三十三
明けて、狩月、十一月二日。
ヴィルヘルミナを平定し、王都軍は派兵から丸一日後の午前八刻に帰還した。
誰も欠けることなく、そしてベルゼビアとの内戦が始まることもなく解決を迎えたと、凱旋の先触れが高らかに宣言して王都の街を駆け上がり、通りは喜び迎える人々で溢れた。
何より、王妃クラウディアと王女エアリディアルが無事に戻ったことを人々は喜んだ。
人々が詰めかけた南大通りを正規軍の凱旋の列が長く登っていく。歩道や窓から沸き上がり降り注ぐ歓声は、王妃達の馬車が人々の前に現れると一際大きく、波のように辺りを打った。
正規軍将軍アスタロトと副将軍タウゼン、東方将軍ミラー、そして近衛師団総将代理グランスレイと第一大隊大将レオアリスが、馬車の周囲に騎馬を立てている。
馬車の窓は開き、王妃クラウディアと王女エアリディアルが、集った人々に穏やかに微笑む姿を目にすることができた。
クラウディアに施されていたオブリースの術はアルジマールによって解かれ、疲労はあるものの、王妃は王城に至る長い道を、一度も微笑みを絶やすことなく人々へ眼差しを返していた。
母上、と――
わずかな言葉も綴りきれず、母クラウディアが広げた腕の中へ、ファルシオンは飛び込んだ。
「ファルシオン――!」
王妃の腕が幼い王子の身体を抱きしめる。
「長い間、お一人で――良く、頑張りましたね」
母の言葉を聞いた瞬間、堪えるように震えていた肩から力が抜け、抑えた嗚咽はすぐに泣き声に変わった。
温かな腕の中でしばらくの間、ただひたすらに泣きじゃくるくぐもった声が溢れた。
王妃達の体調を慮って短い謁見が終わり、さほどの時を掛けず二人は居城へと戻った。今いるのはファルシオンが暫定的に起居している、居城南に位置する王の館だ。
レオアリスはグランスレイやセルファンと共に扉近くに片膝をついて控え、顔を伏せファルシオンの声を聴いていた。
半年間。
言葉にすればたった一言で収まるその期間は、ファルシオンにどれほどの我慢や苦しみを強いただろう。
ようやく、ほんのひと時の、また国王代理として諸侯の前に立つまでの儚い時間ではあるだろうけれど、ファルシオンは本来の五歳の子供に戻って、安堵と母への慕わしさに心をほぐすことができた。
まだ守られなければならない歳なのだ。そう思えばより、この半年を支えなかった自らの不甲斐なさを実感する。
この先、ベルゼビアの混乱を処理しながら、その上で今回と同様の問題を抱えるボードヴィルをまず平定し、そして西海との決着をつけなくてはならない。
未だ長い道のりだ。
それを成して初めて、ファルシオンは代理という立場を――
そう考え、レオアリスは息を抑え込んだ。
「――」
「ファルシオンは、眠ってしまわれましたね」
柔らかな言葉に視線を上げる。
王妃クラウディアは自らも涙に濡れた瞳で愛おしそうに唇を綻ばせ、寝息を立てるファルシオンの柔らかな銀の髪を指先で梳いて整えている。胸にもたれて眠るファルシオンを抱いた母へ、エアリディアルもふわりと微笑んだ。
「お母様もお疲れでございましょう。まだ御自身も措置を受けられたばかりです。何かお身体に障りがあってはいけません、しばらくお休みくださいませ」
「あなたも――エアリディアル」
王妃は手を伸ばしてエアリディアルの頬に触れ、その手で肩を抱きしめた。「あなたにばかり苦労をかけました」
じっとそう言い、瞳を控えているレオアリス達へ向ける。
「あなた方近衛師団にも、この場で改めて、心からの感謝を申します。これまで、この国とファルシオンを、良く助けてくれました」
グランスレイ、セルファン、そしてレオアリスはその言葉に深く身を伏せた。
「わたくし達もこれから、王太子たるファルシオンを共に支えて参ります。陛下の分も――」
クラウディアは束の間、言葉をつまらせ、堪えるように俯いた。グランスレイとセルファンが面を上げて王妃を見つめる。陛下と口にすることそのものが、王妃には心が潰れる想いがするのだろう。
ふと、グランスレイは右隣に膝をつくレオアリスへ、視線を向けた。レオアリスは顔を伏せたまま唇を引き結び、床に置いた右手が、僅かに揺れた。
クラウディアは顔を上げ、もう一度ファルシオンの髪を撫ぜた。
「ハンプトン、セルファン大将。ファルシオンを寝室へ。ハンプトン、わたくしも今宵はファルシオンの側に居りたい」
ハンプトンは泣き顔のまま、けれど晴れ晴れとして頷き、すぐに寝室の準備の為に女官達を呼びてきぱきと指示していく。
エアリディアルは部屋に留まり、王妃とファルシオンが部屋を出るのを見送った。ハンプトンと、そしてセルファンとグランスレイも二人に従い、部屋を出る。
エアリディアルの侍従長マーティンソン夫人がそっと近寄り、「姫様」と感極まって涙を拭った。
「館にお戻りになられますか。それとも」
「わたくしも、今日はここにおります。お二人の側に部屋を用意していただけますか」
エアリディアルは侍従長の手を取り、両手に包み込んだ。マーティンソン夫人もきびきびとした所作で女官や侍従達へとあれこれ指図していく。
二人が――王妃クラウディアと王女エアリディアルの姿が居城にあることが、昨日まで沈んでいた居城内に活気を取り戻しているのは確かだった。今、この場だけではなく、居城の隅々に至るまで、そして王城も、城下の街にも活気が戻っている。
あとは。
「――王女殿下、私はこれにて、御前を下がらせていただきます」
一人控えていたレオアリスは、もう一度深く身を伏せ、立ち上がった。
「御身をゆっくりとお憩めになられますよう」
「レオアリス様」
エアリディアルの声が足を引き止めた。
振り返り、姿勢を正して向かい合う。エアリディアルは端然と両手を前に重ねて背筋を伸ばし、藤色の瞳をレオアリスへ向けた。
「今回、母とわたくしを救い出してくださったこと、改めて御礼を申します」
レオアリスが黙礼を返す。
「あなたも傷付いておられます」
そう言って、エアリディアルはそっと首を振った。
「いいえ。この戦いにおいて傷を負った方は、ごく僅かでした。けれどそのごく僅かのひとたちが、深く、身を傷付けた……母とわたくし――この国のため、そして内戦を防ぐために。いくら感謝をしても、足りることはありません」
藤色の瞳がじっと見つめる。
「あなたの傷が少しでも早く癒えるよう、願っております」
「――御言葉は、身に余るものです」
エアリディアルが哀しげに微笑む。
再び、深く一礼し扉へ向かったレオアリスを、エアリディアルの声がもう一度追いかけた。
「わたくしが、かつてお伝えした言葉――」
静かに。
「あれは、あなたを縛るものではありません」
レオアリスは足を止め、そして初めて、エアリディアルの藤色の瞳を見た。
漆黒の瞳がゆっくりと見開かれて揺れ、再び伏せられる。
閉じた扉をしばらくの間、エアリディアルは見つめていた。
どのように伝わったのかは判らない。ただ、自らのその言葉では充分でないことだけは、エアリディアルにも解っていた。
『その剣をもって、陛下の御身をお守りくださいますよう』
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