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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

十八

 
「ヴェルナー殿」
 ロットバルトは王城の廊下で足を止め、呼び止めた人物――ゴドフリー侯爵が歩いてくるのを待った。ロットバルトと共にいたドルトや秘書官がゴドフリーへ一礼して離れた場所へ退がり、ゴドフリーに付き従っていた内務官三人もその場で立ち止まる。
 夜の十刻を過ぎていることもあり、王城西棟と北棟を繋ぐ廊下にはさすがに他に人影はない。壁に掛けられた蝋燭の火が玻璃の覆いの中で揺れ、揺らぐ光が壁や柱、天井の装飾に陰影を作っている。象牙色の壁や大理石で描かれた床の模様も今は沈んでいた。
 ゴドフリーは呼び止めた事を丁寧に詫び、穏やかな面を向けた。西方公離反当初は心労の色も濃かったが、今はその面差しもずっと落ち着いている。
「いよいよ、明日はサランセラムとアルケサスで戦いが始まります。お互い心配事は多い――特に貴方は戦場に赴かれた方が楽だと、そう感じておられるのではありませんか」
 ロットバルトの答えは苦笑に近い笑みだろう、ゴドフリーも微かに笑みを浮かべる。そろそろ六十に手が届こうという歳らしく落ち着いた雰囲気を身に纏い、ゴドフリー自身のひととなりを示すように、王城内でも一番の穏健派だ。
「このような戦いは早く終わって欲しいものだと、心底思いますな」
「同感です。明日の戦いがその一歩になることを願いましょう」
「ええ――しかし問題は王都にも少なくありません。ベルゼビア公爵家が爵位と所領を返上し、財務院は直轄地管理に更に多忙になったでしょう。税務官長のノイライン伯もしばらくは謀殺されるのでしょうな」
 西方公、そして東方公の離反に伴い、五月に大きく人事が動いてゴドフリーは前ヴェルナー侯爵の後任として内政官房副長官の任に就いた。それまでの役職である財務院副長官を兼任はしているが、実質は内政官房に比重が置かれている。古巣の慌ただしさに思いを馳せるようにもう一度ため息混じりに言い、ゴドフリーは様子を改めた。
「ある意味、決着に向けての戦いが明日始まるのですが――先日、十四侯の場で貴方はこの国の先行きについて仰った。戦争の終結ではなく、その先の。私もその話は進めねばならないと思います。この戦いが終われば、その次は西海だとみな理解している。その西海との決着をどのようにつけるか」
 一度ゴドフリーは窓の外に目を向けた。二人の姿が映る硝子の向こうは夜の闇に覆われ、王城の尖塔の篝火や遠い街の灯りがぼんやりと揺れている。その瞳をまたロットバルトへ戻す。
「我が国の必ずの勝利を――ですが勝って終わりではありません」
 ロットバルトはゴドフリーの目を捉えて頷いた。
「仰る通りです。財務院を支えて来られた貴方なら、今の財政上の課題は良くお解りのことと存じます。予備費に手をつけざるを得ない状況が、どのようなものか」
「元々がさほど軍費を積んでいない。この状況下、物流も停滞し、税収も落ちる――民の生活と人心維持には、戦乱終了までは今の税の徴収抑制を継続しなければならないでしょう。当然、いつまでも続けられるものでも無いが……」
 ゴドフリーが眉を曇らせる。
「内政官房にゴドフリー侯爵、貴方がいらっしゃることで、財政上の課題認識を明確に共有できる――それが非常に有難いと感じております」
 ロットバルトは先の人事の最大の目的は、派閥を超えた組み替えだと考えている。「西海との戦いをどの段階で終わらせるか、現時点でその見通しを立てることが肝要です。次の西海との戦いに勝てばこの状況が終わると、明確に見えること――先の見えない戦争を続ければ財政状況は抜け出しようのないところまで落ち込み、早晩国土治安、国家機能にさらなる軋みが生じ、そう遠くなく機能を維持できなくなるでしょう」
 ドルト達やゴドフリーの部下である内務官達は離れた場所に立っているが、二人の会話は当然、しっかりと耳に入れている。ドルトは手にしていた書類の束を抱え直した。
「そうなれば治安悪化、貧困により内乱が多発し、国の体制は崩壊します」
「良く解ります。我々は西海――ナジャルを倒さなくてはならないが、無制限に戦いを続けるべきではない。仰るように今の段階で、終戦そのものを仕立てて行くことも必要なのでしょう」
 ゴドフリーは腕を組み、その手を顎に当てた。
「西海が矛を納めればそれが最善――難しい話ではありますが、決して不可能ではないでしょう。ナジャルを倒せば。倒すことそのものについては、人任せになるしかありません。この国の存亡を自分より若い世代に負わせている。とりわけファルシオン殿下やアスタロト公――」
 ロットバルトへ苦笑を向ける。
「御年齢で判ずるような物言いは失礼かもしれませんが、とはいえその点について、私は忸怩たる思いもあります。ですから、国家維持、国土の安定については王都の我々がしっかりと道筋をつけねばなりません」
 ゴドフリーはそう言い、それから呼び止めたことを改めて詫びた。
「済みません、つい長話を。ですが大公ともこの話をさせて頂いているところです。明日の十四侯の協議では、二つの戦場の戦況を見つつも、終戦後についてを主題としたいと考えています。財務院の、そして貴方のお考えもまた、ぜひ改めてお聞かせ願いたい」
 ドルトが内務官達へ歩み寄り、「事務官級でも協議の場を」と幾つか言葉を交わす。
 ロットバルトはゴドフリー達を見送り、再びドルトの報告を聞きながら歩きつつ、もう一つの懸案――西海穏健派との和平案をどの段階で出すべきかを考えていた。
(ボードヴィルの結末は恐らく明日判る。それがイリヤの処遇に直結するだろう。ヴィルトール中将の意図を汲むのであれば、あまり悠長に機を測ってばかりもいられない)
 やはり、拙速ではあっても明日、滲み出しが必要だ。
 イリヤの意志を見せつつ、和平そのものの選択と仕立ては王都の主導で行うこと。そうでなくてはならない。
「――」
 ロットバルトは一度、先日の近衛師団士官棟の裏庭を思い浮かべた。












 見渡す丘の上に篝火が揺れている。
 無数の灯りと夜に紛れて流れる枯れた草の香りはどこか懐かしく、遠い日を思い起こさせた。
 深い場所に埋れて存在すら忘れていた記憶が、ふと甦る時に自分の連続を否応なく実感させられる。あの時の自分はただ記憶の陰に潜んだだけで、決して消え失せる訳ではないのだと。
 ならば何故、こんな場所にいるのだろうと思う。
 あの時の自分を赦せなかったはずだ。ならば連続する自分を何故許す。



 サランセラムの丘の上に散りばめられた、王都軍の焚く篝火。
 それが漸くルシファーへと向けられた、王都の意志だ。四百年を経て、漸く――
(王都――。誰の、意志……?)
 自分が何を欲していたのか、今になってみればとても曖昧だった。今はただ、今更どこにも行くことができないと、そう思っているだけ。
 白い骸の竜が身をもたげ、空洞の眼窩がルシファーを捉える。
 かつてのその瞳の色は、そう――濃い空の青。
「……あなたは、眠っていたかったはずなのに」
 以前もそうだった。これで二度、――三度、彼女を起こした。
「起こした私を愚かだと、叱らないの」
 出会った当初、まだ風竜が艶めく夜空のような鱗を纏っていた時から、彼女はあの水の底で眠ろうとしていた。
『どちらでも変わらないのだ、構わないよ。生きていようと眠っていようと死んでいようと、永劫の時を過ごせばもはや』
 穏やかな声もまた、初めて会った時から変わらない。
 長い、長い気の遠くなるような時を生きる種族だ。
 以前、彼女は自らの生を記憶してから、二千年の歳月を過ごしたと言った。
「――器はそれだけ続いても、心は、どれほど保てるのかしら」
 呟き、白い骸にもたれ、頬を寄せて瞳を閉じる。


 何を考えていたのだったか、あの時。




 身体を冷たい水が覆う。
 深く、身動きも取れずに沈む。
 身を縛っているのは死の恐怖ではない。現実に、両腕を後ろ手に縛る鎖。重り。背中合わせの母の身体。母は気を失いもがくこともなく、一塊になって母と自分の身体は冷たい水に沈んでいく。


「邪魔だからだと、そう言われたのよ」
 父の第一夫人と、第二夫人にだったか。第三夫人の母と、その子供の自分は。
「私にはあの人達の子供にはない能力があって、それがバレたらあの人達のこどもが先に生まれてるのに父が私を後継者にしようとするからだって」

「そんなの、私に言われても仕方がないのだけれど、だからどうしてもいなくならせたかったのね」



 水に沈められても、呼吸ができた。自分の身体を空気の膜が覆っているのが判った。
 けれど身体は縛られて動かないから、自分が沈んで行き、水面が遠くなっていくのを見ていただけだ。
 沈んで、沈んで、沈んだ、深い湖の底で。
「あなたに会った」
 彼女に会った。
 彼女に拾われ、それはほんの気紛れからだったのだと思うが、庇護され生き延びた。母は水の中に落とされたことで弱り、それから一月も経たずに亡くなってしまったけれど。



「何故貴方は水の中にいたの。風を司る竜は、本来空にいるのでしょう」
 答えは何となく判っていた。自分と同じように執着がなかったから。
「長く生きる虚しさは解らないけれど、あなたの気持ちは少し解る気がするわ」
 本当は眠りたかったはずなのに、自分を拾ってしまって、眠れなくなってしまっただろう。



 長い間彼女と共にいた。水の中に、彼女が作った空気のうろ
 太陽が上がれば水面から差し込む陽光に照らされ、夜は時折月明かりが降りて来る。魚達が周囲を滑るように群れ泳ぐ。冬になれば水面は凍り、陽光を淡く複雑に飾った。
 時間のない、平穏な世界。不思議な、美しい、水中の『館』。その暮らしは水に閉ざされていたが、空の中にいるようにも感じられた
 彼女にとってはそれは、自ら入った檻だったけれど。


 正確にはどのくらいそこにいたのだろう。
 慣れ親しんだその暮らしが突然終わったのは、またそろそろ水面が凍るだろうと、楽しみにしていた時期だった。
 急に王都からの使者が来て、王都へ戻るようにと告げられた。
 彼女は迷う自分に使者と共に行けと言った。本来いるべき世界へ戻るように。これで漸く眠ることができるから、と。
 王都へ戻ると、既に自分と母を追いやった第一夫人も第二夫人もいなかった。六人いた兄弟姉妹には誰一人、風は受け継がれず年老いていた。
 王に初めて会った。
 王は爵位を継ぐよう告げた。それに相応しい能力があると。
 腹立たしさを、初めて覚えた。今更――自分の能力がその地位に相応しいのならば、何故あの時、母がこの湖に沈められる前にそうしなかったのか。
 一度は拒否しハイドランジアの湖に戻ったが、いくら呼んでも彼女のもとへの道は開かれなかった。仕方なく王都へ戻り、西方公を継いだ。


 ある時、慶賀使として初めて西海に赴いた。
 海の中は彼女が暮らした湖の底に似ていて、あの場よりも遙かに広大で恐ろしい場所だった。血の匂いに満ちているのが、あの湖と全く違った。
 そこで彼と出会った。
 彼はこの海を、地上のようにしたいのだと言った。地上のような、平穏で、弱いものが理不尽に命を奪われず生きられる世界へ変えたいと。
 例えばそれは、自分が彼女のそばで過ごした、あの穏やかな湖の中の景色だったかもしれない。
 同じように思い、あの景色を彼にも得て欲しいと願い、そばにいて彼を助けたいと思った。


 けれど――、失った。
 ふいに奪われた。
 その罪を誰一人償わなかった。
 誰もその罪を断じられなかった。
 おそらく唯一、それができたはずの王も。
 地と海を分けたのなら、王にはその責任があったのだ。
 西海の平定へ、王が目を向けざるを得ないようにと――ハイドランジアで、彼女を起こした。
 けれど王は西海に対し何もしなかった。
 風竜を起こした自分を責めもしなかった。
 彼の死は意味を持たなかった。




「――そう。そんなことを考えていたのだった――」














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2020.3.22
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