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王の剣士 七

<第三部>

第五章『地平の燎火』


 
「ファルシオン様、もうお休みになられませ」
 時計は夜の九刻を差している。ハンプトンはまだ寝台に入っていないファルシオンのそばに寄り、彼の手元に開いていた書物を覗き込んだ。国内の農作物や工業製品の生産量や分布などを記したものだ。
「難しそうなご本ですね」
「大公が、東方公とたたかうのは、収穫が終わってからと言ったのだ。そういう考え方が大切なのだとわかった。私もきちんと、知らなくちゃ」
「まあ」
 最近ファルシオンは時間があれば、こうした書物に熱心に目を通している。
「ですがこのように遅いお時間に読書をされていては、視力を悪くされてしまいますよ。また明日、改めてご覧ください」
「うん」
 ファルシオンは素直に頷いた。
 書物を閉じると、それまで陰になっていた卓の上に、青い石の付いた首飾りが光を弾く。
 ハンプントンが視線を落としたのに気付き、ファルシオンは手を伸ばし、その石を取った。
「レオアリスの石なんだ。ずっと私が持っていて、返していなかったの」
 ファルシオンが折に触れ、その石を握りしめていた事をハンプントンは良く知っている。返す時が早く来て欲しいと、ずっと願っていたのも。
 けれどいざレオアリスともう一度会ったら、すっかり忘れてしまっていたらしい。
 ハンプントンが皺を一筋刻んだ口元に微笑みを浮かべる。
「もういつでも返して差し上げられますね」
 そう言ってから、首を傾げた。
「殿下? どうかなさいましたか」
 俯いたファルシオンの額へ手を当てる。
「お熱――では、ございませんね」
「大丈夫」
「もうお休みください。お疲れなのでしょう」
 ハンプトンは寝台へ寄り、ファルシオンが入りやすいよう羽毛の掛布をめくった。中に隠れていた熊のぬいぐるみに気付いて、微笑みを浮かべそこだけそっと掛け直す。
 振り返り、まだ卓の前に座ったままのファルシオンに気付いて首を傾げた。
「殿下? どうかなさいましたか」
 一歩足を寄せると、ファルシオンがぽつと呟いた。
「私、レオアリスに謝らなきゃいけないんだ」
「大将殿に? これを持っておられることをですか?」
「レオアリスのことを、考えていなかったから」
 意外な言葉にハンプントンは目を丸くした。考えていなかった日など、逆になかっただろうに。
「どうしてそう思われるのですか?」
 そっと近寄ると、俯いた顔に伏せた睫毛と柔らかな頬が見えた。
「おととい会ったとき、自分のことばかり言ってしまった。レオアリスの体のこととか、きかなかった」
「まあ――」
 ハンプトンは瞳を見開き、それから微笑んだ。
 ファルシオンは大抵の事が許される立場にある。臣下への気遣いをしなかったとしても、責められはしない。
 ただ、その想いは、ハンプントンには喜ばしく感じられた。
「殿下のそのお気遣い、お心、とても素晴らしいものだと存じます」
 国の王太子で、今は国王代理。誰もが敬い、傅(かしず)き、讃め称える存在だ。
 何もしなくても周囲は全てを良いように整え、用意された行動をし、用意された言葉を口にするだけでも賛同と喝采を得られる。
 けれど周囲が自分に対しそうする事が当たり前だと、そう思って成長して欲しくない。きっとそれで得られるものは、上辺だけの賛辞だから。
 周囲への気遣い、感謝の心を持ちながら、国主としての器量と意志を持って成長して欲しいし、敬意や賞賛が王太子という立場へでは無く、ファルシオン自身に自然と向けられるものであって欲しい。
 スランザールやベール、近いし人々はファルシオンに対してそのように接しているが、ハンプントンも努めてそう振る舞っていた。
「大将殿は気にしておられないと思いますが、殿下がお気持ちをお伝えになれば喜ばれるでしょう」
「そうだろうか」
 瞳を上げたファルシオンへ、ハンプトンはにこりと微笑んだ。
 ファルシオンは日々――、本当に日々、頼もしく成長している。
「大丈夫です。今日はゆっくりお休みになって、明日お会いになる時にそうお伝えくださいませ」





 寝台に横たわり、すっかり見慣れた天蓋を見上げ、息を吐く。
 そうして一番初めに浮かんだのは、戸惑いに近い感覚だ。
 本当に、半年経ったのだ。
 クライフ達の反応も、隊士達も、ハヤテも。
 皆、半年の月日を感じさせた。
 昼間のハヤテの姿を思い出し自然と口元に笑みが滲みながらも、彼等が自分へ懐かしさを示してくれればくれるほど、半年間、確実にここに自分はいなかったのだという事実が浮き上がる。


 取り残されたような、そんな気分だ。
 それは、日々が過ぎた事にだけではなく、あの時自分が自分の中に抱いていた、行き場の無い感情からも――


 持って行く場が無い。


 レオアリスは鳩尾を掴み、奥歯を噛み締め、眉を寄せた。
 束の間、過ぎ去るのを待つ。
 数呼吸の内に、波のように引いていった。


「――ファルシオン殿下を守る」
 それだけが今、自分がすべき事だ。
 ファルシオンの事を想い起こせば、そこに淡く光が灯る。
 目を閉じる。
 そのまま長い事、瞼の内側の闇とそこに揺れる微かな光を見つめていた。










 深夜。
 ヴィルヘルミナ城の窓の幾つかは、仄かな明かりを灯していた。
 窓辺に置かれた文机に向かっていたブラフォードは書き物の手を止め、「入れ」と告げた。
「失礼致します、ブラフォード様」
 扉を開き入ってきたのはブラフォードの側近で、コンラッドという若い男だ。榛色の髪と瞳の整った細い面は荒事には縁遠そうに見えるが、武芸の嗜みと医療の心得がある。
 コンラッドはブラフォードの近くに寄り、膝をついた。
「一時は危ぶまれましたが、頂いた薬も効き、順調に回復しております。あと数日もすれば問題なく」
「ああ、そう言えば任せていたな」
 思い出したような口調にも、コンラッドは慣れたもので続けた。
「この先は」
「動けるようになればそれでいい」
「承知しました」
 コンラッドの持って来た話題はそれで興味を失ったように、ブラフォードは全く違う事を口にした。
「王都の動きはどうだ」
「私が聞き及んだところでも王都の動きはまだございません。となると宣言通り農地が収穫を終えた十一月、一気に動くのでございましょう」
「宣言通りか」
 それは王都の宣戦布告だ。
「我が父も兄も、どう動くつもりなのか――もう詰んでいると思うのだがな。どう思う」
 ブラフォードの口元に浮かんだ笑みは、嘲笑に近い。
「私には、何とも――」
 コンラッドはしばらく次の言葉を待っていたが、それ以上の指示がない事を見て取り、もう一度頭を伏せ、壁際へと下がった。
















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2019.9.1
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