六
トゥレスの剣がレオアリスの喉元へと、一直線に奔る。
「レオアリス!」
ファルシオンは小さな体を捩り、自分を抱えていたサージの手からすり抜けた。再び伸ばされたサージの腕は、しかしファルシオンに触れる事なく、宙に浮くように止まった。
サージも、ファルシオンを取り巻く第二大隊の隊士達も、視線の先の二人の動きをただ息を潜め見つめている。
ファルシオンはよろめく足を堪えて二、三歩進み、それから瞳を見開くと、ぺたりと座り込んだ。
震える肩が何度も上下し、息を吐く。
トゥレスの剣はレオアリスの喉に突き立つ寸前で止まっていた。
石畳の上に自分を押さえ付ける力が緩み、ブルームは視線を走らせた。
第二大隊の隊士達はみな、庭園の先の二人に意識を奪われている。アルジマールを盗み見れば、同じようにレオアリスとトゥレスに気を取られ、そして被きの下に揺れる虹色の光は目に見えて薄れていた。
絶好の機会だ。
ファルシオンとの距離を素早く測りながら、ブルームは口の中に微かな呟きを忍ばせた。
懐に収めた法陣円が微かに光り、熱を帯びていく。その熱が増すと共に、ブルームの身体の下で夜の淡い光が生むものとは明らかに異なる、黒い影が蠢いた。
(殿下を、連れて――)
ファルシオンはすぐそこだ。手を伸ばせば届く。
ブルームは手をつき、身体を起こそうとした。
「――」
両眼を見開く。
法衣の内側から、這い出した幾筋もの黒い影が、ブルームの腹を貫いている。
「――な……ん、だ」
それは長い、布で作られた帯の姿に似ていた。
喉の奥から熱を持った液体が競り上がり、口を塞ぐ。
自分の身に何が起こったか掴みきれないまま、ブルームは苦痛と驚きに塗れ、腹を貫いて揺れる影を見つめた。
サージはただ息を潜め、目の前の光景に惹き込まれ見つめていた。
自らの大将である、トゥレスの姿、その一挙手、一投足を。
まるで後悔は無い。
自分達が望む未来は遠いとしても。
トゥレスが突き立てなかった剣も。
彼等の大将であるトゥレスが選ぶものであれば、自分の手足と意志が動く限り、そこに辿り着こうとするだけだ。
共に。
腰に帯びた剣に触れようとし、それはトゥレスに渡したのだったと思い出した。それほども保たず折れた事もついでに思い出し、サージは微かに笑った。
多分第二大隊の隊士はみな、自分達の剣を全部渡してでも、あの剣と剣が凌ぎ合うところを観ていたかったに違いない。
それはただ、目の前に厳然とある事実ではなく遠く掲げた光を、いつまでも見ていたいからなのかもしれないが。
(でも、二人とももう、限界だ――)
ふと、くぐもった呻きがサージの耳を打った。
振り返ったサージの視線の先で、捕えていたはずの法術士が、背中を丸め立ち上がっている。
「おい、危ないぞ、そいつをしっかり押さえて――」
サージは立ち上がった法術士の身体が不自然に曲がっている事に気付き、じっと見つめた後、胃を刺す恐怖に息を呑んだ。
身体の所々が欠損しているように見え――すぐにそれが、何か黒い布に似た物体が幾筋も絡み付いている為だと判る。
この夜よりも暗い闇の影だ。
それはゆっくりと、法術士の身体を呑み込んでいく。
ごきりと、法術士の腕が、首が、曲がる。
「な……、っ」
異様な光景に背筋を凍らせ、次に剣を探りかけた手を止めて、サージは咄嗟に腕を伸ばしてしゃがみ込んでいたファルシオンを抱えると、踵を返した。
「なにを――」
驚いたファルシオンがサージの肩越しに振り返り、耳元で恐怖に短く息を吸い込む。
「殿下、しばし」
サージはファルシオンの瞳を手で覆って隠し、辺りを見回した。
あれが何か判らないが、視界の端で複数に分かれた腕のように、影がゆっくり広がっていく。それらは地面を蛇に似た動きでのたうちながら這い、辿り着いた隊士に巻き付き、或いは鋭く尖った先端で身体を貫き、断った。
誰かの悲鳴。
肉を貫く湿った音。
血の滴り。
隊士数名が自らを貫く黒い影を掴み、もがく。
一拍遅れて気付いた他の隊士達の間から、悲鳴と怒号が湧き起こる。
彼等も次々と、影の帯に絡め取られ、呑まれる。
怯えたファルシオンの指がサージの肩に食い込んだ。
(殿下を、安全な場所へ――)
トゥレス――、
(第一の)
二人のいる場所まで。
すぐそこだ。
踏み出した瞬間、サージの左足首に、鞭を受けたような感触が巻き付いた。
身体がつんのめる。
「何事だ!」
サージは必死にファルシオンを抱え直しながら声の方向に顔を向け、中将カスパーの姿を見つけた。カスパーは飛竜の傍らにいる。
「中将―― !」
ぐいと足首が引かれた。
脚がもつれ、ファルシオンを抱えたまま芝の上に倒れ込む。
ごきりと、足首が砕け、サージは苦鳴を上げた。身体が引き摺られる。
「サージ!」
「カ、カスパー、中将……ッ、殿下、を」
サージは腕を伸ばし、駆け寄るカスパーへ、抱えていたファルシオンを差し出した。
喉に突き立てる寸前で剣を止め、トゥレスはそこにある意志をもう一度、覗き込んだ。
喉を貫かんとする切っ先を躱そうとしたのかどうか。
「――てめぇは」
剣を握り直したその時、背後で俄かに喧騒が湧き起こった。
振り返り、トゥレスはそこに起こっている事を、読み取った。口の端を歪める。
「東方公――、そう来るか」
得体のしれない帯とも触手とも付かない影が隊士達を絡めとり、その中心には夜を背に広がった蜘蛛の巣の主のごとく、灰色の法衣を纏ったかつては人間だったものがぶら下がっている。
数十に分かれた平べったく長い影が、地面をうねっていたかと思うと不意にぴんと張り、隊士達の首を、手足を、断ち切っていく。
トゥレスの部下を。
あたかもただの、がらくたのように。
怒りが落とした火石の熱に似て、腹の底から沸き起こる。
「――ふざけやがって」
踵を返し、だがその意志に反して膝が落ちた。
右腕はレオアリスの剣を受けた反動による損傷が大きく既に動かず、身体に溜まった損傷と、失った血の量も多い。
奥歯を噛みしめ、身体を無理矢理起こし、膝を立てた。裂傷が一層血を滲ませ、眩暈に首を振る。
左肩を手が掴む。
「トゥレス――」
トゥレスは視線だけを斜めに動かし、レオアリスを見た。その表情は無機質に、双眸だけが青白く凍て付く光を宿し、のたうつ影に向けられている。
「何だ、あれは――」
トゥレスは眉を顰めた。肩に加わる重みが、レオアリスの状態を明確に表している。
「悪いが、俺も知らん」
レオアリスがトゥレスを追い越して踏み出し――、その身体がぐらりと傾いだ。
トゥレスは剣を握ったままの左腕を張り、肘裏で引っ掛けるように倒れた身体を支えた。レオアリスはトゥレス以上に、腕を動かす事も困難な状態だ。
「ここにいろ」
「トゥレス大将!」
視線を向けたトゥレスの正面に奔る黒い影が迫る。先端が錐の如く尖る。
剣を握り締めたが、身体は意志を受け付けない。
「チ」
肉を貫く鈍い音が響く。
だが、貫いたのはトゥレスではなく、黒い先端は目の前に飛び込んだ隊士に突き立っていた。
背中から生えるように覗く鋭利な先端をゆるりと血が伝い、トゥレスの足元に滴る。隊士の両膝が芝の上に落ちた。
「大、将、……っ」
「ヨエル!」
トゥレスの振り抜いた剣が触手を断ち切り、すぐに隊士の面を叩いて覗き込んだが、トゥレスを認めたのかどうか、ヨエルと呼ばれた隊士はまだ若い面を僅かに持ち上げ――、瞳に浮かんでいた光は呆気なく消えた。
「――ッ」
がり、と奥歯を噛む。
上げた視線の先でカスパーの飛竜が上空へ羽ばたきかけ、地面から膨れ上がる黒い帯がその翼を捉えた。体勢を崩した飛竜が芝の上に引き倒される。
「カスパー」
その腕に抱えているのはファルシオンだ。カスパーは懸命に飛竜を立て直そうと片手で手綱を繰る。カスパーの剣は彼の手元には無い。トゥレスへと渡している。
「保たせろ」
剣を杖代わりに地面に突き立て、膝に力を込める。
黒い帯はカスパーを飛竜ごと引き摺った。助け出そうとする他の飛竜達も、跳ね上がった黒い帯に捕らわれ、地上へと落ちる。
血が足元を濡らすのも構わず、トゥレスは立ち上がった。
その視線の先にグランスレイと第一大隊隊士の姿を捉える。
「殿下―― !」
グランスレイが剣を掴み、蜘蛛の巣のように広がった影へと芝を蹴る。大剣がカスパーの飛竜を捉える帯へ振り下ろされ、だが白刃は布に似た薄いそれの半ばまで食い込んだものの、そこで刃を噛んだ。見て取る以上に硬く、悍ましいほどに強靭だ。
引こうとしたグランスレイの剣に帯の先が巻き付き、更に這い上がる。
駆け付けた隊士が振り下ろした剣が、悉く弾かれる。
「副将ッ」
フレイザーは青ざめ、抱えていたアスタロトを横たえて一振り残っていた剣を掴んだ。その肩を剣を手にしたロットバルトが押さえる。
「フレイザー中将、貴方は公を館へ」
「でも」
「私は、いい」
アスタロトが呻いて身を起こし、血の乾いた指先で芝の上に手をついた。フレイザーは広がる影の前にいるグランスレイと、まだ傷の癒えていないアスタロトを見比べ、唇をぐっと引き結ぶとアスタロトの身体をもう一度抱えた。
「フレイザー!」
アスタロトが抗議に身を捩った時、不意に雷光に似た光が空から奔り、一直線に黒い塊へと落ちた。
グランスレイの剣を掴んでいた影が解けて縮む。カスパーの飛竜に巻き付いていた帯もまた緩み、解放された翼が広がった。
「隊士を退がらせるんだ、ヴェルナー中将」
振り返ったロットバルトを、アルジマールの瞳が被きの下から見上げ、アルジマールは一つ、浅い息を吐いた。
指が正面の空間に法陣を描き、同時に黒い巣の上に光の円が浮かぶ。
「副将、一度後退を!」
グランスレイが素早く隊士を退かせた直後、円は噴水のように光の幕を落とし、黒い巣をすっぽりと包み込んだ。手当たり次第に巣へと引きずり込もうとしていた帯が、光に包まれ一瞬、動くのを止めた。
だが、次の呼吸で跳ね上がり、白光を放つ幕を内側から突き破ろうと激しく叩く。
黒い帯は第二大隊の隊士と飛竜の大半を捉えたまま、逃れようともがく身体を更に締め上げていく。
カスパーが飛竜の体勢を取り戻しながら振り返り、呑まれていくサージの視線を捉えた。
「サージ!」
アルジマールは法陣に手を掲げたまま、薄い唇を噛んだ。
「悪いけど、このまま――」
そう口にしながらも、アルジマールは指先に躊躇いを滲ませた。
深く絡め取られた隊士達の何人かは明らかに息絶えているが、アルジマールが術を閉じれば、まだもがく十数名ごと共に押しつぶす事になる。
逡巡の合間にも影は膨れ上がり、白光の幕を歪ませる。
巣の中心へ向かって引き摺られていくサージの瞳が、アルジマールを捉えた。
「……アルジマール院長――」
黒い帯が光の幕を突き破ろうと激しくうねり、何度となく打ち当たる。
サージの身体が闇に一段と沈んだ。
「じゅ、術を、続けてください――王太子殿下の、御身を」
それからサージは身を起こしたトゥレスへ、視線を向けた。
「大将――いいですよね。ここで」
トゥレスがサージの瞳を、自分に向けられている隊士達の瞳を捉える。
束の間のその沈黙が、誰にとっても無限のものに思えた。
トゥレスは彼等を見据えたまま、頷いた。
「ああ――、お前達は良くやった」
アルジマールはトゥレスの横顔をちらりと確認し、ぐっと唇を引き結ぶと、右手の人差し指で法陣円に光る模様を描き込んだ。
「苦しみは与えない」
光の幕が黒い蜘蛛の巣を包み込み、一瞬の内に収縮する。
トゥレスは瞬き一つせず光を睨み据え、その視線の先で、それは手のひらに収まるほどの小さな球体となり、青い芝の上にほとりと転がった。
幾ばくか――、苦しいほどの静寂が落ちた。
たった今までの混乱など何事も無かったかのように、ただ無残にめくれ返った芝と撒き散らされた血の跡が、混乱の名残を留めている。
それまでの混乱と空気を縛る緊迫が、緩みかけた刹那。
転がっていた球体は、先ほどの光景を逆回しにしたかのように急速に膨れ上がった。黒い帯が内側から弾き、貫く。
アルジマールの前に浮かんでいた法陣円が弾け飛んだ。
|