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王の剣士 七

<第三部>

第五章『地平の燎火』


 

 カラカラと、空に乾いた骨が鳴る。
 風が奏でる木琴の音のようだ。
 白く、巨大な骸の竜が翼をあおぐごと、純白の骨は澄んだ音色を奏でた。
 空の青さに瞳を閉じる。



 初めて海の青さに包まれた時、とても驚いた。
 その透明な美しさ。
 まるで違う世界だった。


『貴方は、空からいらしたのか』


『大空を舞うのは翼ある者だけだと思っていた』


『では我々も、世界に縛られなくてもいいのだね』


 その裏にどれほど深く、昏く、閉ざされた世界があったとしても、彼の微笑みはそれを少しも感じさせなかった。








 サランセラムの空は高く澄み、ところどころに薄く伸ばした雲を棚引かせている。
 丘陵は西海軍の侵攻に伴う泥地化で、かつての美しい起伏は一部損なわれていた。
 その中でボードヴィルは、背後にシメノスの深い断崖を背負い、ぽつりと存在している。
 シメノスの西海軍は七日前の総攻撃――その敗北後に退き、正規軍北方軍の部隊はボードヴィルから離れたサランセラム丘陵の西端に駐屯している。ボードヴィルの街の周囲はこの半年来、初めての無風状態だった。
 ただそれは、砦城内部の状態との対比のようであったかもしれない。



「失礼致します、ミオスティリヤ殿下。お食事を下げに参りました」
 二人の侍女が戸口で深々とお辞儀し、手押しの食器台を押して入ると、食卓の上に置かれていた朝食の食器類を台へ下げていく。二人とも十代半ばと前半のまだあどけなさが残る少女だ。
 銀の皿の上に手を付けられないまま残されていた果汁の寄せ菓子クーヴァレが、持ち上げられて柔らかな弾力を表し揺れる。葡萄の果汁を固めたそれは光に宝石のように透け、舌に溶けて広がる甘さを想像させる。
 少女達のうっとりした視線に、イリヤは読んでいた書物から目を上げてにこりと笑った。
「僕は甘いものが苦手だから残してるんだけど、料理人が悲しんじゃうから秘密にしたいんだ。だから君達、またお願いしていいかな?」
 いつもの事だけれど。
 こうして食事の時に出される菓子を、イリヤはそう言って侍女達に分けていた。毎回綺麗に平らげられる菓子の皿を見て、料理人はイリヤが甘いものを好むと思ったのか、朝と夜には必ず用意されている。
 可愛らしいお菓子に顔を輝かせる少女達に、ほんの少し気持ちも晴れる。手元の果汁寄せクーヴァレのように身体を揺らして部屋を出る二人を微笑んで見送り、イリヤはその視線を窓の外に向けた。
 空は澄んでいる。
「ラナエ――」
 もう、子供は生まれたはずだ。どんな子だろう。
 ラナエに似てとても可愛らしく、強い子になるに違いない。
 彼女は心が強い。自分よりもずっと。
 その柔らかな手でイリヤの手を握り、微笑んでくれる、それがイリヤの支えだった。
 けれど、彼女を一人のままにしておいていい訳がない。
(俺の為に強いんだ、彼女は)
 強くあろうとしてくれている。
 会いたい。
 会って抱きしめたい。
 けれど、ともう一度、イリヤは奥歯を噛みしめた。
 イリヤはこのボードヴィルに責任を持たなければならない。
 ミオスティリヤという名前でここにいる事を選んだ自分に。
(西海との和平を、仕立てる。ヴィルトール中将が言ったように、それがこの街をこの国に戻す最大の手段だ)
 ヴィルトールとワッツが七日前、あの総攻撃の夜に西海の将軍レイラジェと話して以来、まだ再度の接触はない。
 ヴィルトールはその時に、まずは協働を持ち掛けている。
 イリヤは直接話しをしていないけれど、西海の穏健派と動きを合わせられるなら、和平の道筋はきっと付けられる。
(ワッツ中将もいてくれている今なら、可能性が広がってる)
 ヒースウッドは会えば相変わらずイリヤへ頭を伏せるばかりだ。メヘナ達貴族の半分は自分の保身を優先している。
 そんな状況の中で未来を変えるのであれば、イリヤが自らもっと踏み込まなくては、可能性は可能性のままに終わるのだろう。
(王都への繋ぎは、ワッツ中将が担ってくれる。ラナエを守ってくれているヴェルナー侯爵と連絡が取れれば、そこからボードヴィルが取るべき動きを決められる)
 きっとレオアリスにも伝わるだろう。
 ファルシオンにも。
(俺がやるべきは、ボードヴィルをこれ以上混乱させない事――、王都への叛旗の色を少しでも抑えて、それが外から見えるようにする事。西海との和平を整える事。それから)
 瞳を閉じる。
(すべてを、その未来に収めるなら、その責任を全うしなくちゃならない)
 ここに旗を掲げたミオスティリヤは。


「――イリヤ」
 呼ばれて顔を上げると、ヴィルトールが入って来たところだった。
 ヴィルトールは普段とは違い、温和な面を強張らせている。
「どうしたんですか、ヴィルトール中将」
 ヴィルトールは急ぎ足で近寄ると手を伸ばし、イリヤの肩を掴むと検分するように視線を落とした。
「気分は――どこも体調は悪く無いね?」
「え? ええ、どこも――」
 何の話をしているのだろう。けれどヴィルトールの顔は久しく見ていないほどに強張っている。
「ならいい。少しでも体調に変化があったら必ず教えて欲しい」
「中将? 何かあったんですか」
 ヴィルトールは肩から手を離し、束の間見せた迷いを、振り切るように息を吐いた。
「部屋付きの侍女が二人、死んだ」
 一瞬、何の話か判らず、イリヤは書物の上に置いた手を浮かせ、ヴィルトールを凝視した。
「えっ」
「君が食べるはずだった菓子に、毒が盛られていたようだ」
 毒――
「――そんな……じゃあ、あの子達」
 つい半刻前、美しい菓子に心を躍らせていた二人の少女が――
 イリヤは俯き、卓の上に置いていた手を強く握り込んだ。
「……お、俺のせいだ。あの子達に、あげたから」
「いや。君はいつもそうしていた。こっそり食べてしまうようにと、そう言っていたのを私も知っていた。知っていたのは私だけだ」
 廊下を慌ただしく走る足音が聞こえ、
「ミオスティリヤ殿下!」
 駆け込むと同時にヒースウッドはイリヤを認めて直立し、それから彼の足元に膝を落とした。
「ご――ご無事で、ご無事でいらっしゃいましたか……!」
 身体全体で息をし、見上げた顔は口元の髭を震わせている。
「御食事に毒を盛られたとお聞きし、もしや、万が一にも、御身にと――」
「大丈夫だ……僕は」
 ヒースウッドが青ざめた面を伏せ、どっと全身から力を抜いた。
「おお、良かった――」
「ヒースウッド殿。誰が指図した事か、それを明らかにしなくてはいけません」
 ヴィルトールはヒースウッドが立ち上がるのを待ち、彼と向き合った。ヒースウッドは慌てた面で、何度となく瞳を瞬かせている。
「さ、指図――このボードヴィルに、ミオスティリヤ殿下を害そうとする不敬者など」
「いるから二人死んだ」
「っ」
「許せる事では無い。殿下の命が狙われる事も、その為に無関係の者が犠牲になる事も」
 ヒースウッドの唇がぶるぶると震える。
「――そう、そうです。到底、許せる事では……ッ」
 音を立てて息を吐き、ヒースウッドは決意も固く、まなじりを吊り上げた。
「ミオスティリヤ殿下! 殿下の御身は必ず、我等がお守りいたします! 二度とこのような事が無いよう、徹底いたします!」
 右腕で胸を叩くように敬礼し、ヒースウッドは頭を伏せた。
 イリヤは今、自分が発する言葉を見つけられずにいた。
 ヴィルトールが息を吐く。
「警護の増強と――今後、殿下の御食事には食材及び調理の際の監視を入れた方がいいね」








 石畳の上に足音を鳴らして中庭に駆け出し、ヒースウッドは砦城の大屋根の上にルシファーの姿を見上げ、声を張った。
「ルシファー様!」
 視線が落ちるのを待って膝をつく。風竜に凭れていたルシファーが身を起こす。
「ルシファー様! お話がございます」
「――コーネリアス、どうしたの?」
 すぐ側に声を感じ、ヒースウッドは伏せていた面を上げた。いつの間にかルシファーの姿が斜め上に浮かんでいる。
「ミオスティリヤ殿下の御身についてでございます」
「ミオスティリヤ――そう、そうね」
 呟いた言葉は耳朶にも触れず溶ける。
「何だったかしら。問題?」
「今、この城内は二つに分かれております」
 ルシファーは爪先を優美に伸べ、ヒースウッドの前に降りた。ヒースウッドが赤面し僅かににじって退がる。
「王都が東方公討伐を宣言した事で、このボードヴィルの立場に不安を覚えているのです。特にメヘナ子爵は当初より慎重派でしたが」
「彼等は何に不安なのかしら」
 ヒースウッドは身を硬くした。
「はっ。――恐れながら、今のこのボードヴィルは王都へ叛旗を翻す存在であると――す、少なくとも王都が我等をそう見ているのではないかと。おそらく彼等は、その為に――ミオスティリヤ殿下のお命を」
「ねえ、コーネリアス。貴方はいつまで取り繕うの?」
「は――」
 戸惑って――困惑して、ヒースウッドはルシファーを見上げた。
「その」
「貴方はもう私を理解したと思っていたのに」
 声には失望の響きがありありと感じられ、ヒースウッドは一層身を伏せて青ざめた。
「わ、私ごときが、貴女を理解するなどと」
「顔を上げて私を見なさい」
 恐る恐る、顔が上がる。
「答えなさい。私の望みが、本当は何だったのか――」
「あ――」
 額やこめかみから汗が伝い、顎から滴る。


 ヒースウッドはただ、この美しい存在を守りたかったのだ。
 この存在を守る盾となり、この存在が望む事を成すための、行く手を阻む荊棘いばらを切り裂く剣とならんとした。
 そう願った。
 半年前の、あの明け方。


「私の望みは、この国の崩壊」
 紡ぐ言葉は恐ろしく、唄う姿は美しい。
「かつて望み、得られなかったものの獲得」
 空に溶けてしまいそうで、ヒースウッドは我知らず手を伸ばし、ルシファーの手を取った。微笑みがヒースウッドを捉える。
「王が他者の足掻きを顧みないのであれば、それが間違いだったと後悔させる」
 ルシファーはヒースウッドが捉えた手をやわりとほどき、追い縋る手を躱して羽根のようにヒースウッドの前に浮かんだ。屈み込み、覗き込む。
「その為には、コーネリアス、私にはこのボードヴィルが必要なの。歪んだ嘆きと悲劇、歪んだ灯し火」
 細い両手を伸ばし、ヒースウッドの頬を包む。
 唇はかぐわしく微笑んだ。
「貴方は私に忠誠を誓いなさい。私個人に。その為に在りなさい。私の為に――貴方は、私の為だけに」
「――っ」
 ヒースウッドの武人然とした面に、感極まって溢れた涙が伝う。白い手にそっと包まれた頬が、ヒースウッドの動きそのものを奪ってしまったかのように、身動ぎ一つせず、ルシファーに瞳を注いだ。
「それこそが――それこそが、我が望みでございます」
 声は熱に浮かされて掠れ、だが押し出されるように口を突いた。
「貴女をお守りし、お支えし、貴女の望みの為に、我が身と命を費やしましょう」
「――嬉しいわ」
 ルシファーの白い手が頬から離れる。名残惜しく、ただどこか安堵を感じさせる視線でその手を追い、ヒースウッドはゆっくりと、肩に込めていた力を抜いた。
 ルシファーは覗き込んでいた身体を起こし、首を傾けた。
「それで、ミオスティリヤ殿下がどうしたの?」
 我に返り、ヒースウッドが左拳を地面に落とす。
「はっ! 何者かが、殿下の御食事に毒を盛ったのです。幸い殿下はご無事でしたが、侍女二人が亡くなりました」
「それがメヘナだと?」
「おそらく――メヘナ子爵が保身を考えた、手段ではないかと」
 ふわりとルシファーの身体が揺れる。
「メヘナなど好きにさせなさい。どうせ今の状況で取れる手段はミオスティリヤ殿下の懐柔、その次は捕縛。それが叶わなければ、暗殺――前の二つを飛び越したようだけれど、それが何時かなんてそう意味はないわ」
 ヒースウッドは顔を強張らせ、髭を蓄えた口元を震わせ引き締めた。
「し、しかし」
「ただし、ミオスティリヤ殿下は最後まで、ボードヴィルの希望の旗印でいて頂かなくては」
 見上げたルシファーの姿は、空の青さに溶けるようだ。その表情は陽光の影が差し、捉え難い。
「ああいえ、そうね――メヘナは、ミオスティリヤ殿下の暗殺を図った咎で処罰なさい」
「しょ、処罰――」
 舌がもつれる。
「当然の事よ。城内が乱れるのであれば、その原因の粛正を。その為に貴方が上級大将として実権を握っているのだから」
「しかしそれでは、メヘナ子爵の兵達の反発も」
「ミオスティリヤ殿下に帰順する事を条件に、彼等は不問に処せば良いでしょう」
 言葉はヒースウッドの耳を捕え、じわりと落ちて来る。
 ルシファーの美しい唇に、微笑みが浮かんだ。
「そうね、それから、メヘナの協力者は、ワッツと、ヴィルトール」
 ぎょっとして身を引こうとしたヒースウッドを、頬を包んだ細い手が引き止める。
 暁の瞳が、そこだけ夜明けの前のようにヒースウッドの意識を吸い込む。
「もう動く時よ、コーネリアス」

















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2019.9.23
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