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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第三章『黎明は遠く、風は嘆きの歌を歌う』


 レオアリスの右手に握られた剣の纏う光が、夜の灯火ともしびとなって揺れる。
 光は音もなく湧き出す泉に似て、剣の鍔元から切っ先へ、刀身を淡い波紋となって広がっていく。
 淡く、青い。
 ファルシオンの小さな手のひらに置かれた石。
 その光に導かれるようにあらわされた剣。
「ちがう――」
 ファルシオンは手のひらの中に、もう一つの青い光を押し隠してしまおうというように、ぎゅっと握りしめた。
 それは違うのだと――ただ幼いファルシオンには、それを語る言葉が見つからなかった。
 けれど見つけたとしても、今のレオアリスには届かない。
(わたしの言葉は)
 ファルシオンの言葉では。



 レオアリスは剣を握る自分の手を見た。
 手の中にあるはずの、その感覚が無い、それを。
 あるのは、自らの脈動と共に走る、痛み、痛み、痛み――

 けれどそれを持ち続けなくては。
 それが果たすべき役割だ。
 自分の。




 扉を開けた瞬間、室内から薄紫色をした煙がどっと足元に雪崩れ込んだ。
「退がれ!」
 クライフは咄嗟に口元を腕で覆い、扉を開けた隊士の肩を引いた。得体の知れない煙は薄暗い廊下に低く漂い、白っぽく染めていく。
「何だってんだ、こいつは――」
 扉の奥は物音一つしない。
 口元を覆ったままクライフは、まだ煙の流れ止まない扉へ近付いた。
「中将」
 警告の響きへ右手を上げて返し、扉口に立つ。
 クライフは息を呑み――、その口元で革手袋が軋む音を上げるほど拳を握り締めた。
 広い居間の床には、重なり合うように人が倒れている。近衛師団の軍服の黒と、もう一種類の黒に近い深い緑は王宮警護官の士官服だ。その数は合わせて二十名を優に超えている。
 一見して外傷がある者は少ない。
 原因はほぼ間違いなく室内に満ちていた煙だろう。
 それらを読み取りながら素早く視線を巡らせた室内に、王妃とエアリディアルの姿は無かった。
 詰めていた息を吐いたそこには、安堵と焦燥が混じり合っている。
「――クライフ中将、入りますか」
 少将リムの声にクライフは自らの責務を取り戻し、窓が全て割れている事を確認し部屋に踏み込んだ。
「他の部屋も探せ。それから、無事な者がいれば保護を。残った煙に注意を払え。少しでも異常があったら外に出ろよ」
 リムが踵を鳴らし身を返す。クライフは口元を覆いながら声を上げた。
「――王妃殿下! 王女殿下!」
 何度も呼ばわる。だが、声は返らない。
「王妃殿下!」
 胸を叩く鼓動に歯を噛み頬を張りつめ、どこか、少しでも二人の手掛かりが無いかと見回した時、クライフの左足に何かが触れた。
「――クラ、イフ……」
 掠れた声に視線を落とす。
 倒れている隊士の一人がクライフの右脚に手を伸ばしている。それが誰だか気付き、クライフは眉を寄せた。
「お前、フェダークか」
 第二大隊の中軍中将だ。襟元を掴み上げたい思いをぐっと堪え、煙から引き上げ抱え起こすと室内で一番高い卓の上にその身体を横たえた。 フェダークは辛うじて意識を繋いでいる状態だ。
「何をした――ここで何があった」
 問いながらもクライフは、フェダークの返す言葉をほぼ予想してもいた。
 だが、苦しげに声を絞るフェダークの、その言葉の一点は、全くの予想外のものだった。
「お二人を……、連れ去……れた――、警、護官が――裏切っ」
「警護官? 何を言って」
 裏切り。フェダークは確かにそう言った。
 腹の奥がぐっと冷える。トゥレスの口にした東方公、そして警護官――
 どこまでこの糸が伸びていくのか、一瞬の思考に氷のような冷えた感覚が喉から胸に差し込む。
「どこへ――お二人はどこへ連れ去られた、フェダーク!」
「すま……な、……」
「おい、フェダーク!」
 肩を掴んで覗き込んだが、もうフェダークは事切れていた。束の間生気の失せた面を見下ろし、クライフは奥歯を強く噛み締めた。
(警護官――)
 事態は次々と新たな顔を見せていく。
 庭園と打って変わった館内の静寂も、この夜の終わりが近い事を示しているのではなく、これからの一層の混乱を前にじっと息を潜めているかのように感じられた。




 失敗だ。
 第二大隊の隊士に引き倒され、冷たい石張りの床にうつ伏せにされたまま、法術士――ブルームは背後の館へ注意を巡らせた。
 王妃達を捕らえに行った二人の法術の気配は、もう既に館には無い。彼等はおそらく王妃達を予定通り、館へ連れ去ったのだ。
 おそらくすぐに第一大隊も戻り、その事実はこの場に知られるだろう。
 そうなれば彼は、近衛師団によって殺されるか、良くて拷問にかけられるに違いない。
 そしてこのまま戻れたとしても、東方公が彼を生かしておくとは考えられなかった。
 王太子の奪取に、失敗した。
 トゥレスの取った行動によって。
(力を貸してやったというのに、裏切者め――)
 トゥレスが斬り捨てたゼルマの指先が、目と鼻の先に力なく投げ出されている。その先を辿って見開かれた虚ろな瞳と視線が合いそうになり、ブルームは慌てて強く瞑った。
(いや、有り得た話だ。もともと奴自身が不遜にも、王太子殿下を擁しようと考えていたのだから)
 ブルーム達はそこを軽視し過ぎて失敗したのだ。
 ブルームはもう一度、投げ出された指先を見た。彼がこれから辿る道を。
(いいや、まだ助かる――)
 その為に、術式と法陣円を記した一枚の紙がブルームの懐に畳まれている。東方公が抱える法術士長、オブリースから渡されていた、もう一つの手段だ。
 ブルームは冷えた石に擦り付けた頬を僅かに持ち上げ、隊士達の足の隙間から庭園を伺った。




「王妃殿下と王女殿下をお連れいたしました」
 高い天井の石造りの部屋はしんと静まり返り冷え切り、部屋の中央に置かれた長い卓には三脚の硝子細工の燭台が幾つもの灯りを揺らして、室内を踊る影で彩っている。
 卓の奥に一人腰かけていた男――東方公ベルゼビアは酷薄な瞳を滑らせ、扉の前に膝をつき首を垂れる男を一瞥した。
 卓の上に載せていた右手の指先を僅かに上げると、傍らの家令が椅子を引く。ベルゼビアは鷹揚に立ち上がり、その動きに合わせて濃紺の生地に銀糸で刺繍を施した長衣が、微かな衣擦れの音を鳴らした。
「では、早速お目通り願うとしようか」
 意を受けて頷き顔を上げた男は、灰色の被きの下から、主の面を見上げた。居城から王妃とエアリディアルを連れ去った法術士の一人だ。ベルゼビア公爵家の法術士長、オブリースだった。
「王太子の首尾は」
「ゼルマとブルームは戻っておりません。予定の時刻を過ぎ、失敗したものと考えて良いでしょう――申し訳ございません」
 一瞬、オブリースの声が緊張に震えたが、ベルゼビアは今度は一瞥もしなかった。
「構わん。まああの男も、そこまでは認めはしないだろう」
 何の感情も揺らさずそう返し、ベルゼビアは膝をつくオブリースの脇を抜けた。そこにやや、それを良しとする意図を垣間見たように思え、オブリースは意外な想いを抑え、主の影を視線で追った。
 ただ次に落ちたのは、冷え切った手足を更に凍り付かせる言葉だ。
「しかし王太子であっても手に収まらないものであれば、この先混迷を深めるだけでしかない。それは不要な存在だ」
「……既に、そのように――」
 ベルゼビアは薄く笑い、緩くうねる長い黒髪を揺らし、室内よりも更に冷えた廊下を歩く。
 纏う衣の長い裾が、灯りを落とした廊下に暗鬱に揺れた。




 トゥレスは瞳に映り込む青白い光を眺め、双眸を細めた。
 青白く輝く剣は夜の中、この場に欠けた月を落としたようで、微かに、不安定に揺らいでいる。
 トゥレスの面にあった初めの期待の色は薄れ、代わりに明らかに、失望の色が浮かんだ。
 レオアリスは剣を現わしたにも関わらず、負った傷は乾いてもいない。
「――それは、何の為だ」
 俯いていたレオアリスが顔を持ち上げる。トゥレスはその面をじっと見た。
「期待してみりゃ――、何を映してるんだか」
 トゥレスは不快そうに眉を寄せ、グランスレイへ顔を巡らせる。
「もう止めさせるべきだ、グランスレイ殿。役割は十分果たした。いずれも勝っても負けてもいねぇが――これ以上は意味がない」
 グランスレイはトゥレスと、それからレオアリスの姿を見つめ、束の間、返す言葉を躊躇った。だがトゥレスの言ではないが、レオアリスがこれ以上、なおかつ今の状態で剣を持つ事は危険だと、そう思える。
「後は真っ当に、隊と隊とでぶつかり合って決着をつけるだけだろう」
「まだだ」
 掠れた声が割って入る。トゥレスは剣を手の中で遊ばせ、レオアリスと向き合った。
 レオアリスの瞳がトゥレスの瞳を捉える。
「俺とお前が戦って、終わりにしろ」
「――終わりに、か。その考えが違うんだよ」
 トゥレスは踏み込み、剣ではなく、左腕を肘からレオアリスの喉に叩き付けた。避けきれずに強打を受け、レオアリスの身体が後方に弾かれ倒れ込む。
「まともに動けもしねぇ奴が、何を、誰を背負う」
 レオアリスは呼吸を失って噎せ返り、だが、右手に掴んだままの剣を身体の前に立て、その身を起こした。押し殺そうとした苦鳴の欠片が喉から零れる。
 トゥレスは背後の第二大隊へと踵を返した。
「――トゥレス……!」
 足を止め、振り返ったトゥレスは、視線の先に立ち上がったレオアリスを捉えた。
 剣の纏う青白い光が、一度、ゆるく広がる。
 レオアリスが踏み込み、右手の剣を薙ぐ。トゥレスもまた踏み込んだ。
 互いの剣が打ち合い――、誰もが折れる事を想定したトゥレスの剣は、レオアリスの剣を捉えている。
 レオアリスの手の中で剣の光が不安定に揺らぐ。
 一瞬の緊迫と、それが両陣営の中で落胆と安堵に取って代わりかけた刹那、刀身を抜けるような感覚と共に、トゥレスの右腕の皮膚に、幾筋もの裂傷が走った。内臓を直接叩いたかに思える衝撃が身を打つ。
「ッ」
 遅れて裂傷が血を吹き出し、同時に喉の奥から迫り上がった血の塊を吐き出した。
「トゥレス大将!」
 だがレオアリスもまた、左手で右手首を掴み、唇を噛み締めてよろめいた。左手はあたかも剣を離そうとする右手を抑えているかに見える。
「上将――」
 グランスレイは自身の剣を鞘から引き抜いた。
「ロットバルト、上将を」
「グランスレイ」
 レオアリスの掠れた声が、それでも断固として響く。
「俺が負う」
「上……」
「――何も判ってねぇな」
 トゥレスは喉に溜まった血を吐き捨て、向かい合った。
 一呼吸おいて――、踏み込む。
 トゥレスの視界に映り込むのは冴えた月の光。
 視線は輝く刀身の向こうに、レオアリスの瞳を捉えたままだ。レオアリスの剣が遅れて迎え撃つ。
 打ち合うと共に再び裂傷が、今度は肩口まで走る。血が霞のように夜に流れる。
 トゥレスは視線を逸らさず、三度みたび、剣を叩き込んだ。血が吹き上がり、腕を裂き内臓を叩く痛みが思考に突き刺さる。
 膝が落ちかかり、背後で狼狽える隊士達の声が耳に鳴った。
(ピィピィと、情けねぇ)
 苦笑を浮かべ、苦痛を咬み殺す。
(ああ、あいつらは俺が連れて来たんだったな)
 そう、彼等はトゥレスに付いてここまで来た。今ここに顔の見えない者も。
 望みを叶える為に――見届ける為にだ。
 それはトゥレスにとって、誇りだ。彼等が自分と共にここに在る事が。
 トゥレスは合わせた剣の向こうへ意識を戻した。
 この距離であれば相手の瞳に映る自分の姿さえも見える。
「――」
 血を流しているのはトゥレスだけではなく、レオアリスもまた剣を打ち合わせるごとに、蒼白な面が苦痛を堪え、よろめきかける身体をとどめる。
 撃ち込んだ剣が噛み合う。腕を走り、骨に伝わる衝撃――
 だが、それはどこか虚ろで、まるで目の前には、誰も存在していないように思えた。
「――お前は」


 痛みが、どこか遠くにある。
 剣は、身体は、意志は動く。
 けれど何故そうするのかが判らない。
 何故ここにいるのかが判らない。
 自らの役割はここには無く、自らに求められた役割を果たせず、望みも、責務も、全て、何一つ、誰に渡す事も返すあても無く。
 ならば、それに意味があるのかが判らない。
 ならば――


 トゥレスは剣の向こうのレオアリスの姿を、掴みがたい苛立ちと、憐れみさえ帯びた瞳で眺めた。
 剣を撃ち込めば、阻む剣から伝わる余波はトゥレスの皮膚を裂き、全身を叩き、血を撒き散らす。
 だが、それだけだ。
 トゥレスの剣とレオアリスの剣とが打ち合い、その都度トゥレスの腕や肩、上半身にまで裂傷が走る。トゥレスはそれを一切無視して更に踏み込んだ。
 レオアリスの剣が迎え撃ち、トゥレスの手の中で剣は鈍い音を立て砕けて散った。
「ッ」
 弾かれ、踏み降ろした左脚で身体をとどめる。
 身を断つ刃を覚悟しつつ、トゥレスは喉から競り上がった血の塊を青草の上に吐き出した。
 だが追撃が無い。
「――」
 血の滴る顎を持ち上げる。
 目の前のレオアリスを眺め、トゥレスは口元の血を手の甲でぐいと拭った。
「……てめェ、そいつは、何の・・罪滅ぼしだ・・・・・
 燻っていた苛立ちが、意識の奥からはっきりと顔を出す。
(――俺はこの場に立って、戦えりゃ、それで満足だったはずなんだがな)
 それを目的として動いたはずだったものが――、腹が立つ。
 レオアリスの在り方、ここに立つ者達に対しての在り方が。
 レオアリスは自らの剣を杖のように立て青草の上につき、肩で息を抑えている。
 トゥレスが剣を失っても追い打つ事も無かったのは、そうしないのではなく、できないからだ。
 剣を顕しながらもその刀身には先ほどからほとんどと言っていいほど力は感じられず、トゥレスの剣に合わせて動いているに過ぎない。顕現した段階で――その前に、もう既に限界が来ていたのは明らかだった。
 今ここに立っているのは、ここで立ち続ける事が、自らの責務だと、そう思っているからだ。
 トゥレスとは正反対の意思で、ここに立つ事が。
「何をやってる――」
 トゥレスは左腕を後ろへ伸べ、背後の隊士へ、剣を寄越せと指を開いた。その手も血に塗れ、トゥレス自身の状態に第二大隊の隊士は一瞬躊躇い、だが飛竜から滑り降りたカスパーが自らの剣を投げ込む。
 足元に突き立ったそれを、トゥレスは緩やかに身を屈め、左手で芝から引き抜いた。
 レオアリスの瞳はトゥレスを映している。
 それだけだ。
 目の前の敵であるトゥレス、第二大隊、守るべきファルシオン、背後で見守る第一大隊の隊士達――それを映しているだけだ。
 まるで全てが足元にかかる影のようだ。
 トゥレスは左手にした剣を、頭上へ掲げた。
「なるほど、お前はイスに行くべきだった」
 レオアリスはトゥレスの動きに合わせ右手の剣を引き寄せたが、その動きすら、石の塊を引くように重い。
「お前は今ここに居ようと、イスにいようと、何の意味もねぇ」
 斬り下ろした刃は、迎え撃ったレオアリスの切っ先を叩き落とし、ほとんど手応えもなく右肩から鳩尾までを裂いた。
 ファルシオンの悲鳴に近い声が耳を打つ。
 トゥレスは舌打ちし、剣を引いて逆手に返すと右の肩口に担ぐように、切っ先を真っ直ぐレオアリスの喉元に定めた。
 一歩踏み込めば、喉を貫く。
 レオアリスは動く事すら叶わなくなったのか、喉元に定められた切っ先を見つめながらも、剣を掴んだ腕を降ろしたままだ。既にその剣の纏う光は、夜の中に掠れそうに淡く薄れていた。
「――お前の意志がその程度なら、お前はただイスで自己満足した挙句死ぬだけだったな」
 トゥレスは無表情に踏み込みかけ――、その足を止めた。
「お前の言う通りだ――」
 押し出された言葉は掠れてトゥレスの耳に届いた。
「俺は、それでも良かった」
 持ち上がった漆黒の瞳が、トゥレスを捉える。剣を顕して初めて――、そこに狂おしい意志の光が灯った。
「俺は、それで良かったんだ」
 トゥレスが血に染まった面の片眉を顰める。
「――最後にもう一度言うぜ。お前のその考えは、誤りだ」
 左手の剣を握り直し、トゥレスが踏み込む。
 切っ先は真っ直ぐに喉を捉えた。







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2018.1.8
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