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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第三章『黎明は遠く、風は嘆きの歌を歌う』




 音も無く、密かに。
 東の地平が白く染まりはじめる。
 その天蓋の下に抱くもの達の苦悩や悲嘆、混乱――、流した血さえ、何一つその色に投げ掛けることはなく、空はこれまでの数え切れない繰り返しのままに藍色の闇を払い、透き通る光を広げて行く。
 何の変哲もない夜明け。
 何を失い、何をその藍色の闇に置き去りにしても。




 ボードヴィル、明け方、五刻。
 ナジャルの恐怖が西方第七大隊と、西海軍さえ呑み込んだひとつ前の夜を経て、西海軍はそれでもなおシメノスとボードヴィル一帯にとどまり、時折思い出したようにボードヴィルの城壁へ寄せては返しを小刻みに繰り返していた。
 正確には五度、昨日の夜明けからこの夜までに西海軍はボードヴィルを襲撃し、その都度ボードヴィルの第七大隊の抵抗を嘲笑うかのように退いた。
 疲弊し切った第七大隊の兵士達は、鎧を着こんだまま、槍や剣を抱え込んだ思い思いの格好で城壁の通路の壁や柱に体を寄せて座り込み、西海軍の視線を避け僅かな休息を取っていた。
 ボードヴィル砦城内に残る兵士は中軍一隊と右軍半数、およそ千五百名だったが、度重なる襲撃に交替もままならず、失われた者も少なくは無い。そしてまた、戻ってきた中将ワッツ等左右軍と合流が叶わなかった事も、疲労に拍車をかけていた。
 兵士達の拠り所は砦を西海軍から救った王太子ミオスティリヤの存在と、そしてあの時、ナジャルを退けた、ルシファーの存在だ。五度の襲撃の中で三度、王太子と共にルシファーは西海を退けた。
 そしてその都度、勿忘草ミオスティリヤの王太子旗はボードヴィルに高く掲げられた。
 其処ここに立てた王太子旗が、城壁を吹き上がる風に垂れていたその布を僅かになびかせる。
 シメノスの対岸に広がる森の向こうから指す曙光が、槍の穂先を模した旗の竿頭に反射する。
 不意に旗が音を立てて倒れ、その傍で座り込んでいた若い兵士は跳ね上がるようにして飛び起きた。疲労の抜けきらない顔を二、三度辺りへ巡らせ、倒れている王太子旗を見つける。
「な、何だ――」
 やや離れた所では、半円の張り出しに見張りの兵が立ち、その傍らに松明の灯りが揺れている。
 若い兵士はほっと息を吐き、旗竿に手を伸ばして大事そうに持ち上げた。たったそれだけの動きですら身体の節々が錆び付いているかのように感じられ、眉をしかめる。
 彼が今いる城壁内側の狭い通路はまだ薄暗さを残しているものの、空は大分白み始めている。
 遠く鳥のさえずりが聞こえるが辺りは静かで、まだ仲間達は起きる気配が無く通路に身体を丸めていた。
「――」
 今日もあの戦いを繰り返すのか、と、一層の身体の気怠さを覚え、王太子旗を抱えたまま再び城壁に寄り掛かり、空を見上げる。
 ぽたりと、その頬に雫が落ちた。
 兵士の瞳が見開かれる。
 すぐそこに、空の光を歪ませる塊があった。
「……、し、使隷――!」
 城壁からもはや見慣れた透明な躰が半身を乗り出し、べしゃりと湿った音を立て、通路に滑り落ちた。
 兵士は旗を杖代わりに飛びのき、一拍遅れて声を張り上げた。
「起きろ――敵襲だ!」
 使隷達が通路へ落ちる湿った響きの上に、澄んだ、高い女の歌声が重なる。
「歌――?」
 戦場にそぐわない優美な歌につられ、兵士が辺りを見回す。
 その正面で、使隷の身体が小刻みに振動し――、
 歌声の音律が跳ね上がると同時に、刃となって屹立し、その場にいた兵士達の身体を鎧ごと裂いた。




 仮眠を取っていたヒースウッドは喧騒に目覚め、部下が扉を叩く音に声を張り上げて指示を返しながら、手早く軍服の上に白銀の鎧を重ねた。街側に設けられた硝子窓の外は仄暗く、だが曙光の兆しが漂っている。
 剣を腰の剣帯に留めると、やや混乱気味だった思考もくっきりと形を得た。
「何度目の襲撃だ」
 西海軍を、今度こそシメノスから完全に退かせねばならない。
 帰還したワッツ等第七大隊半数及び第六大隊とは合流を果たせないままに再び分かたれ、ボードヴィルは街門を固く閉ざして街の住民達と共に籠城している。今はまだ食料などの備蓄は十分にあったが、このまま五日も経てばそれも怪しくなる事が想定された。西海軍は彼等が疲弊するのを待っているのかもしれない。
「何としても、今日――」
 硬い踵の音を立て、扉へ向かい掛けた時だ。
 ごとりと何かが倒れるような音を聞いて、ヒースウッドは立ち止まり、髭を蓄えた面を巡らせて辺りを見回した。
 石造りのボードヴィルの砦城はあまり内部の音を伝えない。恐らく城壁へ雪崩かかっているであろう西海軍の打ち寄せる波のような喧騒が、砦城の中に満ちている。
 その音はすぐ隣の部屋からしたようだった。
 廊下ではなく隣室への扉を開け、ヒースウッドは一瞬立ち尽くした。
「――ル、ルシファー様――?」
 暗い部屋の窓際に、細い影がうずくまっている。
「……ルシファー様!」
 頬を強張らせて駆け寄り、ヒースウッドはその傍らに膝を落とした。俯く肩に触れかけてぎょっと手を引く。
 右肩には深い刀傷がありありと刻まれ、まだ乾かないその傷口から真紅の血を流している。対照的に肌や頰は紙のように白い。
「ルシファー様……」
 触れていいものかどうかヒースウッドが三度目に呼び掛けると、ルシファーはぴくりと肩を震わせ、顔を起こした。
 白い面の中に浮き上がる熱を帯びた暁の色が、瞳に掛る前髪の奥からヒースウッドを見上げる。
 乾いた唇が開く。
「ああ――、ヒースウッド……コーネリアス」
「い、一体、そのお怪我は」
 問いかけが届いたのか届かなかったのか、ルシファーは血に染まった右手を伸ばし、ヒースウッドの腕を掴むと、もう片方の手で自らの頬を覆った。
「ああ……」
 熱に浮かされたうわごとのように呟きを落とす。
「ああ、ああ……何故かしら、みんな選ばないわ、何故」
 狂おしく光る見開かれた瞳、唇は微かに笑みの形に歪んでいるものの、ヒースウッドの目には泣いているように見えた。
「何故みんな、自分を選ばないのかしら」
「ルシファー様……」
 ヒースウッドは茫然と、蹲る身体を見つめた。
「何故――王を、自分の想いを、選ばないの」
「……ルシファー、様……貴方は、一体」
 何の事を言っているのか。
 こんな時間にどこへ行き、何故これほどの傷を負っているのか。
 ルシファーは自分に、これまで何を話しただろう。
 真実を?
 ヒースウッドは不意に喉を震わせた。
 どっと、場内に新たな喧騒が雪崩れ込む。
 西海軍が寄せているのだと思い出し、早く行かなくてはと自らを急かしながらも、ヒースウッドはその場から動けなかった。
 湧き起こる恐ろしい予感に身体ごと押し潰されそうだ。
 予感――いや。
 初めからヒースウッドは知っていたのではないか。知っていて、敢えて目を閉ざしていたのではないか。
 ヒースウッドは今、暗いところから姿を現わそうとしている真実への畏怖を前に、それを口に出さずにはいられなかった。
 今まで問いかけようとしなかった言葉を。
 喉が張り付き、呼吸が苦しい。
「……ルシファー様……貴方の望みは、何なのです……」
 ルシファーは緩やかに顔を上げた。
「私の、望み……?」
 幾筋か乱れかかる前髪の向こうで、見開かれた暁の瞳がヒースウッドを捉える。
 涙を流している訳ではなく、けれどその瞳は朝露に濡れるように美しく、ヒースウッドの心を捉えた。
 そこに自分の姿が映っていない事に、狂おしいほどの痛みを覚える。

 この美しい女性ひとが、どこで、何をしてきたのか判らない。
 何を目的に、何をしようとしているのかも判らない。
 信じるのは危うい。

 けれど、想いは口を突いて出た。
 ヒースウッドはそれを己の罪と自覚していた。
「私は――」
 ヒースウッドはルシファーの前に膝をついたまま、深くこうべを垂れた。
「私は、貴女をお守りします。最後まで――」






 白い喉を反らし、明け行く薄青い空に、高らかに歌を響かせる。
 昏く淀む海の底とは違い、歌はどこまでも、大気に染み込むように広がっていく。
 三の鉾第三序列ゼーレィは、シメノスから現わした半人半魚の巨体で、岸壁の上に聳えるボードヴィルの砦へと、両腕を広げた。
「この地上――、この空」
 何という歓喜と、恍惚。
 戻る・・のだ。
 身を震わせ、銀色の双眸を快楽に細める。
同胞はらからよ――思う存分歌い上げよ」
 ゼーレィの巨体を取り囲む数百の同じく半人半魚の女達が、ゼーレィのおよそ十分の一ほどの身体で両手を広げ、喉を反らす。重なり合い響き渡る旋律は大気を揺らし、あちこちで立ち上がる銀色の刃に断たれたボードヴィルの兵士達の苦鳴悲鳴と混じり合った。
 おぞましくも美しい破滅の歌声に踊り、岸壁を這い上がる使隷が途切れる事なく城壁を越えて行く。
 城壁から降り注ぐ矢がゼーレィの率いる兵士達の胸を貫き、投石器から放たれた岩が押し潰す。だがそれは僅かな抵抗だった。
 次第に降る矢も途絶え、投石器の唸りも掠れる。
 彼女達の放つ死の歌は液体を刃として操り、通常の武器や鎧では防ぐ事は難しい。そして使隷さえ居れば、尽きる事無く刃を生み出せる。
 このまま昼までには、ボードヴィルは彼女の手中に落ちるだろう。
 至極容易い話だった。
「ナジャルめ、早々に尻尾を巻いて逃げ出した己を恥じるが良い」
 見えぬナジャルの姿に勝ち誇り、ゼーレィは彼女の巨体からしても高く遠いボードヴィルの砦城の尖塔を見上げた。
 そしてまた、そこに今、あの女がいるのか透かし見ようとするように、燃え立つ双眸でめ付ける。
 あの偽り塗れの女は海皇に取り入り西海軍をこのボードヴィルへ導きいれたが、今また彼等を裏切った。
 もともとあの女は西海を利用するつもりだったのだ。
 ゼーレィにはあの女の偽りは、初めから全て見えていた。
「唾棄すべき裏切者が、我が前に現われてみよ。その身体千々に引き裂き、手足を捥ぎ取り、両眼を抉り出し、彼の方の墓標の前に捧げてくれよう」
 初めからそうしていれば良かったのだ。
 そうすれば良かったと、この四百年ずっと後悔していた。
 そうしていれば、ゼーレィの前から彼が失われる事は無かったはずだ。
 美しい面を歪め、ボードヴィルを毒の篭った瞳で嘗め回す。
 流れ続ける歌に絶える事の無い、人間達の悲鳴。
 口元に笑みを刷く。
「現われよ――」
 風の流れが変わった。
 ゼーレィは憎しみを燃え立たせた瞳を、空の一点に注いだ。
 吹き下ろす風がゼーレィの長い灰色の髪を煽る。
「来たか」
 歪んだ喜びに口元を綻ばせ、だが、ゼーレィはその笑みを途中で止めた。
 風だが、あの女の気配ではない。
「――何だ」
 同胞達が織り上げていた旋律が次第に小さくなり、消える。
 視線を向けた先の空が渦を巻き、明け方の透ける光と棚引く灰色の雲をまだらに彩り始めた。
 渦の中から、白く輝く何かが、次第にその姿を現していく。シメノスの川面かわもが風を受け激しく波打つ。
 ボードヴィルの城壁でも、隊士達が驚愕と恐怖に身体を凍りつかせ、自分達を容赦なく切り裂いていた歌すらも忘れて、空を見上げていた。
 からからと乾いた音が鳴る。
 渦の中心から巨大な翼が広がる。
 白い剥き出しの骨が連なった、翼――
 長い首。

 城壁に取り付いていた使隷が叩きつける風に巻かれ、シメノスのゼーレィ達の上に落ちかかった。



「ヴィルトール中将、あれは―― !」
 イリヤは砦城の四階にある貴賓室の露台に立ち、手摺に寄り掛かるようにして、空を見上げた。
 二つの色の瞳に、城の尖塔の向こうに渦巻く空と、広がる巨大な白い翼を見つめる。
 だが、隣で同じように見上げるヴィルトールの答えを聞かずとも、それを誰が連れて来たのかは、はっきりと判った。
「ルシファー……」
「――かつての大戦に、風竜が現われたのは何故か」
 ヴィルトールの呟きに、イリヤは空に向けていた瞳を戻した。
「中将?」
 ヴィルトールは空を睨んでいる。
 吹き荒れる風に短い髪を煽られながら、イリヤは再び空の翼に顔を戻した。



 骸の竜は空を埋める巨大な姿を現わすと、骨組みの翼に風を孕み、ボードヴィルの砦城の大屋根へ、降り立った。






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2018.1.21
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