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王の剣士 七

<第三部>

第五章『地平の燎火』

二十七

 
 左の脹脛ふくらはぎを血が伝う。
 床に落ちた雫は一度血溜まりを作り、靴先にまで届いていた大理石のひび割れに染み込んでいく。
 その大理石を砕いて屹立した円錐状の石柱が、鋭く先端を尖らせて並び、あと僅か三間、一呼吸の距離でしかない王妃との間を遮っていた。
(東方公の――)
 王都軍前面の大地を落とした、地を統べるベルゼビアの力。
 初めて目の当たりにするが、それは今目前に尖端を連ねる石柱と同様、無機質で意思など感じさせないにも関わらず、ベルゼビアの意のままに生成されるのだと判る。
(四大公の一角)
 アレウスの建国を支え、長きにわたり国を支え――王を、支えてきた力だ。
 息を吐く。
 靴底が僅かな振動を拾った。
 床を蹴って退いた一帯が捲れ上がり、五本、円錐の如き石の槍が突き出した。その鋭利な縁が左踝を掠め、止まりかけていた血が再び石を濡らす。
 着地しようとした床から、石の槍が立て続けに突き上がる。
「上将!」
 右足を振り抜いて尖端を砕き、身体を宙で捻って砕いた石柱に右手を着く。その手元へ、周囲の石柱の側面が剃刀の如く鋭利な刃が生じさせたかと思うと、輪を絞るように奔った。
 右手を軸に体を捻り、靴先で後方の二枚を砕く。同時にたわめた片腕で身体を上へ、跳ね上げる。
 石の剃刀はそれまでレオアリスがいた石柱へ、放射状に突き刺さり、先端を削り取った。
 削り取られた石柱は、手のひらほどの平面を覗かせている。その僅かな足場に降り、レオアリスはふっと短く息を吐いた。
 もう既に日没までの猶予の四半刻のうち、その三分の一ほどを費やしている。
 窓際のベルゼビアを見据え、全体の位置を図る。
 十五間近い横長の広間の、王妃が右奥の壁際に、レオアリスは石柱に隔てられつつも、王妃へあと三間の距離にいる。三角形を作るように、窓際にベルゼビア。
 アルジマールとクライフ、スキアがエアリディアルを守り、広間の左奥よりに移動している。彼等とレオアリスとの間には、アルジマールの法術に捕らえられたオブリースがいる。
 中央の扉寄りに、ブラフォードと警備兵二名。
「アルジマール院長、剣をください」
「さっきのは?」
「すみません、手放しました」
 オブリースの『帯』の動きを止めるのに使い、今はオブリースの手前の床に落ちている。
 唇を尖らせつつもアルジマールは再び、レオアリスの目の前に剣を出現させた。
 柄は銀を巻き装飾が施され、刃が冴え冴えと凍るように輝く美しい直刃の片手剣。
 手を伸ばし、その柄を掴む。
「万全では無いのだろう」
 笑い含みにそう言ったのは、未だ窓際の椅子に腰掛けたままのベルゼビアだ。
「剣士が己の剣を出さずに済まそうなどど、随分とこのベルゼビアを安く見積もったものだ」
「法術院長アルジマールがいて、安い対応とは思いません。それにこの城に入っているのは、我々だけじゃない」
 ベルゼビアは眉を上げ、首を廻らせた。
 先ほどからこの部屋にも喧騒が届いている事に気付いている。グランスレイ達が丘から侵入する、その音だ。
「この城の警備兵をどこまで残しているか判りませんが、外の布陣を考えれば百を残して限界のはず。そしてこの戦いはもう結果が見えています。結果が見えているのなら勧告を受け入れ、王妃殿下を今、我々へと委ねてください。貴方が四大公の一角ならば、この国の行く末を、四大公たる貴方の立場として考えるべきだ」
 ベルゼビアは口元を歪めた。
「剣士風情が、大局を語るか」
 レオアリスの周囲の床が、波打ち数十本の細い槍状の石柱を立ち上げ、打ち出す。硬い床が粘土か泥とでも化したかのようだ。
 次々と迫る石槍を剣が打ち払い、砕く。砕けた砂礫が舞い、一瞬、周囲を霞ませた。
「大将殿!」
ボルティセ
 レオアリスは身を沈めた。
 八本の黒い帯がたった今躱した首の位置を巻き取る・・・・。もしそこに何かを捉えていたら、一瞬で捻じ切っていただろう。
 空を切った帯は、すぐにばらりとほどけて落ち床を打った。
 視線を向けた先で、アルジマールの法陣円に胸の辺りまで沈んでいたはずのオブリースが、再び床の上に立ち上がっている。
カデナ
 帯が赤い光を帯びて床から直角に立ち上がり、石柱の上のレオアリスへ奔った。
 レオアリスは剣を振るい、最初の三本を断ち切り、足場の石柱を蹴った。帯が宙で再び直角に折れ曲がり、左足首に巻き付く。
 ぐん、と身体が引かれる。振り子のように振られ、天井が迫る。
 レオアリスは帯に巻き付かれた足を、蹴り下ろした。その勢いを利用して身を起こし、手にした剣をオブリースの腹部めがけ、投げる。
 足を捕えていた帯が外れ、主の元へ巻き戻る。
 帯はオブリースの正面で重なり、剣の切っ先がそれを貫き、更に帯が重なって剣を防ぐ――五重に重ねた帯を以てようやく、切っ先は止まった。
 レオアリスは振り切られた勢いのまま、天井の装飾格子に背を打ち付けた。そのまま落ちる。
 オブリースは怒りに目を血走らせ、腕を振り、一歩踏み出した。
リウビア――』
「しつこいなオブリース、君も」
 オブリースの周囲に三つ、虹色の方陣円が回転しながら現れ、半球を被せるように光の壁でオブリースを閉じ込めた。黒い帯が半球の中で虚しくうねる。
「大将殿、オブリースはいいから王妃殿下を!」
 床に降り立ち身を返した瞬間、レオアリスは苦痛に奥歯を噛み締めた。
「――!」
 右の腿に、石の矢が突き立っている。背後から再び、左肩を石の矢が掠めた。耳はまだ続く風切り音を捕えている。
「ッ」
 レオアリスは体勢を崩しつつ身を捻った。振り返った視線の先に十数本の石の矢が迫り――
 現われた光の盾がそれを弾く。
 床に片足をつき、崩れた体勢を戻そうとしたその背後で、床から鋭く尖った石柱が伸びた。
「剣!」
 アルジマールの声とともに、正面に現れた新たな剣を掴む。
 振り返りざま石柱へ斬り下ろす。
 一瞬、青白い光がレオアリスの身体と剣を包み、迫る石柱と床を砕いた。
 激しい音が響き、一瞬の静寂が生まれる。
 ベルゼビアを視線に捉え、レオアリスはもう一度、息を吐いた。
「院長、剣を」
「ええ? それは?」
「折れそうなので」
 アルジマールは子供がむずかるように地団駄を踏んだ。
「君ねえ! 今まで出した剣は僕が法術を施した超一級品の、謂わば宝剣ともいうべきものなんだからね?! それをぽんぽんぽんぽん木の枝か何かみたいに!」
「有り難く思ってます。だから折らないようにしてるし俺後で全部回収して大事にします」
「あげないよ!? 宝の持ち腐れだし君その内絶対折るし!」
 折られないもの、折られないもの、折られないもの……とアルジマールが手元の法陣円を睨みぶつぶつ言っている。
「何かその内この国、ものすごい宝剣大国になりそうだな」
 レオアリスに剣を折られないように鍛治師達も頑張ってるしアルジマールも意地になりそうだし、とクライフは束の間状況も忘れて独りごち――たつもりが、傍のエアリディアルがクライフを見て、「そうかもしれません」とふわりと微笑んだ。
 花と例えられる微笑みを向けられ、クライフが慌てて手にした剣を握り直す。
「失礼致しました! 気を抜いている訳ではなく――」
「そうではありません。なんだか、お二人の様子に少し気が楽になったように思えて」
 そう言ったエアリディアルの面は、まだ緊張を残しているものの、ほんの微かに頬に色が差している。
「あったこれこれ」
 アルジマールの声と共にレオアリスの正面に剣が現れる。
「それなら丁度いいよ。石でも岩でもすらっと切れるとっても凄い僕が法術で仕上げた逸品だ」
「へえ……有難うございます」
 あげないからね? とアルジマールはもう一度疑わしそうに目を眇めた。それを躱し、レオアリスはクライフへ視線を移した。
「クライフ、それからスキア、だったか」
 エアリディアルの傍らでスキアがはっと顔を上げる。
「二人は王女殿下の御身を。アルジマール院長、防御を王女殿下と王妃殿下に集中してください」
 三人が異口同音に頷く。
 時間があとどれだけあるか――窓の外にはもうほとんど西日は残っていない。
 戦いを、始まる前に終わらせる為には。
 レオアリスはベルゼビアへ、床を蹴った。
 足元から新たな石の刃がずらりと立ち上がる。手にした剣を斜めに奔らせる。剣はアルジマールの言葉通り、石の円錐柱を紙の如く断った。
 更に踏み込もうとし――踏み込んだ床が飴のようにどろりと溶けた。
「!」
 踝まで沈む。溶けた床は再び、厳冬に池がほとりから凍るように急速に固まり始めた。
 同時に、石の槍が五本、切っ先を起こす。
 レオアリスはアルジマールの剣を振り被り、叩きつけるように下ろした。
 剣圧が床を叩き、レオアリスの身体を押し上げる。
 数本、石槍の切っ先が脚や脇腹を掠め、だがレオアリスは後方の硬い床に足をついた。
「――貴方は」
 土を、地を意のままに操る力――刃を創り、大地を裂き、溶かし、固める。
 これほど精密に、瞬時に。
 レオアリスは憤りと共に、ベルゼビアを見据えた。
「そんな事ができるなら、貴方は西海に対してその力を使うべきだった」
 泥地化に正規軍がどれだけ苦しめられていたか。その戦場でこそ、べルゼビアの力は活きたはずだ。
 そして。
「貴方が今、いるべきは、ここじゃない」
 ベルゼビアに従う兵達がいる、街の外の戦場――
 圧倒的不利なベルゼビアに従ったのはこの力があればこそ、ならばせめても彼等と同じ場所に身を置くのが、兵をその意に従える者の責務ではないか。
「何故――」
「我が膝を折るは王のみ――」
 レオアリスは一瞬、瞳を凍り付かせた。
「……王」
 鼓動と共に、僅かに視界が揺れた。
 鳩尾が熱と痛みを帯びる。
「ファルシオンは自らに膝を折る者を、自らの能力を以て探せば良い」
 レオアリスは首を振り、沸き起こるものを押し込め、ベルゼビアを見据えた。
「――それを、幼いファルシオン殿下に求めることが、間違っているんだ!」
 周囲の床が捲れ上がる。石の槍が、十重二十重に立ち上がった。
 レオアリスは構わず踏み出した。
 青白い陽炎が身体を薄く包む。
「大将殿!」







「アスタロト様。陽が落ちます」
 既に太陽は、王都軍の背後で地平に一筋光を滲ませるのみ。戦場は日没――
 刻限を迎えた。
 レオアリス達は戻らず、ベルゼビアの軍は黙している。
 アスタロトは深く溜めていた息を、吐いた。
 これ以上、譲歩を見せる訳にはいかない。
「私が、責を追う」
「公」
「左中右共に、全隊、前進させろ」
 タウゼンは厳しい面持ちでアスタロトを見つめ、だが異を唱えることなく、傍らのハイマンス、ミラー、そして控えていた伝令兵へ、アスタロトの言葉をもう一度繰り返した。
 伝令兵が騎馬にまたがり、前後左右へ駆けて行く。


 地平に滲んでいた最後の光が、その名残を完全に消すと同時に――
 兵列は、前方からゆっくりと、動き出した。


















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2019.11.30
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