八
「じゃあ上将は、マリーンのところでそのプラドという剣士と話したのね」
フレイザーは気がかりな溜め息と共にそう言った。
「ああ」
頷いたクライフの向かいの席で、頬杖をついたまま瞳を暗い窓の外へ流す。空いている右手の指先で陶器の盃の縁をなぞった。
二人がいるのは軍士官の為の談話室の一角だ。卓上で揺らめく蝋燭の灯りが、その傍らの緑の瓶と白い陶器の盃の赤い液体を鈍く照らしている。
「今、色々混乱しているでしょうね」
館に戻って、一人で何を、どんな事を考えているだろう。
夕食を一緒にと誘ったが、少し考えたいのだと言った。
「ずっと、独りだと思っていたんだもの。戸惑って、でも、きっと嬉しいわよね」
氏族――血族。プラドがレオアリスにとっての伯父に当たるなら、とても近い存在だ。
「でも、俺達の方が長いし」
クライフの口調にフレイザーが笑みを零す。
「当然よ。私達の方が上将を良く知ってる。でも」
「何だよ」
「手を差し伸べられるのはどっちなのかしら」
「ンなの当然……っ」
クライフは盃を掴み、ぐい、と中の酒を呷った。
「――」
「覚えてる? 今年の冬、黒森に行ったでしょ、あの時」
「あー? ……覚えてねぇ」
フレイザーがまた微笑む。
「吹雪を起こして森を閉ざしてた原因は、我が子を守ろうとした魔獣だった。あの時、上将が言ってたじゃない」
「だから覚えてねぇって」
盃に葡萄酒を注ごうとした手から、瓶を取り上げる。
「上将は、側にいて欲しかったって、言ったわ」
「――」
『やっぱり、そんな事よりずっと、傍に居たいだろ――、子供は』
命を懸けて子を守るよりも、矛盾かもしれないけれど、子が望むものは。
(――すごく、複雑ね……)
傍にいて欲しかったという想い。
そしてそれとは別に、重く圧し掛かるものが、恐らくもう一つレオアリスにはある。
(そこに気付いて――そんな事を考えて欲しくないけど、でも)
「……フレイザーは、上将が氏族と生きる方が正しいって言うのか?」
「違うわ。でも――」
フレイザーは手にしていた葡萄酒の瓶を傾け、クライフの盃に沈んだ赤い色の酒を注いだ。
「考える事は必要だと思うの」
『ベンダバールへ戻れ』
プラドの言葉が耳に残っている。
(ベンダバール)
氏族。
『俺はこの国に三人を置いて来た事を後悔している。母も兄も、妹も命を落とした。ルフトも失われた。だからレオアリス、お前を連れに来た』
誰もいないと思っていたのだ。自分に繋がる者は。
プラド――確かに彼の上に、懐かしさを感じた。
同じ剣士、同じ氏族、
母の兄。
(母さん――)
どんな人だったのか、今まで辿る術は祖父の語った遠い姿だけだった。
父であるジンは、様々なところに痕跡がありその名を誰かが語ったけれど、母の名は初めて聞いた。
陽炎のようだった母の実体を、初めて想い起すそのきっかけを、プラドが持って来た。
母親という存在を考えれば、胸の奥がふわりと温かくなり、それから強く掴まれる。父を考える事とはまた違うところにある感情。
けれど――
ふと、レオアリスは呟いた。
(あれ、俺――何で今まであんまり、考えなかったんだろう)
今まで母の事を、父ほどには、深く考えて来なかった。
それは何故だろうと、どことなく、焦りに似た感情と共に思う。
どちらも大切で、どちらにも、叶うのならば一度でいい、会いたい。
(父さんが、名前をあちこちで聞くから、じゃ、なくて)
母の記憶は――温もり。
自分を包み込んだ、温かい――
最後の。
バインドが言っていたのだ。
父が赤子だったレオアリスの覚醒を抑える為に、戦いの中で意識を逸らせた。
だからバインドが勝ったのだと。
それはもう、知った。自らのこの剣と共に負った。
そしてバインドは剣士の里に辿り着き――
微かに覚えているのは、生まれたばかりの自分に、覆い被さった温もり。
バインドの剣から守ろうと、腕の中に包み込んだ母の温もり。
バインドの右腕を、その剣と共に切り落としたのは。
「――ッ」
身体が、一瞬落ちる感覚があった。
音がうるさい。
瞳を見開く。
けれど捉えるものは闇だけだ。
耳を聾する音が自分の鼓動だと気付く。
同時に、時計の歯車がカチリと回り、低くくぐもった音が時を知らせて流れる。
顔を上げれば、部屋の中は既に一筋の明かりも無く夜の闇に沈んでいた。
「――何刻だ……」
時計は九回音を鳴らした、と思う。
いつの間にかそんな時刻になっていた事に、それまで肺に溜め込んでいた息を吐く。
鼓動は収まらず、ずっと身体の中に響いていた。
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