
「公!」
 鋭く上がる警告の響き、それと同時にアスタロトも気付いていた。
 戻した視線の先――目の前に、細い靴先が浮かんでいる。
 アスタロトは喉を反らし、上を見た。
 それでも懐かしい姿。
「ファー……」
 アスタロトのほとんど真上に、ルシファーがいた。
 タウゼンや周囲の兵が剣の柄に手をかけ、だが余りの近さに抜き放つことを躊躇うほどだ。法陣円に座り込んでいたアルジマールが顔を上げる。立ち上がりかけたがアルジマールの腕はまだ先ほどの転位の行使で皮膚が裂け、血が流れ続けている状態だった。七重の法陣円を踊る光も目を凝らさなければならないほど弱い。
「大丈夫」
 ルシファーの瞳がアスタロトを捉える。
 風が二人を中心に渦を巻いた。
 アスタロトは身を包む強い風の中、頭の後ろに一つに括った髪を舞い散るに任せ、真っ直ぐに立ち暁の瞳を受け止めた。
 もう一度対面したら感じるだろうと思っていた動揺は、心の中にはまるで見当たらなかった。とても不思議だけれど、足を捕らえる重い泥から一歩踏み出したような、開放感にも似た感覚がある。
 肩をゆっくりと落とす。
「……ファー。貴方に、ずっと会いたかった。もう一度」
 暁の瞳が真紅の瞳を覗き込む。
 真紅の瞳には、炎の欠片が踊っている。
 ルシファーの白い頬が柔らかな笑みを刷く。
「炎を、取り戻したのね」
「うん」
 でも、とアスタロトはルシファーの瞳を見つめた。
 自分の中に感じるもの。それは今まで、まだ不確かだったけれど。
「ファーが私を見てそう・・言ってくれたから――」
 炎がある。
「だから、戻ったんだ」
 アスタロトは手のひらを目の前に持ち上げた。
 空へ向けたその上に、ゆらりと陽炎が立ち昇り、そして鮮やかに灯る。
 炎。
 彼女の。アスタロトそのものの。
 タウゼンやハイマンス、そして周囲の兵士達が息を飲み、漏らした声が細波のように広がった。
「公――」
 静けさの中を風が緩く吹き、アスタロトの手のひらの炎を一際燃え立たせる。風は炎に力を与えているように見えた。二人の能力が対峙した時、有利なのはアスタロトだとそう示しているようだ。
 丘を駆け上がって来たワッツも足を止め、向かい合う二人とアスタロトの炎を見つめた。
「私達を切り離して、有利になったつもりなのでしょうね」
 ルシファーの周囲に風が渦巻く。
「風竜と対峙するのはレオアリスかしら」
 アスタロトはルシファーを真っ直ぐに見つめ、明瞭に告げた。
「そうだよ」
「――」
 揺さぶりを掛けられてももう揺るがないのだと、その瞳が語っている。それをどう受け取ったのか、ルシファーは暁の瞳を一度目蓋の中に隠した。
「ファー。風の王」
 アスタロトが手のひらの中の炎を握り込む。瞳をひたと慕う相手へと向ける。
「もう、終わりにしよう」
「そうね。終わりにしましょう」
 ルシファーは片手をすいと延べ、その手のひらを一点に向けた。法陣の中に立ち上がっていたアルジマールへ。
「アルジマール。あなたはそこにいて」
 アルジマールの周りに風が渦巻いたかと思うと、つい先刻彼自身がその法術で風竜を包んだように、白く輝く球体がアルジマールの小柄な身体を包んだ。
 アルジマールが伸ばした手が、輝く球体の壁に遮られる。
 詠唱を綴ろうと開かれた口からは何の音も届かなかった。
「アルジマール?」
 アルジマールは何か返したようだが、聞こえない。
 音が遮断されたのだと、アスタロトは気がついた。
(音――)
 法術を組み上げる為の最大の要素である、術式の詠唱が強制的に封じられた。
(そんなこともできるんだ)
 アスタロトがこれから相対するこのひとは。ぞわりと背中が粟立つ感覚に覆われる。
 それでも、その為にアスタロトはこの場所に立った。
 燃え立つ真紅の瞳を見つめ、ルシファーは微かに笑うと、空を見上げた。
「あの気配が全く感じられないほどまで遠ざけるなんて、アルジマールも大したものね」
「――貴方はここで、私と戦って」
「いいわ。でも、ここでは貴方の大切な部下達を巻き込んでしまうでしょ」
「――」
「私と貴方、二人だけで戦える場所へ行きましょう」
 アスタロトは自分を包む風の唸りを感じた。
 体が放り出された感覚。それから急激に落下する。
 青い空と、赤や黄の鮮やかな色の帯が視界を回る。そして、深い青。
 身体が水の中に落ちたと気が付いたのは、衝撃を感じてから数瞬後だった。
 身を震わす冷たさを感じ、瞳が纏い付く泡と遠ざかる水面を捉える。
 身体は一度沈み、そしてゆっくり浮かび上がる。
 水面を破って浮かび、アスタロトは荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見回した。
(湖――)
 感じた安堵は、ここが西海ではなかったからだ。
 広い水面と、それから空と、その間には色付く秋の樹々がぐるりと水面を取り囲んでいる。
 まだどこへ放り出されたのか判らず、瞬きを繰り返していたアスタロトの身体が、水中から空へ浮かび上がった。
 全身濡れそぼろり、軍服や髪から水が筋を引いて流れ落ちる。
 風が流れ、その冷たさにアスタロトは首を竦めた。
 背後に気配を感じ、身体を捻って振り返る。振り返ることができた。
 すぐそこに、空中に腰掛けるようにしてルシファーが座り、柔らかく微笑んでいる。
 彼女と共に目に映る景色は、低い山に囲まれ、幾つもの鏡のような水面が緑と紅葉の中に広がっている、絶景だった。
「ハイドランジア湖沼群よ。ここなら誰の邪魔もないでしょう」


















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2020.4.5
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