十五
夜会の広間に楽の音はゆるゆると、参列者達の間を埋めるように漂っている。
会話を穏やかに促し、また、その音色に紛れさせる。
あらかた主要な相手との挨拶を交わし、ロットバルトは一度、庭園の硝子戸へ瞳を向けた。傍らのルスウェントへそれを戻す。
「貴方の先んじての行動には感心しますが、踏み込み過ぎは感心できませんね。私に一任していただけると、先日そう仰ったかと思いますが」
柔らかな物言いの芯に含まれたものは厳しく、ルスウェントは一度目礼を返した。
「お考えに異論は無いのです。しかしながら」
ルスウェントがロットバルトの視線を捉える。
「ヴェルナーが後見となるには、今現在、彼の存在も展望も不安定でございましょう。確たる展望を持ち行動して頂かなければ、貴方が今後ヴェルナーを維持して行かれる上で課題となりかねません。長老会として、それは避けたいのです」
周囲の会話のさざめきと楽の音。天井から吊るされた大燭台や壁の燭台の、広間を照らす煌びやかな灯。
束の間の穏やかな時間――今日、この時のみの時間を、誰もが楽しんでいる。
明日にはもう、この穏やかさは戦乱への緊迫に取って代わっているだろう。
揺蕩うような光景を背に、ロットバルトは笑みを刷いた。
「ルスウェント伯爵。私が、ヴェルナーの維持存続をそこまで望んでいると思われますか」
蒼い双眸と向き合い、
「思っております」
ルスウェントは揺るぎなく、言い切った。
「貴方は良く理解しておいでです。ヴェルナー侯爵家の在り方は一貴族の内的問題だけではなく、国家基盤の一つであり、その一端を維持している事を。揺るがせば国という大樹の根に大なり小なり響くでしょう。今、この時期であれば尚更に」
一呼吸、置く。楽の音の一小節。
「――イル・ファレスに住まわせている方が、貴方の伴侶となるお方であれば良かったのですが」
声は騒めきに紛れるほど微かだ。
ロットバルトが蒼い瞳を細める。
「ブロウズから聞き出されたようですね」
「はい」
隠す事なく頷き、それから、これまでのルスウェントとは異なる、やや恨めしさの混じった問いを投げた。
「何故、口止めをされなかったのですか?」
ロットバルトは笑みを崩さない。
「そうだったかな。ですが口止めをしたとしても貴方はブロウズから聞き出したでしょう。であれば口止めしたところで意味がない」
「ええ、聞いてしまいました。お陰で巻き込まれる覚悟はできましたが」
眉を寄せ、そう溜息をつく。
イル・ファレスは厄介だ。
レオアリスの件よりもずっと。
ヴェルナー侯爵家の直轄領。今、そこに庇護しているラナエ・ハインツ――ミオスティリヤ・ハインツの妻とその子供は。
ルスウェントも一旦知った以上はそこを前提で動かざるを得ず、ただ、受け入れる度量を持った人物でもあった。
「その思考を共有している限り、私は貴方を頼りにもしましょう。お考えの通り、今のヴェルナーはまだ注意深く根を張り直す時期にあります。その為には優れた先導者が必要だ」
「そうお考え頂けるのならば光栄です。しかし迂闊に情報を得ようとするのも考えものですな」
「ご安心ください。ブロウズに持たせる情報に、虚実織り交ぜようとは考えておりません」
ルスウェントはますます眉をしかめ、諦めた様子でまた溜息をついた。
日没後、六刻から始まった夜会は、九刻になってしめやかに幕を閉じた。
参列者達はファルシオンとメネゼスの退出を見送り、三三五五、広間を後にして行く。
アスタロトはタウゼンも帰らせ、しばらくの間、声を掛けられるのを避けて庭園を眺めていたが、参列者がほとんど退出した頃合いを見計らって広間へと戻った。
賑やかだった広間は、ただ楽の音だけが流れ、がらんとしている。
(――もう、帰ったよね)
姿は無い。
本当は、今日、話をすべきだったのだと思う。
けれど、最初の方でザインと庭園で話をし、戻ってきた後はファルシオンと――それからもずっと誰かしらに声を掛けられていた。
だからその機会が無かったのだ。
息を吐く。
それが残念さからか、それとも安堵からか、自分でも綯い交ぜだ。
(もうアーシアが迎えに来てくれてる)
そう思い、アスタロトは少し疲れた足で広間を出た。正式軍装はどうしても窮屈で、苦手だな、と思う。それでも『貴婦人』としての盛装よりずっとましだけれど。
アーシアが馬車を着けてくれている正面玄関へ、階段を五階から一階まで、ややぼんやりと物思いにふけりながら降って――
最後の一段を降りるところでぴたりと、足を止めた。
鼓動が鳴る。
(レオアリス――)
玄関広間は天井が高い吹き抜けになり、両開きの扉が三組、まだ外側へと開かれている。
その前に、レオアリスと、フレイザーとクライフの姿があった。
(どうしよう)
一瞬階段の上を見上げ、片足を戻しかける。
今更ここで会うとは思わなかった。
無意識に、避けていた。
(違う)
意識して、少し、避けていたのだ。
夜会の広間は広くて、とても人が多くて、レオアリスはずっと誰かしらと話をしていて。自分もいろんな相手と話をしなくてはいけなくて。それを理由にしながら避けていた。
でも、今はすぐそこにいる。階段にいるアスタロトに気付かず、玄関の扉を抜けるところだ。
瞬きの間の忙しい迷いの後、アスタロトは決めた。
深く息を吐いて、吸い、一歩、踏み出した。
「レオアリス」
気付かずそのまま出てしまうかも、と思ったが、レオアリスは足を止めて振り返った。
「アスタロト」
「おっ! お久し振りです、公」
クライフが普段と変わりなく笑い、フレイザーも朗らかな笑みを広げる。
「アスタロト様。今日はお話できないかと思ってました、良かったわ」
レオアリスは扉から離れ、広間を階段へと歩いて来る。
思わず声を掛けたけれど、近付いていく間にもう後悔してしまった。
何を話すとか、全く考えていない。
そうこうしている間にも、レオアリスはアスタロトの前で足を止めた。
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