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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ


 
 ワッツは身を翻し硝子戸を出た。室内に迫る靴音は、硝子戸を通しても聞こえて来る。すぐに兵士が室内へ踏み入るだろう。
 残ったイリヤとヴィルトールを思い、それでもワッツは露台の欄干を乗り越えた。ここは砦城の中庭に面した四階だ。中庭には兵士達がいた。砦城の中へ――ワッツ達を捕らえる為に入ったのだろう、つい先ほど見下ろした時よりも減ったが、まだ十人近い兵士達がとどまっている。
(押し通るしかねぇ)
 シメノスヘ岸壁を降る道を使いたかったが、そこまで行くにはまた城内を抜けなくてはいけない。そして岸壁で追い詰められればさすがに命が危うい。
 中庭を出て、騎馬を奪い、街を抜ける。
 欄干を掴み、振り子の勢いで下の階の露台へと降りる。気付かれるなと願ったが、夜の帳の中でもさすがに音は消しきれず、二階の露台へ降りたところで中庭の兵士から誰何の声が上がった。足元に兵士達が集まって来る。
 ワッツは最後の欄干に手を掛けた。
「――悪ィな」
 欄干に飛び乗って蹴り、真下にいた兵士目掛けて落ちる。
 兵士の肩を足場に地面に踏み倒し、ワッツは同時に剣を引き抜いた。
 駆け寄って来た兵士達が思わず後ずさる、その一人を追い、左拳で顎を打ち抜く。白目を剥いて倒れた兵士を飛び越え、更に右斜め前方の兵士へ突進し肩を当て突き飛ばした。
 そのまま駆ける。中庭の出口は左正面だ。城外に出るまでやや長い通路になっている。背後で呼子の音と仲間を呼ばわる声、追い縋る複数の足音が続く。
 ひゅ、と風を切る音。立ち止まらず視線だけ流し右手の剣を背後へ薙ぐ。斬り付けてくる剣を弾き、腹を蹴り飛ばし更に駆ける。
 既に四方から駆け付ける足音や声が響いている。
 投げ付けられた槍が左肩を掠めて血を散らす。
 もうあと数歩の中庭の出口――、扉の無いその床に、向こうから駆けてくる人影が差す。
(まず二人)
 視認と同時にワッツは更に地面を蹴り、出口に突っ込んだ。
 ワッツの分厚い肩に弾き飛ばされた一人が石の床を転がり、通路の壁に背中と頭を叩き付け呻きも上げず倒れた。間を置かずもう一人の腕を掴み、ぐんと背後へ振る・・。中庭から通路へ踏み込んだばかりの兵士達が、飛んできた兵士とぶつかり重なり合って倒れる。
「いたぞ! 捕えろ!」
 正面から駆けてくるのは五人。剣は既に抜き身だ。その向こうにも、三人。背後から起き上がろうとしている兵士五人。
(限界か)
 割り切り、ワッツは右手の剣を払った。
 ここを出ることが重要だ。
 剣が初めて、兵に対して振るわれる。顔も何度も見た、言葉も交わしたことのある、彼等へ。
 最初の一人の脇腹から胸を浅く裂き、次の兵士が振り上げかけた剣の柄へ、握る手ごと切っ先を落とす。耳を打つ苦鳴にも、指を落とさなかったかどうか振り返る余裕は無い。
 横薙ぎの刃を身を沈めて躱し、剣の柄で腹を殴打する。擦り抜けた身体の向うから、真っ直ぐ突き出された剣がワッツの左肩を裂いた。
 背後から振り下ろされた切っ先が背を掠める。
 舌打ちと共に二人を殴り倒し、ワッツは進行方向の五人へ突っ込んだ。




 血の滴る脚を引き摺り、ワッツは狭い路地の暗がりを歩いた。背後の大通りからはワッツを探す兵士達の声が騒めきと共に流れて来る。
(諦めるってこたぁねぇだろうな)
 ただ、砦城から出られたのは奇跡のようだ。
 振り払ってきた兵達の命が果たしてあるか、気に病みはしたものの、もうそろそろ自分の方が拙い。特に左肩と二の腕に数か所深く傷を負っていて、血がねばついて動きが重い。
(左手が動かしにくいぜ、くそ)
 ワッツが相手を容赦なく斬り伏せようとしていたならば、まだ負傷は最低限に収められただろう。
(同じ軍の奴を斬り倒すなんざ、一度で充分だ)
 とにかく、ボードヴィルを出て王都と繋ぎを取らなくては。それでなければヴィルトールとイリヤを残した意味が無い。
 重い身体で路地を進もうとした時、路地の奥からバラバラと足音が鳴った。素早く背後の大通りと近付く足音とを天秤に掛ける。マシな方へ進むしかないなら、大通りより狭い路地だ。
 現われた兵士は、三人。
(マシだな)
 息を吐き、一気に突っ込もうとした時、緊迫した声がワッツを呼んだ。
「中将――!」
 振りかけた剣をびたりと止める。
「――ウォルター」
 あの西海との戦いでヴァン・グレッグが率いる西方軍が壊滅した中、ワッツと共に生還した部下達だ。
 ボードヴィルで拘束されていたが、ワッツの解放と共に放された。
「ウォルター、ダンリー、オーリ。お前らか」
 ウォルターの顔から緊張がほぐれ、切られなくて良かった、と笑う。
「悪いな、余裕がなくてよ」
 三人の視線がワッツの背後の通りへ向けられ、頷く。
「こちらへ。馬を用意しています」
 ワッツは三人の顔を見て、それ以上問うこともなく共に歩き出した。歩きながらダンリーがワッツに背負い袋を手渡す。傷薬や当座の路銀、携行食が入っていた。
 三人が路地を導いた先は、厩舎だ。
 ワッツは息を吐いた。
「ありがてぇ」
「目眩しに馬を何頭か放します。ただ、まだ周辺は泥地化があちこち残ってます。暗いですが、上手いこと進んでください」
 ワッツはもう一度礼を言い、それから改めて彼等と向き直った。
「俺はこれから」
「貴方がどこへいくかは聞きません。御武運を」
「どうか、このボードヴィルを頼みます。いつの間にか、妙なことになっちまった」
「前のボードヴィルに戻して欲しいです」
 三人は口々に、しかし短く言ってワッツに敬礼した。
「いずれ」
「ああ、必ず戻る。待ってろ」
 ワッツは彼等を見据えて頷き、手綱を繰ると厩舎を出た。




 斜めに掛かる月が冴え冴えとした光を投げていた。
 ワッツはサランセラム丘陵を、騎馬を駆り東へ向かっていた。
 あの貴賓室を出て、砦城を抜け、路地を抜け、騎馬で街を抜け、その間少なからず兵達を傷付け、自身も傷を重ねた。ワッツ自身には正確には判らないが、この間一刻半ほどが過ぎていた。ウォルター等が放した馬達は今のところ、追手の兵を分散してくれているようだ。それが有難かった。
 今は左手がほぼ動かせず、左側の太腿、右肩、腕、あちこちに傷を負い充分に馬を走らせることができない。血はだいぶ止まったが、騎馬の振動はそれなりにワッツを苦しめていた。
 ちらりと空を見上げる。斜めにかかる月の位置で、自分がおそらく東へ向かっているだろうと思える。
 東へ向かえばまだ西方軍が駐屯しているはずだ。正確な位置は判らないがそこまで辿り着きたい。第六大隊の仮駐屯地、バッセン砦もサランセラム丘陵を抜けた先にある。ボードヴィルからは馬で五刻もあれば着く。
(確実なのは第六の軍都エンデだが、馬で二日掛かる)
 しかしヒースウッドもワッツの向かう先がまずはいずれか、西方軍の元だろうとは容易に想像がつくだろう。追手はそれを見越して出されているはずだ。
 それを考えると南下し、フィオリ・アル・レガージュを目指せば良かったかとも思う。シメノスを渡らなくてはならないが、どこかに橋が架かっていたはずだ。
(判断を拙ったか)
 そう思ったのは、背後に遠く、蹄の音を聞き取ったからだ。
 聞き間違いと思いたかったが、蹄の音は次第に、確実に近付いてくる。
 ほどもなく、騎馬を駆るワッツの後方、丘陵の上に正規兵の騎馬が数頭、姿を現わした。彼等が掛け合う声はワッツを認識している。
 ワッツは騎馬の背に伏せ、速度を上げた。
 月明かりに二十騎近い馬影が見える。
(ヴェルナーの伝令使が、都合良く見つけてくれねぇもんかね)
 背後の気配が変わり、ちらりと視線を流せば、正規兵達は更に数を増し、丘陵を下りながらワッツを押し包もうと騎馬を散開させている。
(戦うか――)
 右腕だけで。
 それともこのまま駆けるか。
 左側には、丘陵に沿い森が広がっている。ワッツは少しずつ森へ近付きながら騎馬を走らせた。
 正規兵達の騎馬が距離を詰めてくる。騎馬を捨て、森に入るか。
(すぐ囲まれるな)
 なかなかの八方塞がりだ。
 ここまでかと、そう思った時だ。
 ワッツに追い縋ろうと、森の側を駆けていた正規兵の騎馬が、不意に地面に倒れた。
「何だ?!」
 ワッツの疑問に被せるように、追手の正規兵達の間にも驚きが走る。そして何に対応しようというのか、ワッツを追っていた騎馬達が倒れた騎馬へ馬首を変えた。
 目を凝らした先で、森を揺らし大きな黒い影が次々飛び出してくるのが見えた。
 低く、雷鳴を聴くような唸り声。
「魔獣――!」
 四足歩行の、馬と同じほどもある影。ワッツの位置からでさえ、その前脚の太さ、肢体に張り詰めた筋肉の発条ばね、顎の獰猛さが見て取れた。
 馬のいななき、それを覆い尽くす咆哮。兵士達の緊張を孕んだ声と、月の光を弾く剣の刃。
 初めに倒れた騎馬へ黒い影が食らい付き、その顎で馬体を軽々と宙へ持ち上げた。影絵のような光景の中で、再び馬体を地面へ叩き付ける。
「おいおい、嘘だろ」
 思わずワッツは呟いた。重量のある騎馬の身体をあれほど易々とあしらうなど、どれほどの力なのか。
「無理だ」
 現われた魔獣は五体。対する正規兵はおそらく三班、三十騎。
 兵は全滅する。
「――」
 今なら、ワッツは単騎、追手とそして魔獣から遠ざかることができる。千載一遇の機会だった。
 兵の苦鳴が夜に響く。魔獣を囲もうとしていた一角に、黒い影が飛び込み、あっという間に輪が崩れる。
 ワッツは騎馬を走らせた。兵士達へだ。
「中に囲むな! 三騎一組で四方に分散しろ! 二組で一体を対処!」
 既に数騎倒れているものの、ワッツの指示を聞き取り兵達は日頃の訓練さながらに動きを変えた。固まりで動く兵を追い、魔獣がばらばらに向きを変える。
 ワッツは一番近い一団を追う魔獣へ、駆け抜けざま兵の一人の槍をひったくる・・・・・と騎馬の疾走の勢いを乗せ、獲物を噛み砕かんと開いた喉の奥へ、突き立てた。
 槍の穂先が魔獣の喉を貫き、延髄部分から飛び出す。魔獣はもんどり打って地面に転がった。
 だがワッツも動かない左手では馬上の体を支えきれず、鞍から勢いよく放り出された。
「中将!」
(くそ、まだ――)
 まだ兵がいる。魔獣が四体。
 どっと左肩から草地に落ちる。
 衝撃に目が眩み、身体が痺れた。
 兵達の叫びと悲鳴、魔獣の咆哮。血の匂い。
(動け――)
 霞む目が倒れた兵士の姿を捕らえる。魔獣が太い前脚を振り上げる。猫に似た大型の体躯、立髪と全身を覆う毛が月明かりに金色に輝く。
 倒れた兵士は、ワッツへ手を伸ばした。
 いつだったか――
『ワッツ中将――』
 目の前で、部下だった兵士は奈落のような顎あぎとに呑まれた。ナジャルの腹に。
「動け――ッ!」
 動かない腕を、無理矢理持ち上げ地面に突き、ワッツは雄叫びを上げた。
 発条ばねが弾けるように、ワッツは地面を蹴り、魔獣へと肩から突っ込んだ。
 兵へと爪を振り下ろしかけていた魔獣が突進したワッツの身体に弾かれ、地面へ転がる。
 ワッツも再び地面に倒れた。
「中将――!」
 兵が叫ぶ声が耳にくぐもる。
 魔獣が目の前で身を起こしたが、もう身体を動かす力は一滴たりとも残っていない。
「ワッツ中将!」
 兵が駆け寄り、魔獣へ剣を構える。
(馬鹿が、何やってる、逃げろ……)
 声が出ない。
 ワッツは地面から身を起こそうと、身体に力を込めた。
 ここで終われない。
「――っ」
 魔獣の爪が夜に閃く。
 振り下ろされる鋭い爪が、身体へ喰い込むその感覚を覚悟した時――
 喉の下から鋭利な切っ先を生やし・・・、魔獣は地面に重い音を立てて倒れた。
(何だ)
 倒れた魔獣の上に小柄な人影がある。子供――いや、少年のようだ。
 魔獣の頭に突き立てていた腕を、ゆっくりと引き上げ立ち上がる。その手に握られていた剣が、魔獣の頭を突き通したのだ。
(違う……ありゃぁ)
 剣。右腕から盛り上がるように生じた剣だ。
 ワッツを見下ろした顔は、月光の中で眉を寄せた。
「人がこの魔獣を一人で倒すとか、できるものなの? あんた本当に人?」
 少年が首を傾げる。
 誰のことを言っているのか。
(まさか、俺か? いやいや、他人ひとのこと言えんのか……?)
 その少年の背後から飛び掛かった魔獣へ、少年はくるりと身を返し右腕を一振りした。
 魔獣が腹から身を断たれ、二つに割れて崩れ落ちる。
 一瞬、静寂が満ちた。
 叫びも咆哮も止んでいる。
 少年の腕からは剣が消えていた。
 魔獣の頭から地面に降りた少年へ、もう一人、彼よりも年上の青年が歩み寄ってくる。武器など持っていないように見えるのに、穏やかな口調で「こっちも片付いた」と言った。
(――)
 身を起こそうと突っ張っていたワッツの腕から、力が抜ける。身体が草の上に倒れた。
「僕達ほんと、地道な貢献してるよね、レーヴ。長も何だかんだ甘すぎるよ」
「……剣士――」
 二人の視線がワッツへ落される。
 そう、剣士だ。
 ワッツは暗くなる視界に二人を捉え、押し出すように呟いた。「レオアリス……」
「――また?!」
 憤慨した声が聞こえたが、そこでワッツの意識は途絶えた。

















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2020.1.12
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