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王の剣士 七

<第三部>

第五章『地平の燎火』

二十五

 
 スキアは回廊の腰壁の陰に身を潜め、抜身の短剣を手に、その隙間からエアリディアルが入った部屋の扉を窺い見た。
 スキアの位置から斜め前方に位置する東棟の部屋は、両開きの重厚な扉が中庭との間をへだてているが、先ほど扉が開いた際、前室は無く直接広間になっている様子は見て取れた。
 金糸雀の鳥籠に手をかける。
 けれどスキアはすぐには籠の扉を開かなかった。
(王妃殿下は、あの部屋におられるだろうか)
 二人が揃っていなければこの救出作戦は達成されない。エアリディアルだけを連れ出せば、ベルゼビアは王妃を救う可能性を僅かな隙も残さず消すだろう。
 だからエアリディアルは、スキアと金糸雀が彼女の前に揃った段階で一人救出されることもできたのに、そうはしなかったのだ。
 そして、ベルゼビアに対し、王妃の立会いのもとで話をしたいと、申し入れた。
(王妃殿下がおいでか、確認したい。でも気付かれずに入るのはおそらく無理――)
 ならば、と、スキアは紙の切れ端を帯の間から取り出して掌に置き、短刀で指先をぷつりと突いた。滲んだ血でエアリディアルの所在を記す。
 外した耳飾りの筒に入れ、金糸雀の足に括った。
 強硬に侵入し、王妃がいるかどうか、確認した直後に金糸雀を飛ばせばいい。
 そこにいるのがエアリディアルだけであれば――
 スキアはぐっとはらを決めた。
 その時はその時だ。エアリディアルをまず救う。
 これが内戦の始まる前の、内戦を止める最後の機会なのだから。
 膝を浮かせた時、後ろでコツリと、音がした。
(靴音――!)
 短剣を振り抜こうとしたスキアの腕を、背後から伸びた手が掴んだ。




 エアリディアルはベルゼビアと、正面に相対した。前回面会してから十日は経っているだろうか。
 王妃を国主に立て国の樹立を宣言した時でさえ、エアリディアルはベルゼビアと会う機会はなかった。
「――多少はお聞き及びでしょう。わたくしの、婚姻に関わる話をさせていただきたく、参りました」
 母クラウディアは寝椅子の上に横たえられ、瞳を閉ざしたままだ。自らの背に母を守るように立つ。
「ご理解いただきたいことは一つ。国の根幹に関わることである以上、わたくしに求められた今回の婚姻を、お受けする訳には参りません。その理由もまたお聞き及びと思います」
「理由――、そう、確かに聞いております」
 エアリディアルは唇を引いた。
「何がおかしいのです」
 浮かんでいる笑みは、エアリディアルを嗤っている。
「貴女が我が言を補強してくださっているのでね」
「どういう――」
 ベルゼビアは椅子に腰掛けたまま、顎を持ち上げ双眸を細めた。
「貴女が従者に伝えた通り、婚姻の裁可は国王の権限だとするのならば丁度良い、この国は独立を果たしたばかりです。そこに御座おわすクラウディア女王陛下が裁可されれば、この婚儀は成立しましょう」
「母が、そのようなこと、同意する訳がありません」
「いいや、母君は賛同されました」
 ベルゼビアは手を延べた。執事が恭しく歩み寄り、筒状の書状をその手に渡す。光沢のある繊維を混ぜ込んだ上質な用紙で、それだけでも記述されている内容のその重要性が見て取れた。
 エアリディアルの想定通り、ベルゼビアはこう言った。
「母君の筆蹟です。国家の樹立と即位を承認された」
「――そのようなことをなさるはずがありません」
 ベルゼビアが筒状の書状をわずかに揺らすと、執事は再び書状を受け取り今度はエアリディアルへと歩み寄った。留めていた紐を解き、その文面をエアリディアルの前へ、捧げるように示す。
 視線を落としたエアリディアルの表情が張り詰めた。
 それは新国家樹立の宣言書であり、べルゼビアの署名と、国主としてクラウディアの名で署名がされている。
 間違いなく、良く知る母の筆跡で。
「……どのような仕儀によって、このような署名を母にさせたのです」
 藤色の瞳を燃やし、ベルゼビアを見据える。
 瞳の奥を。
 ベルゼビアの双眸が、疎ましそうに歪む。
「ええ――、貴方は母の意思を不当に曲げてしまわれた。このようなこと、わたくしはアレウス王国王女として、一層認める訳には参りません」
 エアリディアルに当てた笑みを深め、ベルゼビアは片手を上げた。
「不当に曲げるという意味が、どの程度のことを言うかおわかりか――オブリース」
 隣室への扉が開き、灰色の長衣に身を包んだ法術士が進み出る。ベルゼビアの法術士長、オブリースだ。
「女王陛下に、お目覚めいただけ」
 オブリースは深く一礼し、エアリディアルとその後ろに横たわる王妃へと向き直った。
 右手を延べる。
 エアリディアルは身を硬くし、とっさに王妃の手を握った。
 そこに何を感じ取ったのか――、エアリディアルは肩を揺らし、そして振り返った。
 深く眠るように横たわっていた王妃が、上体を起こしている。
「お母様――」
 喜びを浮かべかけた頬が強張る。
 王妃の動きは滑らかではあるが、まるで操り人形が身を起こしたようだ。開いた瞳はエアリディアルを映していない。
 エアリディアルは全てを悟り、青ざめた。震える手を身体の前で組む。
「なんという――非道なことを」
 組んだ手の、その指先が、心の内の発露に薄赤く染まる。
「今すぐ、王妃殿下の術を解き、解放するよう求めます」
 白皙の頬は更に紙のように白く透けて、藤色の瞳が一層燃える。その姿はこのような状況に相応しくないほど、気高さを持ち、美しかった。
「これは個人としての依頼ではありません。貴方が四公の誇りをお持ちならば、今すぐもとのまま、戻してください。そして同じ国の者同士を戦わせようとする、愚かしい旗を降ろしてください」
 決然とした求めにも、ベルゼビアは笑みを薄く刷いたままだ。エアリディアルが憤りをあらわに強く迫ったところで、何一つ、ベルゼビアの髪の一筋にも影響を与えないことを、よく解っている。
 立ち上がる様子もなく、ベルゼビアはエアリディアルを視線で捉えた。
「王女殿下――国を、母君の御志を支えることこそ、王女たる貴女が今、この時勢に求められている責務です。とはいえ――」
 オブリースがエアリディアルへと近付き、右手を持ち上げる。
 その手のひらが赤い光を帯びた。
「貴女個人の意思もまた、私には必要のないものだ」
 エアリディアルは身を引きかけ、けれど母の座る寝椅子に遮られた。視線を落とした先の母の瞳は目の前のエアリディアルを素通りし、虚ろに空に向けられている。
「……公爵、貴方は、このようなことが本当に成り立つとお考えなのですか。本当にこのようなことをお望みなのですか」
 一度唇を引き結び、エアリディアルは再びベルゼビアと向かい合った。
「それは誰のためです」
「貴女の役割は問答ではない。王妃――いいえ、新たな女王陛下と共に、民の前に建国を宣言する――民もさぞ、誇りに思いましょう」
 赤く光る手のひらがエアリディアルの喉を捉えかけ――
「止めよ、オブリース」
 掛けられた声にその光はすうっと消えた。
 エアリディアルは瞳を見開いた。
 回廊への扉が開き、そこに声の主が立っている。
 ブラフォードが。
「未来の我が妻だ。せっかくの妻が人形では面白味がない」
 オブリースが慌てて膝をつく後方で、ベルゼビアは不快そうに息子を睨んだ。
「ブラフォード。呼んではいないぞ」
「当人が不在のまま婚姻について話をされては、私の面目が保てません。人形を当てがわれて喜ぶ趣味も無い。それと」
 ブラフォードは扉を振り返り、顎を心持ち持ち上げた。
「――これ・・を」
 扉から、警備兵に腕を押さえられたスキアが引きずられて入る。
 警備兵はスキアの腕を後ろ手に捩り上げ、頭を押さえ付けて膝をつかせた。その足元に鳥籠が転がる。
 驚いた金糸雀が転がる籠の中で羽ばたき、慌ただしい囀りが響いた。
「スキア!」
 エアリディアルは駆け寄ろうとして、立ち止まらざるを得なかった。スキアの喉元に短剣が突き付けられている。
 落ちた鳥籠は床の上を滑り、部屋の中央で止まった。
 スキアとエアリディアルの視線が一度重なる。
 スキアは微かに首を振った。
「――」
 まだ、金糸雀は飛んでいない。
 エアリディアルは心を決めた。
「彼女を放してください」
「お知り合いですか。この部屋を窺っていましたが」
 ブラフォードの白々しい言葉にエアリディアルは頬を張り詰めた。
 ただ、スキアを送り込んだのはブラフォード自身ではないかと、そう口にするのは躊躇われる。ブラフォードの真意がどこにあるのか、未だ判りにくい、けれど――
「そうです。わたくしの従者です。今すぐ彼女を放してください」
「さて、父君、どうなさいますか。私としては、妻となる者の願いを無碍にするのは迷うところですが」
「ブラフォード」
 ベルゼビアの声はそれまでとはやや、異なった。
「私の前でくだらない行動はよせ」
 室内の空気が一段、下がったように思えた。
「お前は予備・・だ。予備が必要なのは今ではない。それまで大人しく控えていろ」
 ブラフォードは一瞬、息を呑んだように見えた。
 水の底から浮き上がるように、口元に複雑な感情が歪んで貼り付く。
「――貴方は、思った以上に愚かだったのだな」
 エアリディアルがベルゼビアを見据える。
「自らの血を分けた子を、予備などと」
「王とは、国の存続の為、自らの子を以ってそう備えるもの――エアリディアル王女。貴女はそれを否定できないはず」
「そのような――」
 ベルゼビアは嗤い、オブリースへと手を振った。
「オブリース、ブラフォードも王女も、大人しくさせよ」




(王女殿下――!)
 スキアは腕を捻られ床に押さえ付けられた状態の中、つい昨日のことを思い起こした。エアリディアルの部屋へ送られる前のことだ。
 視界が次第に暗くなっていった、あの時――


 半月前に少将ゲルドの指揮の下ベルゼビアの暗殺を謀り、そしてそれは失敗した。
 実際、自分はそこで死んだと思っていたし、この作戦が一歩踏み外せば死に繋がることは初めから理解し、そして覚悟をしていた。
 目覚めた時、なぜ自分が一人生きているのか、まずそれを思ったのだ。
 正規軍側の情報を聞き出そうと考えているのであれば、どのような扱いを受けようとも口を開く訳にはいかない。
 その決意もまた、無為に終わった。
 なぜなら、目覚めてからの数日間、スキアの前にそれらしい相手――ブラフォードが立ったのは、つい昨日のことだったからだ。
 ブラフォードはコンラッドにスキアを衣装箱の中に押し込めさせ、薬を嗅がせた。
 視界が次第に暗くなっていった。
 薬の為だけではなく、自分が横たわる衣装箱の蓋が閉ざされていくからだ。
 蓋が閉まる直前に落ちた声。


『ここから出たら、好きに動くといい』


















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2019.11.24
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