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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第三章『黎明は遠く、風は嘆きの歌を歌う』



「な――」
 瞳を見開き、アルジマールは光の粒を拡散して消えていく法陣円へと手を伸ばしかけ、そのままよろめいた。傍らのロットバルトがその身体を支え、被きの下の双眸を捉える。
「院長!」
 瞳を彩る虹色の光彩が揺らぎ、すうっと薄れて行く。
「――すまない、僕の失態だ」
 アルジマールは身を起こそうとしたが、身体の力が入らず、芝の上に両手をついた。
 再び這い出た黒い帯はまだ茫然と立っていた隊士達を捉え、上空にいたカスパーの飛竜へと、急速に伸びる蔦の塊のように一直線に伸びていく。
 咄嗟に旋回した尾に巻き付き、ぴんと張る。
 飛竜が中空でもがく。
「殿下!」
 駆け寄る隊士達が次々振り下ろす剣は一切その表面を通さず、帯はカスパーごと飛竜に幾重にも巻き付き、飛竜は叩きつけられるように庭園へ落ちた。
「殿下―― !」
 飛竜を巣へと取り込もうとする帯へ、グランスレイは逆手にした大剣を、渾身の力を籠めて突き立て、地面に繋ぎ留めた。
 張った肘の中にファルシオンを抱え、身を丸めるカスパーへと手を伸べる。
「手を伸ばせ、カスパー中将!」
 カスパーは締め付けようとする圧力からファルシオンを守りつつ、奥歯を噛みしめたままグランスレイを見上げた。
 グランスレイの手を掴もうとすれば、一息に押し潰される。
 カスパーの瞳が、サージと同じようにトゥレスの姿を探した。
「トゥレス、大将――」
 瞳に光が宿る。
 トゥレスは左手にした剣と足を引き摺りつつ、カスパーへと眼差しを返した。
「近衛師団隊士として、最後の任務を、全うさせてください」
 カスパーの言葉は食い縛った歯の奥でくぐもっていたが、、トゥレスは真っ直ぐにカスパーを見据え、答える代わりに苦笑に近い笑みを口元に刷いた。
 カスパーも笑みを返し、そして正面のグランスレイを見た。
「我等の、歩む道は――変わりました。それを恥ずべきものと、断じられてもいい。ですが、守るものは変わらない」
「カスパー中将、手を」
「王太子殿下を――」
 グランスレイは噛み締めた歯を鳴らし、差し伸べていた腕を伸ばすと、カスパーの腕の中からぐったりとしたファルシオンの腕を掴み、一息に引き上げた。
 黒い帯が激しくうねる。
 飛竜とカスパーを飲み込むと同時に、帯はグランスレイの腹に巻き付いた。
 グランスレイが体勢を崩し、膝をつく。
「ッ」
「動くな、グランスレイ―― !」
 掠れた声と同時に、青白い光の筋が夜の中を走る。
 芝に倒れ込んだグランスレイの横を蹴り、レオアリスがのたうつ黒い巣へ、踏み込む。
 足元から引き摺るように振り抜いた剣が、青白い光を残し、幾重にも重なる黒い帯の塊を、断った。
 帯が急激に後退し、中央の黒い塊に吸い込まれる。
 あと一歩、踏み込んだレオアリスの脚が、身体を支え切れずに膝を落とす。
 黒い核が脈動し膨れ上がる。
 帯が再び、剣山のように四方八方へ突き出した。
「上将―― !」
 先端がレオアリスの胸を抉る寸前で、影はぴたりと動きを止めた。
 トゥレスの剣が核を貫く、湿った音が耳を打つ。
 突き出した黒い刃もまた、その数本がトゥレスの腕や脚、鳩尾を穿っている。
 影は一度どくりと脈打った。
 トゥレスが剣を引き抜き、頭上へ持ち上げたそれを、核へと振り下ろす。
 鈍い音と共に真っ二つに断たれた核は、突き出した帯ともども黒い液体を撒き散らして崩れ、汚れた芝の上に、半ば溶けた灰色の襤褸切れを纏う白骨を転がした。
 トゥレスは止めどなく血を流す身体を返し、二、三歩土を踏み、投げ出されたカスパーの傍らに腰を下ろした。
 自らに付き従ってきた第二大隊の隊士達は、姿をとどめている者もまた、芝の上に力なく倒れている。
「――カスパー」
 トゥレスの呼びかけに、カスパーは片目を開けた。だが腹部を潰され、辛うじて息を保っている状態だ。
 トゥレスはその姿と、それから首を巡らせ、周囲に倒れている隊士達を見回した。
 血を流し続ける自らの身体と向き合うように息を吐く。
「さすがにもう、時間がねぇな。――最後に問おう」
 それはカスパーだけではなく、第二大隊の隊士へと向けた言葉だ。
「俺は俺の勝手を通した。そこに正義も正統も無くていい。だが、お前達は違う」
 カスパー以外、他に聞いている者がいるかも判らない。トゥレスは構わず、掠れがちになる声を押し出した。
「もし、お前達が名誉を望むなら、どんな無様な真似でもしてやるぜ」
 カスパーは急速に光が消えて行く瞳を、遠のく意識を懸命に繋ぎ止めながら、トゥレスに向けている。
 笑みを浮かべようと、口元を僅かに震わせた。押し出す声は半ば、溢れる血に紛れた。
「――あ……貴方と共、に、進み、ます――、最、期ま――」
 トゥレスはじっと、微かな声に耳を傾けた。
「大……将」
「――救えねぇなぁ」
 一つ、呼吸に肩を揺らす。
 カスパーは既に動かず、トゥレスはもう一度倒れている部下達を見回し、その首を重そうに、斜め前で膝を落としているレオアリスへと向けた。
「これで終わりだな――レオアリス」
 吐き出した言葉には抑えようのない疲労がこびり付いている。
 レオアリスは膝をついたまま渦巻く苦痛を肩で抑え、面を上げた。トゥレスとの間はそれこそ、腕を伸ばせば届く距離だ。
「俺もそろそろ保たん。本来なら、裁判まで行って責任を果たしたいところだが――」
 トゥレスの腹部は影に抉られ、その一部が欠けている。
 一度喉が笛のような音を立て、だがトゥレスは一言一言をくっきりと、押し出した。
「近衛師団大将の、責務だ。勝手にくだばる前に、お前の手で、王家に弓を引いた大逆者として、俺を討て」
「――アルジマール院長がいる。エンティも。お前にはまだ、聞くべき事が幾つもある」
 けれど二人から返る言葉は無く、レオアリスは唇を引き結んだ。トゥレスがレオアリスの顔を見て、口元を歪める。
「今、全て聞いておけ」
 レオアリスは束の間視線を落として俯き、それから膝に手をついて揺れる身を起こし、立ち上がった。
 右手に掴んだ剣を残したまま、トゥレスへ一歩、歩み寄る。
「お前の望みが何だったのか、それは理解したつもりだ」
 トゥレスがただ笑う。血が止めどなく溢れ、トゥレスの座る地面を黒々と染め続ける。
「近衛師団第二大隊大将、イグナシオ・トゥレス。同じく近衛師団第一大隊大将の名を以て――」
 レオアリスの声はそこで、喉に詰まるように掠れた。一度唇を引き結び、喉の奥から声を押し出す。
「……問う。東方公との関わりと、その意図は、何だ」
「今回、術士を借りた。王妃殿下と、王女殿下を連れ去っていたら、この先、国を二つに割ろうとするだろう」
「――他に、関わる者がいるのか」
「まぁ、そうだな……俺の館でも探せ」
 声を掛けてきたのは、何人かいた、と――レオアリスは眉を顰めた。
「それは誰だ」
 荒い息が肩を動かしたものの、トゥレスの喉から言葉は出なかった。
「トゥレス――」
 もう命は消えかけている。レオアリスは右手の剣を握り締めた。
 その言葉は詰問ではなく、微かに震え、訴えかける響きを帯びていた。
「王を――陛下を見た兵士がいるというのは、本当なんだろう」
 目の前に提げられた、緩やかに、頼りなく光を移ろわせる刀身へ、トゥレスは細めた双眸を向けた。
 ゆっくりと、息を吐く。
「――全て、でたらめだ。お前を、王城から……引き離せば、俺が望みを、掴める。目的は、それだけだ」
 レオアリスが頰を、苦し気に歪める。
 一度俯き、声を押し出した。
「陛下への――、王家への忠誠は、あったのか」
「あった――俺は俺として、それを持っていた」
 レオアリスは剣を持ち上げ、その切っ先をトゥレスの左胸に突き付けた。
 瞳を閉じる。
 剣が、青白い光の筋を瞳の奥に残す。
 繋ぎ止めていた命を断つ、その感覚を柄に握り締める。
 トゥレスは顔を上げ、恐らくは最早見えていない目で、レオアリスを見た。
「――お前の剣は、良く、見える。それが、羨ましいと、思いもしたが……」
 風が一瞬強く吹き抜けて庭園の植え込みを鳴らし、声を散らした。
「そうやって、憎しみにも、絶望にも、染まらず、在り続ける――それは」
 苦しいだろう、と。
 トゥレスの身体がぐらりと傾ぎ、剥き出しの地面の上に、ゆっくりと倒れた。









 庭園には風が途絶え、そこで起きた事がすべて幻だったかのように、穏やかに静まり返っている。
 欠けた月は既に傾き、西の空に低くかかっていた。
 空はまだ暗いが、夜明けが近い。
 始めに動き出したのはグランスレイだった。
 第一大隊の隊士に指示し、まだ無事な隊士達が倒れている者達を一人一人、確認していく。
 それから、グランスレイはレオアリスへと歩み寄り、その前に腕に抱えていたファルシオンをそっと降ろした。
 レオアリスがファルシオンに対し、片膝をつく。そのまま深く面を伏せた。
 俯いていたファルシオンはややあって、躊躇いがちにレオアリスへ顔を上げ、微かに息を呑み唇を震わせた。
 改めて間近に目にしたレオアリスは、軍服はどこを見ても目を反らしたくなるほど血に塗れ、全身に裂傷を負っている。
「――上将。庭園と居城の対応には、もう二小隊を入れます。それは私とクライフ中将に任せられるよう。貴方は引き続き、王太子殿下の守護の任を」
 レオアリスは答えず、正面のファルシオンへも顔を伏せたまま上げなかった。
 グランスレイが含めるように、静かに言葉を続ける。
「あと一刻もすれば夜が明けます。明ければ早々に今回の事態の確認と、今後の協議があるでしょう。近衛師団の体制も検討しなくてはなりません。それまで僅かでも、休息を取るべきと」
「俺に――」
 掠れた声を押し出す。
「俺に、そんな必要は無い」
「上将」
 レオアリスの声が、微かに夜の空気を震わせる。
「今回の事は、全て、俺の責任だ。そこは揺るがない」
 グランスレイは視線を流し、離れた所に立つロットバルトを見た。その上で、眉根に苦い色を載せる。
「――それは」
「俺は、判ってたんだ」
 その言葉は、静けさに満ちた庭園に、ぽつりと零れた。
 レオアリスは俯いたまま、視線はただ、誰を捉える事も無く膝をついた地面の先に落ちたままだ。
「トゥレスが何を持って来たのか――それが、何に繋がるのかも」
 何よりも辛いのは自分ではない。本当に辛い想いをしているのは、まだたった五歳と幼い、ファルシオンだ。
 守らなくてはいけないのは。
 そのファルシオンから自分は、こうなる事をきっと判っていて、離れた。
「判っていて――でも、俺はその言葉を聞きたかった」
 それが実態のない、ただの希望だったとしても。
「それを聞きたかった」
 剣が、自分自身が、どれほどそれをただの希望だと否定しても――
 それでも、その希望に縋りたかった。


 王がいる。
 王が、ボードヴィルにいる、と。


 ただそれだけの、微かな、激しい熱を放つ希望。
「俺は、ここに、相応しくない」
 ここに立つ資格が無い。
 身勝手だ。身勝手な願いばかり、望んだ。
 今でさえ――、
 今でさえ・・・・だ。
「俺はただイスに、あの場に居たかっただけだ。アヴァロン閣下がそうされたように――」
 アヴァロンが最期まで、そこに居続けたように。
「俺も――」
 そこで砕けるのなら、それが良かった。
 両の手の指先が、剥き出しの土を掴む。
「どう、して――王は……」
 押し出される声は、嗚咽をこらえて途切れる。
 背中を丸め、レオアリスは土の上に額を落とした。
「俺を、お連れくださらなかったんだ――」








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2018.1.14
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