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王の剣士 七

<第三部>

第六章『空とみぎわ


 

 レオアリスは枯れた芝の上に胡座をかいて座り、ロットバルトを見上げて笑った。
「さすがに俺も、そうずっとは寝てられない」
 ロットバルトが傍らの枯れ芝の上に腰を下ろすのを眺め、ふと気掛かりそうに眉を寄せる。
「その服で地面に座るのか」
 上着の一枚だけでも艶のある青い糸に灰藍の糸で繊細な模様を織り込んだ長衣で、無造作に着ているが見るからに仕立ての良い高品質なものだ。
「そんなに問題はないでしょう」
「そうか? 芝なんてくっつけて帰ったらヴェルナーの衣装官が嘆くだろ」
「近衛師団の事務官も同じでは?」
 自分はどうなのだと返され、うーんと唸りつつ、「ウィンレット達は慣れてるから」とか「大体軍服は汚れるもんだし」などと言った。
 ロットバルトは近衛師団の数少ない事務官である彼等の苦労を思ったのか、苦笑した。
「まあでも、それ・・は温かそうだ」
 指で示したのはフレイザーが巻いてくれた襟巻きや膝掛けだ。
「ああこれな。フレイザーが出してくれた」
「フレイザー中将も変わりないようですね」
「元気だよ。クライフも」
 ロットバルトは片脚を立てた寛いだ――筆頭侯爵家当主としては作法の中におそらくないだろう――姿勢でレオアリスと向かい合った。
「良く分りましたね」
 あれだけで、と笑みを変える。
「何となく。話がありそうだったけど、あの場では何も言わなかっただろ」
 謁見の間に入って来た時、目が合った――意図的な合わせ方だった。
 ならレオアリスに関わる話があるのだろうが、自分に関わる話で、かつ十四侯の場で話ができることならあの場で出している。けれどそれらしい発言をロットバルトはしなかった。
 だから何か話をする必要があるがそれは別の場での事で、話をするのならここだろう、と当たりを付けた。
 ロットバルトは片腕を後ろにつき、ゆったりと裏庭へ視線を巡らせた。
「ここは懐かしいな」
「ここで寝てると大抵呼びに来られて、落ち落ち昼寝もできなかった」
「副将やフレイザー中将達は遠慮していたのですから、私一人ならそう頻繁でもないでしょう」
「遠慮してたのか……」
「まあ、居場所が特定できるのは有難いですね」
 隠れ家にはなっていない事は承知していたが。
 胡座をかいた足首を掴んで溜息を零す。
 それから、斜め前に座るロットバルトへ、視線を投げた。
 先日、ファルシオン主催の夜会で話して以来だ。十四侯の協議では毎回顔を合わせるが、財務院と近衛師団では基本的に動きが異なり、立ち話のように会話する機会などは意図して作らない限りほとんど無かった。
「それにしても、良くここに来る時間あったな。ここに来てる時間の分、何かの予定が押すんじゃねぇの?」
 そう言ったが、久しぶりに会えたのは素直に嬉しい。こうして直接向かい合うと、今までと何も変わっていないように感じられる。
「このくらいの時間は自由にさせてもらわないと、さすがに倒れますよ」
「無茶するもんな、お前」
「貴方に言われるのは心外ですね」
 変わらないやり取りだ。
 決してもう、以前と同じ立ち位置に戻ることはないと、理解してもいるが。
「眠る時間は? ちゃんと取れてるのか?」
「そこそこ――いや、余りないですかね」
「じゃあ寝よう」
 怪訝な顔をしたロットバルトへ、レオアリスは芝を指差した。フレイザーが用意してくれた膝掛けを差し出す。
「四半刻くらい時間はあるんだろう。寝ていけよ、起こしてやるから。何なら帰りはハヤテで送ってやる。短くても目を閉じて横になるだけで少しは疲れが取れるし、第一、昼寝は午後の効率も上がるしな」
 だから俺は昼寝してるんだし、と笑ってみせると、呆気に取られていたロットバルトはつられたように笑った。
「――では、お言葉に甘えて」
 自分から言い出したものの、素直に横になったロットバルトをやや意外な気持ちで眺める。
 すぐには眠れないかとも思ったが、呼吸はゆっくりしたものに変わった。
 やはり相当忙しいのだろう。



『ヴェルナー侯爵家、その長老会、資産、領地、これらを管理し、運営し、また財務院を管轄するには一方ひとかたならぬ労力が必要です』
 ヴェルナー侯爵家長老会の筆頭であるルスウェント伯爵はそう言っていた。
『今回、当主があの場で貴方の復位に責任を持つと申された事を、諸侯は当然、ヴェルナーが後見となるものと取るでしょう』
『貴方には、当主はこれまでと同じようなお立場ではない事をご理解いただき――、大将殿』
 ルスウェントの穏やかさを崩さない、友好的な笑みが脳裏に浮かぶ。その奥には厳しさを隠すこと無く持っているが。
『無礼を承知で申し上げますが、貴方ご自身の振る舞いや今後の展望を踏まえた身の処し方も、お考えいただきたいと願っております』



「――眉をひそめられるかな」
 この状況をルスウェントがもし見たら。
 瞳を閉じた面から視線を離し、レオアリスは胡座を組んだまま両手を芝について身体を支え、背を逸らして空を見上げた。
 流れて行く雲の足は遅い。
 高く澄んで、大地を丸く覆い、どこまでも広がっている。
 こうしていると、空に混じって自分の意識も、どこまでも広がって行きそうだ。
 とても落ち着く。
 陽射しも温かく風も緩く、芝の上で昼寝をするには絶好の日だ。
(俺も寝たいけど、後にするか)
 起こすと約束したし、起こしそこなったらそれこそ、今日の夜眠る時間が無くなりそうだ。
(前も忙しそうだったが、今は尚更だな)
 前、近衛師団の時にロットバルトが忙しかったのは、半分以上自分のせいだと自覚はある。
(礼をちゃんと言ったっけ……後で言おう)
 こんなにゆったりとした時間を過ごすのは、この先しばらくは無いかもしれない。そう思うと尚更貴重な時間だった。
 早く全て終わって、またこんな時間が流れるようになればいいと、そう思う。
 この国に。
 レオアリスは右手を鳩尾の上に当てた。握り込む指先の爪が軍服の上を滑る。
 けれど、そう、実際にはこんな時間は普通に、今だって普通にあっていいし、あるのだろう。
 王都の人々の上に、或いは、この国に暮らす多くの人々の上には。
(――)
 息を吐き、思考を空へ向ける。
 そうすればただ、この輝く空と、陽射しが全身を包むようで心地良い。
 ロットバルトを送るのとかこつけて、ハヤテで遠駆けでもしようか。
 空の中ならきっと、色んなものが剥がれ落ちる。


「貴方の氏族のルフトは、空という意味を持つそうですよ」
 見下ろすと、ロットバルトは目を開けて半身を起こしている。街の時計塔では確かに、四半刻ほど経ってはいるが。
「もういいのか」
「お陰で、溜まっていた眠気が取れました」
 言う通り、座り直した顔には眠気は取り敢えず見当たらない。
 頷いて、レオアリスはもう一度空へ視線を投げた。
「空――空か」
「貴方がハヤテで遊びまわるのは氏族特性ですかね」
「遊びまわる」
 否めない。
「でも空か、いいな」
 これまでも空は好きだったが、今まで以上に親しみが湧いた。
「さて」
 ロットバルトはレオアリスへ、それまでとは違う視線を向けた。それを受けてレオアリスが返す視線も変わる。
「伝える事が幾つか。東方での勝利に加えてワッツ中将の無事が判り、ルベル・カリマの情報も入った。城内の空気も変わり始めています」
 それは朝行われた十四侯の協議の場でも、明確に感じられたことだ。
「さっきの協議じゃ戦乱――終戦の次を見ようって、お前が提案してたな。その件か?」
 戦乱が収まった後をどうするか、それを考える時期だと。
 てっきりあの場で何か具体案を出すのかと思ったが、ロットバルトはそうしなかった。
「そうですね、関連します」
 慎重な口振りに、ロットバルトが何を持ってきたのかと、レオアリスは続く言葉を待った。
「まずは――昨夜、ヴィルトール中将から、連絡が入りました」
「――え」
 背を跳ね上げるように、レオアリスは片膝を起こし芝に手をついた。身を乗り出す。
「ヴィルトールが?! どこに――ボードヴィルか?!」
「いえ」
「何でそれを協議で――」
 レオアリスは目まぐるしく思考を巡らせ、ロットバルトがヴィルトールのことを公の場ではなく、今、この場で持ち出した、その理由があるのだと次第に理解した。
「協議の場じゃ言いにくいことか」
「彼が今いる場所が問題です」
「今いる場所? そりゃボードヴィルにいれば難しい立場になる。けど――」
 レオアリスは蒼い瞳を見据えた。
「そうじゃないんだな?」
 ロットバルトは頷き、慎重に、口にした。
「西海に」
 レオアリスの面に驚きが現われる前に言葉を繋ぐ。
「海皇、ナジャルとは異なる派閥で、穏健派と――ヴィルトール中将がそう呼んでいる派閥があります。かつての西海の皇太子の理念、理想を引き継ぐ人々です。中将は彼等と今、行動を共にしていると」
 束の間呆然と、レオアリスはロットバルトを見た。瞳が揺れる。
「……何で、ヴィルトールが」
 ロットバルトの視線はレオアリスの上に据えられている。
「西海――? 何で西海に」
「ワッツ中将と出発点はほぼ変わりません。ボードヴィルのヒースウッドはワッツ中将だけではなくヴィルトール中将を捕らえようとし、ヴィルトール中将もまた脱出した。それを助けたのが西海、穏健派だと。ヴィルトール中将は」
 陽射しは、まるで別の場所に注いでいるように輝き温かい。
「穏健派には、和平の意思があると、そう伝えてきました」
「――お前……ッ」
 レオアリスは咄嗟に腕を伸ばし、ロットバルトの襟首を掴んだ。
「和平だと?! 西海に? 何を勝手なことを――西海が、王を――!」
 ガリ、と奥歯を鳴らす。
 膝を立てた右足が、枯れた芝をにじる。
「和平? ならまず王を戻せ」
 青白い陽炎がレオアリスの身体を包んで立ち昇る。触れるものを断つ、鋭利な気配。
 それに気付いているのかいないのか、レオアリスの漆黒の瞳に同じ青白い光が滲む。切り裂くように。
「今更、西海が和平――? 何を言ってる! 俺は――ッ」
 ロットバルトは左手を上げ、自分の襟首を掴むレオアリスの右腕に――青白い陽炎を帯びたままのそれへ、伸ばした。
 ぎくりと身を引いたのはレオアリスだ。
 ロットバルトはレオアリスの二の腕に、左手を置いた。引こうとした腕を掴む。
 身を包む陽炎が掻き失せる。
 レオアリスはロットバルトの手を――それを、自らの纏わせた光が傷付けなかったのを見つめ、一度、深く呼吸した。
「――お前……」
 もう一度、息を吸い、吐く。
 束の間、空白があった。
「お前はそれを……、信じるのか――?」
「大枠は」
「――」
 呼吸はもう一つ、深くなった。
「信じるに足ると考える理由は幾つか有りますが、大きくは二つ。一つはワッツ中将の情報との整合性、もう一つは、和平がヴィルトール中将の発案であること」
 イリヤを生かすためにも、と。
 イリヤの名を聞き、レオアリスの瞳が光を揺らす。
 彼がもう一度生き延びる道は、ボードヴィルに旗を掲げた時点で、殆ど残されていなかった。
 レオアリスの腕を掴んだまま、ロットバルトはレオアリスが思い浮かべただろう名を、口にした。
「ファルシオン殿下の願いを叶えるにも、我々は我々のやり方で、この戦いの結末を和平に落とすのが最適でしょう」
 長い沈黙の中、降り注ぐ陽射しが、芝が落とす影をほんの僅か、移ろわせる。
「……殿下はそれを、納得されているのか」
「老公、大公のお二人と協議し、その上でファルシオン殿下へもご説明しました。殿下には、ご理解をいただいています」
 レオアリスの瞳はロットバルトを捉え、そしてまた流れた。
 息を吐く。
「……なら俺は、従うだけだ」
 ロットバルトは掴んでいたレオアリスの腕から、手を離した。
 レオアリスが芝の上に腰を落とす。
「――この戦乱は終わらせなくてはなりません。長引かせ、国民、国土に深い打撃を負えば、回復には戦乱の期間の数倍を要するでしょう。戦乱を将来に向けて終わらせる、その為の最適な手段として、和平があります」
 レオアリスが瞳を苦しげにすがめる。震える右手がそれを覆った。
「かつて、陛下が西海と不可侵条約を締結されたように」
 びくりと、レオアリスは肩を揺らした。
「――俺は」
 レオアリスは瞳を覆ったまま俯いている。
 ロットバルトは暫くの間、黙ったまま、彼と向き合っていた。
 風が緩く吹き抜け、乾いた芝の香りを散らす。
 ややあってレオアリスは手を下ろし、掠れた声を押し出した。
「悪い。お前の言うことは、理解できてる。進めて行かなきゃいけないのも、解る」
 ふと、澄んだ空気の中に、眼下に伸びる時計台の時を告げる鐘の音が響く。一つ。
 高いその音は、他の地区の時計台がほぼ同時に鳴らしたそれと混じり合いながら、空の中に消えて行く。
 ロットバルトはその鐘に視線を上げ、立ち上がった。
「――また」
「……ああ。今、話せて良かった」
 太陽はロットバルトの金の髪を掠め、その影を芝の上に座るレオアリスへ差し掛けている。鐘の余韻はもう空に無いが、ロットバルトはもう一つ、口を開いた。
「貴方の剣のことは、アルジマール院長から聞きました。難しい状態だと。剣を使うのは極力控えた方がいいのだろうと、私も思います」
「問題ない――」
 そう言いかけて、レオアリスは束の間口を閉ざした。脚の上に落とした手を握る。
「まあ、騙し騙しって感じは、確かにある」
 それから、ロットバルトを振り仰ぐ。
「けど、もうあと少しだろう。ボードヴィルが収まったら、その後は西海――ナジャル」
「――」
「それで終わりだ」
 そう、それで終わりだ。
 そこまで保てば。
「――レオアリス」
 両拳に落としていた視線が上がる。レオアリスはその瞳を僅かに瞠った。
「和平の話を進めます。今後少しずつ十四侯の席にも上がるでしょう。私はそれに関して、生じる責任を負うつもりでいる」
 日に陰った面には一旦微かな笑みが浮かび、引き締まった表情に変わる。
「貴方は貴方の感情を吐き出すべきです。全て」
「それは――、解らない」
「今でなくてもいい」
 ただ、と、ロットバルトは続けた。
「和平の後、ファルシオン殿下のお側には、守護者が要ります」






「上将、お帰んなさい」
 執務室に入ったレオアリスへ、クライフが変わらず明るい声をかける。
「そうそう、さっきヴェルナーの秘書官がここに来てないかって探しに来たから、来てないって言っときましたよ」
 クライフの言葉に、レオアリスは二人も判っていたのかと驚いた視線を向け、それから苦笑した。
「あいつ、行き先言わないで来たのか」
「あ、やっぱ来てました?」
「何を話したんですか? 元気でした?」
 フレイザーが嬉しそうに微笑みを浮かべる。
「ああ――まあ、色々」
 そう濁して執務机へ向かうレオアリスの様子を見て、フレイザーとクライフは顔を見合わせた。
「上将――?」
「どうかしましたか? あの野郎、何か妙なこと」
 返事が返らず、クライフはもう一度、やや声に力を込めた。
「上将?」
「……え?」
 レオアリスが執務机に手をつき、首を巡らせる。
「――や、なんでもねぇっす」
 クライフは首を振ったが、気掛かりそうな視線でレオアリスを追った。



 レオアリスは椅子に腰かけ、背もたれに身を預け、瞳を伏せた。
 和平。
(――そうか)
 ロットバルトが言っていることは、理解できる。
 それが、現実だ。
 そう進んで行く。
 それが正しい。














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2020.2.16
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