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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ

十五

 
 
「アルケサス――」
 ファルシオンは協議の卓を見渡した。
 遠く離れたエンデと同様に、王都もまた雨の一日だった。霧にも似た雨が静かに王都を覆い、王城の中にも雨の静けさが忍び込んでいる。
 謁見の間は淡く翳り、柱に架けられた燭台の明かりがその翳りを揺らしていた。
 昨日七日、正規軍はアスタロトとタウゼン、そしてハイマンスが西方第六大隊軍都エンデに入り、各方面軍の第一大隊大将が王都守護を担い残っている。アスタロトと共にエンデに赴いたアルノーは、昨日夕刻に王都へ戻っていた。レオアリスも。
「風竜との戦いはアルケサスでいいのだな?」
 ファルシオンは首を廻らせ、十四侯の卓から一歩引いてグランスレイの後ろに立っているレオアリスへ問い掛けた。そこで問題は無いか、と。
 レオアリスが左腕を胸に当て、肯定の意思を向ける。
「アルケサスを場とできるのであれば、より良い結果が出せると考えております」
「うん」
 幼い手が卓の下で人知れず握り締められる。
 アルケサスでの戦いの場は余りにも遠く離れ、今はまだ想像もつかない。ボードヴィルでの戦いも。
 無事を祈るしかない。それが今のファルシオンの役割だ。まっすぐ顔を上げてこの場に座っていることが。
 それで、と、ベールが先を促す。
「近衛師団第一大隊大将。風竜に対する戦術は整っているか」
「はい」
 レオアリスはベールの斜め前に座るアルジマールへ、一度確認の視線を向けた。
「基本的には、法術院と近衛師団には後衛に回ってもらいます。法術院には『盾』を」
「風竜の風を凌げるように、大将殿に盾――防御壁を用意する。ただそう長くは保たないよ。半年前の風竜出現時の風威を考えれば、翼が起こす風で防げて三度か、良くて五度」
 アルジマールが右手を上げる。掌を縦に広げ、それから、人差し指だけを残す。
「風竜の吐き出す息であれば、一度かな」
 卓を囲むそれぞれの面が揺れる。「それは――」
 ゴドフリーは気遣わしげにファルシオンを見た。金色の瞳は揺れたが、抑えるように口元をきゅっと結び直す。
 レオアリスがアルジマールの言葉を引き取る。
「法術院には盾を適宜張り直してもらう必要がありますが、それが恐らく最も難しいでしょうし、術には集中を要するでしょう。ですから近衛師団は法術士の警護、そして戦闘域の把握を主な役割とします」
「僕も事前にできる限りのことはする。術式を補強しておくよ。とは言え課題は連携の為の戦闘域の把握――戦闘中の距離だよね。君と、後衛の」
 風竜の風とレオアリスの剣、いずれも余波が広範囲に及ぶ性質を持つ。
 法術士の位置取る距離が近ければ二つの鬩ぎ合いの中に巻き込まれ、容易には術式を構築できず、かつ法術士が損害を蒙る。距離が遠過ぎれば盾の維持が間に合わない。
「予め重ね掛けしておくしかないな。できれば一つ砕けたら掛け直す。そうだなぁ」
 アルジマールはぶつぶつと口の中で呟きながら、虹色の瞳を細めて卓の上を見据えた。
「重ね掛けは五枚まで。それ以上は意味はない。最後の一枚が消えたらそれを条件に発動するよう、大将殿が護符を持つといい。作っておく」
「お願いします。ですが盾の完全消失も短時間なら凌げると考えています」
「無理はだめだ」
 誰よりも早く、咎める眼差しで身を乗り出したのはファルシオンだ。
「あの時見た風竜は、とても強い力を持っていた」
「殿下の仰るとおりだよ。君は自分を過信しちゃいけないし、君が自分を維持してなきゃ風竜戦は崩壊する。僕は今自分がどれだけ人任せなことを言ってるか理解してるけど、事実だ」
「――心得ます」
 左腕を胸に当て、「それから」とレオアリスは改めてファルシオンと卓を囲む十四侯へ視線を向けた。
「肝心なのは風竜の動きを制限できるかだと考えています。風竜には我々をまともに相手取る必要などありません。庇護対象であるルシファーのもとへ戻ろうとするでしょう。歯牙にも掛けず飛ばれてしまえば分断は意味をなさなくなります。風竜の足止めを確実に行いたい――ですから、もう一つの手段含めて提案を」
「もう一つって?」
 レオアリスは再びアルジマールを見た。
「……かつてジンが斬り、その上で骸の状態で甦った竜をどのような状態となれば倒したと言えるのか、それは現時点では判明していません」
 束の間、霧雨の降り込める音が聞こえるほどに謁見の間は静まり返った。
 レオアリスが今言ったことは誰もが抱いている疑問だ。確信が持てないままの。レオアリスの言葉にもその迷いが表われている。
「もし今回討ったといえる状態にしたとして、次に復活は無いと考えていいのか。再び復活するとしたらそれはまた長い時を要することなのか――これらが今現在不明なままです」
「――確かにね」
 アルジマールのやや幼い場違いに思える声が、謁見の間の緊張を少なからずほぐしている。
「僕もそれは考えていたけど、今のところどちらとも確証がない。前例を聞かないからね。だから状況を見ながら、手を変えなくちゃいけないと思う」
「失礼ながら」
 北方第一大隊大将ルビノが、卓を挟んだレオアリスの正面から、片手を上げる。
「今回の要因がルシファーなら、ルシファーを倒せば終わると考えられないでしょうか」
「それが一番可能性は高いよね。呼び起こしたのはおそらくルシファー、もしくは彼女がきっかけだし――ただ、さっきも言ったけど確証がない」
「確かに……我々はいずれにも対応できるよう備えて臨むしかない訳ですね」
 ルビノが腕を組み、他の大将達と顔を合わせる。ルシファーへの対応は正規軍――アスタロトとアルジマールにかかっている。
 ロットバルトは視線をレオアリスへ向けた。
 問い掛けたのはロットバルトではなくベールだ。
「もう一つの手段――貴殿の提案とは?」
「風竜の足止め、そして完全に倒し切り、その上で復活を封じる必要があります」
「その方法が?」
 何名かが僅かに身を乗り出す。レオアリスは頷いた。
「あると考えています。四年前、カトゥシュ森林に現れた黒竜を倒す際用いた封術――」
「封術か。あの時の。あの時は君が黒竜を斬った後、確かに法術士団がその場を封じたんだ」
 アルジマールが指先で顎に触れる。
「ただ」
 アルジマールは言葉を探した。
 あの時、中心となって封術を行った法術士団中将ボルドーは既にない。不可侵条約が破棄された日、ボルドーは一里の控えの館の攻防戦に出ていた。館の転位陣を破棄する為に館に残り、ウィンスターと共に命を落とした。
 かずきの下の眼差しが一度床の模様の上に落ちる。その面をすぐに持ち上げた。
「それと同じことをするってことかい?」
 レオアリスが頷く。瞳の色は慎重だ。
「そうです。風竜を倒した後その地を封じること――可能であれば、アルケサスへ転移させた時点で風竜を『籠』に入れること」
「『籠の鳥』か……」
 アルジマールが呟く。
 黒竜戦の際に用いたその作戦を『籠の鳥』と称した。
 法術士団七十名による、二点同時の大規模封術。
 必要なのはまず刻印を対象の足元に施すことによる足止め及び、その刻印により足元から第一の『籠』――檻と言ったほうが正確だ――を立ち上げる部隊。
 そして離れた地点から詠唱によって、第一の檻を補強し、囲い込む為の法術を展開する部隊、その二つ。
 黒竜戦では第二の部隊を更に六方面に分けている。
 足元には高位の法術士を少なくとも十名、第二の部隊にはその六倍を要するが、成功すれば黒竜を生きたまま、少なくとも数百年単位では抑え込めると目されていた。
 十四侯の卓には封術への期待が滲む。
「そうか、そういう方法も――」
 思考を巡らせているのかアルジマールは口元で何事か呟いていたが、首を振った。
「――いや、それは難しいだろう。相性が良くない」
「相性とは」
 ランゲが眉をしかめる。
「あの時は対象がいたのがそもそも檻とも言える地底だったし、封術は空間系だからいわば風竜の風と同系統なんだ。それに黒竜の酸よりも風竜の風は多方向広範囲に影響する。倒した後ならともかく、戦いが始まった時点で封じても封術がそう保つとは思えない。内から砕かれる可能性が高い。でも、そうだな……」
 そう返したが、後半はまた独り言に近い。
「大将殿がある程度力を削いでからなら――いや、でもそうか、術式を組むのに余り離れすぎててもいけないし、そうすると術式陣形が風竜に視認される――かと言って目眩しに資源を割くわけには」
「私が封術内に入ります」
 レオアリスへ、視線が集まる。
 ファルシオンは驚いて立ち上がった。
「――そんなこと」
「望む成果は一つです。転移と同時に風竜を囲うよう整え、封術で捉えた上で対処すれば周辺への被害も抑えられますし、封じることも容易になると」
 ファルシオンは眉をひそめ、首を振った。「それは、だめだ」
 諸侯は顔を見合わせている。
 ロットバルトが息を吐いた。
「その方法では、封術の内側で貴方一人が対峙することになる」
「そうです」
 蒼い双眸が一度卓を抑えるように巡り、レオアリスの上に据えられる。
「無謀な手段だ。賛成はしかねます。戦場がアルケサスであれば周囲への影響は抑えられる。その為にルベル・カリマはアルケサスを提案した――それで充分でしょう」
「そうだねぇ」
 アルジマールも肩を竦めた。
「ルベル・カリマの反応が怖いし、そもそも大将殿を使い捨てにするようで僕的に気分悪いし」
「私も、それは賛成できない」
 ファルシオンはきっぱりとそう言った。





「アルジマール院長」
 呼び止められたアルジマールは、翳った廊下でしぶしぶ振り返った。
 歩み寄るレオアリスの意図がすっかり理解できているのだろう、困ったように眉根を寄せる。
「諦めてないのか――まあそうかもしれないけど……無駄だよ。言ったけど僕やる気ないし」
 そのアルジマールの前に足を止める。アルジマールは虹色の瞳でレオアリスを見上げた。
「あれをやるにはまず風竜の足元に刻印を打つ必要があるし。黒竜の時みたいに狭い場所で動きをある程度制限できてるならともかく、そう簡単に風竜を封じる規模の刻印を何箇所も打てやしない。最も危険な足元に法術士を配する訳にはいかないし」
「それは俺が担えます。刻印を打つくらいなら戦いながらでも可能でしょう。刻印さえ先に整っていれば――例えば護符と同じように」
「あのねぇ」
 そう言ってアルジマールは息を吐いた。
「さっきはっきり言ったでしょ。困難なのは足元の術式構築だけじゃない。二点同時のもう一部隊だって、アルケサスじゃ視界を妨げるものがほとんど無いんだから、風竜に視認されたら暢気に術式構築なんてさせてもらえない。視認不可能な距離まで離れたらさすがに風竜を封じるまでの大規模な術式は構築できない。納得してないなら言い直そう。無理だ」
 容赦なくそう言い切り、ちらりと、レオアリスの面を視線が撫でた。
「何を急いでるんだい」
「急いではいません。確実な方法を考えて、その内の一つです。というか、それ以上に確実な方法が思い付かない。何もそこで死ぬつもりはありません。風竜で終わりじゃない。だからこそ、早い段階で決着する手段を取るのが妥当だと」
 アルジマールの呆れた色がより濃くなる。
「君が黒竜戦の戦術を確実だと考えるのは解る。風竜が再度復活する可能性があると考えるのも解る。そして西海――、ナジャルまで保たせたいと考えるのも解る」
 レオアリスはじっとアルジマールを見下ろした。
「ヴィルヘルミナの時は僕が君に剣を使わせなかった。でも風竜相手では剣を使わざるを得ない。消耗は免れないと思う」
「だから」
「それでも、封術の中で戦うのは承認できないよ。壁を作って内に押さえ込む分、その中で反射が生じると考えられる。解りやすく言えば、風竜の起こした風は封術の内部では拡散せず、威力を吸収、増幅し続けて君を巻き込み、切り裂く。何重に盾を張っていようと無駄だ」
 虹色の瞳は一度、ゆらりとその色を揺らせた。
「僕の説明が理解できないとは言わせないよ。特に君には」
「――」
 レオアリスは息を吐き、顔を上げた。
「判りました」








 アスタロトは昇っていく朝陽を追って瞳を上げ、その輝きを瞳の中に留めた。
 サランセリア地方に三日間続いた雨と曇天は、ようやく昨夜になって解消したが、大気は一息に冷たさを増した。
 騎馬の鞍に跨り顎を持ち上げて前方を見据え、手綱を握る。
 十一月九日――
 王都は早朝、ボードヴィル制圧を公布した。
 その報は伝令使に乗せ、国内のすべての都市に伝えられた。ボードヴィルを除いて。
 既に昨日早朝にエンデを出て、正規軍の公称三万九千――内二万をエンデに残し実働として一万九千の兵達は、九日の朝にはボードヴィルへの道程を半分ほど過ぎた位置にあった。
 このまま軍を進めて夕刻ボードヴィルへ至り、最終通告の上、開戦を宣言する。
 ルシファーと風竜とを分断し、そして個々に戦い、これに勝利する。
 アスタロトは手綱を握っていた手を一度広げた。そこにまだ炎はないが、ひと月前のような焦りや不安は感じられなかった。
(――戻る)
「公」
「――進もう」
 アスタロトの言葉にタウゼンが右手を上げる。
 静かに、重い足音、蹄の音を鳴らして兵列が進み始める。
 正規軍の青と王家の暗紅色の旗を風に揺らし、西を目指して進んで行く。




 陽が天頂に昇り、そして次第に傾き始める頃、ゆっくり、だが確実に行進する正規軍兵士達の前面に、シメノスの岸壁に堅牢に佇むボードヴィルの街壁と家々、そして砦城と尖塔が姿を見せ始めた。
 タウゼンの号令のもと、一万九千の兵は静かに、自らの内に戦いへの意志を内包しつつ、足を止めた。
 アスタロトは騎馬をボードヴィルを見下ろす最後の丘の上に立て、なだらかに降っていく丘の先にあるボードヴィルを見据えた。
「――ボードヴィル。ここが――」
 東からの風が馬上のアスタロトの髪を煽り、丘を吹き下っていく。
 見晴るかすボードヴィルの街は街門を固く閉ざし、丘陵と街門との間には一度泥地化した名残が、下草のまばらな固く白っぽい地面を晒している。
 シメノスの岸壁の縁に建つボードヴィル砦城の大屋根に、白い骸の竜の姿があった。
 ボードヴィルは静まり返っているが、正規軍の進軍と布陣には、既に気付いているだろう。
 真紅の瞳がルシファーの姿を探して動き、求める姿を映すことなく、下される。
 アスタロトは馬体を返して一旦ボードヴィルに背を向けると、自らの身を置くべき陣の中央へと戻った。



















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2020.3.8
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