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王の剣士 七

<第三部>

第五章『地平の燎火』

三十二

 
  
 前方へ狙いを定めた矢尻の冷たい鉄が、夜の中で篝火の灯りを弾く。
 それは自分達の前方を囲むように埋めた王都軍の影へ、向けられている。
「斉射用意――、そのまま待て!」
 エルトマの号令が響く。
 前方に居並ぶ王都軍は、自分達の四倍もの数だ。
 死は免れない。免れようがない。
 自分はこの最前線にいて、もうすぐにでも敵の矢が身体のどこかに突き立ち、突進する槍や剣が、自分を貫き、容赦なく斬り倒すのだ。
 瞬きの後には、数呼吸後には、苦痛が――確実な死が、訪れる。
 逃れられる訳がない。最前線、陣の中央にいて、逃げ出すことなど不可能だ。身に突き立つ矢から、斬り裂く剣から――もしかしたら騎馬の蹄に潰されるのかもしれない。
 番えた矢を引く手が震えた。
 ここで死ぬのだ。無残に斬り裂かれる、苦痛の中で。
 死ぬ。
 這い上がる震えをどうにか抑えようと唾を飲み込んだ時、ふいに正面に強い光が輝き、瞳を刺した。
 王都軍との間に光球が生まれ、それが夜に煌々と光を投げている。
 法術――
 ああ、忘れていた。それがあった。矢や剣や槍だけではない、もう一つの死。
 法術の炎が身を焼くのか、雷が撃つのか、風が切り裂くのか。それはどれほどの苦痛なのか。
 もう帰れない。
 ここで自分は――
 恐怖が、身を突き上がり短い悲鳴が喉から溢れ、同時に、番え引き絞っていた矢を、放っていた。
 その瞬間には、自分の過ちを自覚した。
 エルトマの斉射の号令が掛かる前に、矢を放ってしまった。
「違――」
 否定の声など届かない。張り詰め身を縛る死の緊張に包まれていた周囲の兵もまた、最初に放たれたその一矢に、触発された。
 周囲で弦が空を叩く。
 ベルゼビア軍の先陣から、王都軍へ。
 開戦を告げる数百の矢が、一斉に放たれた。



「何故矢を――!」
 エルトマは驚愕に声を半ば失い、自陣から一斉に放たれた矢を見た。
 絶望が思考を覆う。
 エルトマは気付いていた。ほんの数瞬前、光と共に両軍との間に降り立ったのは、少女だ。
 エアリディアル王女。
 これで戦いが止まると、その希望が心の中に沸き上がった瞬間に――
 エアリディアルへ、そして王都軍へ、もはや止められない数百の矢が撃ち出され、エルトマの目にそれは、やけにゆっくりと飛んで行くように映った。



「あれは――王女殿下か!」
 ベルゼビア軍との間に生じた光球を見据え、ミラーは声を張り上げた。
「弓を下ろせ!」
 次の瞬間、驟雨に似た音が空に響く。
 ベルゼビア軍の弓弦が、空気を叩き矢を放つ音を立て、数百の矢を斉射したのだ。
「馬鹿な! 殿――」
 ミラーの周囲で、弦が空を叩く音が一斉に上がる。
 王都軍の兵士達が引き絞る矢もまた、ベルゼビアの弓弦の音を聞いた瞬間、ミラーの声が届くそのほぼ同時点で、ベルゼビア軍目がけて放たれていた。



「王女――」
 アスタロトは放たれた矢へ手を伸ばした。
 けれどその手に炎はない。



 両軍から、合わせて千に近い矢が空を切り裂き飛来する。



 ミラーも、タウゼンも、アスタロトも――、エルトマも気が付いた。
 エアリディアルの傍らに、一人いる。
 青白い光がその身を包み、彼等の足元の転位陣の光を圧してなお、夜に輝いた。



 レオアリスはエアリディアルを背に、鳩尾に当てていた手を沈め、剣を引き抜いた。
 引き抜くと同時に、右手の剣が夜空を、弧を描いて切り裂く。
 瞬きにも満たず。
 青白い閃光が、空に掛かる虹の如く、はしる。
 笛を鳴らすような音と共に、頭上を交差しようとしていた千の矢は、全て断たれ、
 その勢いを失って、地上に雨だれのように落ちた。





 呼吸すら憚るほどの静寂が、両軍の間に横たわる。
 まさに内戦の戦端を開く嚆矢となろうとしていた矢は、千近いその一矢たりとも両陣には届かず――、辺りにはまだその矢が国土に何をもたらそうとしていたか、何が防がれたのか明瞭に理解し切れないままに、茫然とした感覚だけが漂っていた。
 そこに響いたのは、たおやかな、けれど凛とした声だ。
「――戦いは――終わりです!」
 エアリディアルは二つの軍へ、両の腕を差し伸べた。
 声が風に乗り、両軍の兵士達へと届く。
「わたくしは、このとおり無事でおります。母――王太子殿下の母たる、王妃クラウディアもまた、無事でおります――!」
 ぽつり、ぽつりと、兵士達の間に呟きが溢れる。
「エアリディアル王女が――」
「妃殿下も?」
「ご無事だって」
「戦いは」
「じゃあ」
 戦わなくていいのか・・・・・・・・・、と。
 兵士達の視線はじっと、まだ光球の光を纏うエアリディアルの姿へと向けられた。
 その姿は夜の中で、確かな道標を思わせ、淡く輝いている。
「同じ国の民同士、剣を向け合い、傷付け合って良い理由など、一つもありません。同じ国の民同士で傷付け合わないためという理由以上に、剣を引かない理由など何一つとしてありません。もう良いのです」
 夜風が緩く、張り詰めていた緊張を拭っていく。
 兵士達は自らの手を、身体を見回した。
 どこにも矢など突き立っておらず、そして自らが放った矢も、誰も傷付けていない。
 傷付けることなく終わった。
 内戦は未然に終わったのだ。
「みな、武器を下ろし、心と身体を、休めてください」
 戦わなくていいのだ。


 風が緊張を拭い去った後――
 二つの陣営から同時に、歓声が沸き起こった。




















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2019.12.22
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