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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』


 城下の正規軍からはひっきりなしに報告が上がり続け、八刻にあと四半刻と近づく頃には、東上層ヘレネ橋に現れた海魔による被害状況に加え、西下層ケネック橋の状況も次第に明らかになった。
「……蟹の群れだと」
 その数が数万匹にも及ぶのではないかとの報に、タウゼンの顔色が重く曇る。ヴァン・グレッグは卓上に広げた西下層ヴァン・ルー地区の地図に両手をつき、そこに記された浸食範囲を睨み付けた。
 群れが覆っていると思われる区画は、ケネック橋を中心に円を描き既に五区画、ほぼヴァン・ルー地区の三分の一ほどに及んでいる。そしてその浸食はまだ続いていた。
「排除にどれ程の手が必要だと言うのだ」
 通りは狭く、充分な兵の配置もままならない。一匹一匹はさしたる害は無くとも、数万に及ぶ群れを排除するのにどれ程の時間が掛かるのか、すぐには想像が及ばなかった。
 アスタロトは唇をぎゅっと引いた。今すぐにでも駆け出したい想いと、今の自分自身の無力さとが、張り詰めた頬に現れている。
 手のひらを見つめ、それを握り込んだ。
「……何かいい手はないの、アルジマール」
「うん――そうだね」
 アルジマールはやや気怠げに頷くと、何を思ったか卓の向こうにまだ転がったままの怪魚の死骸へと左手を述べ、手のひらを開いた。
 怪魚の上に一点、水の玉が浮かぶ。小鳥の卵ほどの大きさだ。
 と見た瞬間、水球は傘を開くように弾け、怪魚を包んだ。
 そこにいた者達の驚きをよそにアルジマールは口の中で何事か唱え、伸ばしていた左手を握り込んで閉じる。
 怪魚を覆っていた水は、初めのものよりも更に小さな球体に戻った。横たわっていた巨大な鋼鉄のむくろはもう跡形もない。
 球体は光を弾きながらすうっと移動してアルジマールの前で止まると、アルジマールはその球を掴み無造作に懐にしまった。
「うん。西下層は問題無い。それで大公、御身の力を貸してくれまいか」
 ベールはやや首をかしげた。
「私の? だが西海の魔物相手に役に立つか」
「大丈夫。取り敢えず下層の運河は涸らそうと思って。こんな事になった以上一度入れ替えた方がいいからね。だけど涸らしっぱなしは影響が大きいから」
「いいだろう。どのくらい要る」
「運河を元どおりにして欲しい」
 アルジマールは今度は右手を、見えない鍵盤を撫でるように動かした。するとそこに、四冊の薄い書物が、項を開いた形を浮かび上がらせる。
 開いた項は独りでに、数行の文字と複雑な法陣円を刻んだ。
 アルジマールがもう一度手を振ると、書物は項を閉じた。
「よし、これで準備は整った」






 炎が通りの建物を舐め、溢れ来る黒い群れを辛うじて遮っていた。
 群れは炎の前から引き返す様子も無く、押し出された数百匹の身を焼きながらも際限なく次々と、炎の壁の向こうで積み重なっていく。辺り一帯濃い潮の香が漂っていた。
「もう火が尽きるぞ」
「法術士はまだか!?」
 正規軍の兵士達はケネック橋を中心とした四方の通りを塞ぐように展開しながらも、群れの進行を押し留める以上の手を打てないでいた。
 小隊長のノックスは炎の隙間から染み出してきた蟹の甲羅を踏み砕き、とっくに疲れ切って重くなった腕で剣を振るい、壁を這う一匹を突き刺した。
「とにかく潰せ! 火を絶やすな! 何でもいいから燃やし続けろ!」
 剣ではこれ以上の事はできない。おそらく有効なのは法術のみだ。できれば大量の炎――それは今でさえそうであるように、街をも燃やしてしまうことになるだろう。
 だが、この相手にはそれ以外対抗できる手立ては無いと思えた。
(炎帝公が、おいでになれば――)
 その炎なら、この群れを焼き尽くすなど容易いのではないか。
 だが口に出しては、別の事を叫んだ。
「法術士団が来るまで――」
「そこまででいい。隊を退がらせろ」
 冷静な声がノックスの耳を打った。
「誰――」
 声のした辺りを振り仰いだノックスは、希望に顔を輝かせた。通りを見下ろす建物の上のそこここに、灰色の法衣が風にひるがえっている。正規軍の法術士と法術院の術士が入り混じっていた。
「法術士だ」
「法術士団!」
 ノックスの周囲からも幾つも喜びを含んだ声が上がる。
 ノックスはすぐ横の建物の屋上にいる法術士に敬礼を向けた。名までは知らないが、少将位の紀章が法衣の胸元に縫い取られている。白髪交じりのその男は法衣に包まれた腕を上げて後方を示した。
「一区画退け。大規模な術だ、巻き込まれるぞ」
「はっ! ――よし、お前達、退がれ! 蟹共から離れろ! 一区画だ!」
 ノックスが腕を大きく振り回し隊を退げる間にも、建物上の法術士達は手にした書物を広げ、一人ひとり術式を唱え始めた。それはアルジマールが先ほど謁見の間で広げた書物だ。正確には一人ひとりが持つのは、その複製だった。
 兵を指定された区画まで退避させ、ノックスは改めて法術士達の立つ屋上を見上げた。法術士はノックスの位置から見える範囲でも十二名いる。
「小隊か。二隊――三隊かもしれん」
 法術士団は一小隊十名で構成されている。法術院との混成という事はかなりの人数をこのケネック橋に掛けてくれたのだと、ノックスはまた安堵に息を吐いた。ここまで法術士が出るのなら、この場はもう収まったも同然だと思える。
 法術士達の紡ぐ術式が通りに流れ、ノックス達のいる通りの上空に光る法陣円を浮かび上がらせた。
「おい、あれ、他にも幾つかあるぞ」
 誰かが指差す先の空に、建物の影の合間から法陣円の光る輪郭が覗いている。
「合わせて三つ――もう一つあるか」
 上空に四つの法陣円が瞬く。
 その陣が構成する中央の空間が渦を巻き、そこに吸い上げられるように、運河から大量の水が竜巻となって空へと立ち上がった。水の中にも蟹の群れの黒い斑紋が見える。
 束の間、運河の底は緑の苔が覆った石敷きをすっかり覗かせた。
「見ろ、運河の水が!」
 運河沿いに展開していた兵達が、余りの出来事に声もなく覗き込もうとした瞬間――
 両端から新たな水がどっと流れ込み、瞬く間に石敷きを埋めた。
 運河はまるで何も知らぬ顔で、蟹の群れが現れる前の穏やかな姿を取り戻している。
 対照的に竜巻はその長い身体を左右にくねらせ、蟹の群れへと重い一歩を寄せる。
 竜巻を見上げた兵士達はその勢いに驚きながらも、戦いに汚れた顔に浮かんだのは期待ではなく、落胆だった。ざわざわと互いの顔を見合わせる。
「火を使うんじゃないのか」
「竜巻で弾き飛ばそうってのか? 単に蟹どもを散らすだけだ」
「水なんかあいつらに効くわけない」
 竜巻は轟音をとどろかせながら、ゆらりと傾いだ。倒れかかったその巨大な竜巻が通りの上に見える空を塞ぐように思え、兵士達は慌てて後退った。
 竜巻が弾け、豪雨となって蟹の群れに降り注ぐ。
 その圧倒的な水量を目の当たりにし、あの蟹の群れを押し流すのではと、束の間の期待が兵士達の間に満ちた。だが蟹の群れのほとんどは通りの石畳に爪を立て、水流をものともしていない。
 期待はたちまち落胆に変わった。
「――やっぱり駄目だ」
「奴らは水の生物なんだ、当たり前だ!」
「法術士団は一体、何考えて――」
 非難の声は途中で途切れた。
 ただ流れて過ぎると思われた水は、蟹の群れを包んだまま、ぐにゃりと通りから浮いたのだ。
 例えるなら巨大な敷布を寒天で作り、広げたかのようだ。石畳から群れを次々と引き剥がす。
 四つの法陣円が眩い輝きを放つ。
 光に手をかざし呆気にとられている人々の前で、上空に浮き上がった寒天もどきは、ぐぐ、と収縮を始めた。
 そこに恐るべき力が掛かっているのは、素人目にも判った。ポキポキと微かな音が降る。それは蟹の群れがあの塊の中で砕けている音だ。
 ぽき、べき、ばりん。
 今まで苦しめられていたにも拘らずどこか心胆を寒からしめる音が、息を呑み静まり返ったヴァン・ルー地区に響く。
 運河を一時干上がらせたほどの大量の水は収縮を続け、人々が固唾を飲んで見つめる前で、今や大人が一人膝を抱えて丸まった程度の大きさになった。
 辺りは異常に蒸し暑く、住民達は目の前の出来事に見入りながらも額や首筋を拭う。
 やがて拳大の黒く半透明な球体になると、それまで蟹の群れが埋め尽くしていた通りの石畳の上に、硬い音を立てて落ちた。
 しんと、辺りが静まり返る。
 塊を遠巻きにして誰も近付こうとしなかったが、空に輝いていた法陣円が明滅のあと光を消すと、わっと歓喜の声が沸き起こった。






 東上層ヘレネ橋に現れた大蛸の海魔は、血潮と食い千切られた身体の破片を撒き散らし、通りを朱に染め上げた。
 長い触手――触腕が通りを這うごとに、そこにあるものを人も物も構わずに巻き取り、一つひとつに牙を持ったおぞましい吸盤が噛み砕く。人々は我を忘れて逃げ惑い、通りは一時何が起こっているのか確認する事もできないほど混乱していた。
 だが大蛸の海魔は巨体を現わした運河から触腕の届く範囲を貪り切ると、それ以上逃げる人々を追うことはなく、その巨体を坂の上へと向けた。
 海魔は全身を震わせ、地の底から響くような唸りを上げた。
『ナ……、ル……』
 八本の触腕がそれぞれ別の意思を持つかの如く蠢き、大通り沿いの建物を掴み、石畳を削ぎ取りながら、くねる水袋のような巨体を前へと押し進める。
 緩やかな傾斜の通りを真っ直ぐに登り切った先には、街と王城とを区切る城壁が聳えている。その城壁の向こうには、青い空を背景にした王城の尖塔が覗いていた。
 脚の付け根付近にある、左右に突き出た両眼がぐるりと動く。
『ど、こ……だ……』
 ずるり、と路上に血の帯を引き、海魔は坂を登って行く。
『ナ、ジャー……ル……』
 生きながらえ通りに座り込んだ人々は、彼等の耳には雷鳴のごとく響く唸りを上げながら這い進む怪物を、息を殺して見つめた。
 何故自分達が幸いにも、忘れ去られたのか――ふと気付いた誰かの声が洩れる。
「王城へ、向かってる――」
 三階建ての建物を優に超える巨体には、王城の城壁は何の障害にもならないように思えた。
『……ジャ、ル……』
 伸びた触腕が瓦屋根を砕き、壁を脆く剥ぎ取る。
 巨大な身体を不安定に揺らし、一歩一歩、海魔は確実に城壁へと近付いていた。
「あのままじゃ――」
 このまま海魔が這い進み王城の城壁を破るという想像は、住民達にとって希望を失うのにも等しかった。
「軍は、まだ気付かないのか?!」
 不意に。
 海魔が洩らす雷鳴の唸りを縫い、新たな雷鳴が正面の城壁辺りから響いた。
 と同時に城壁の上に人影が身を起こす。一人ではなく見渡す限りに並んだその姿は、正規軍の兵士だ。中央の一人が右手を振り上げた。
「撃て!」
 石が風を切るのに似た音と共に、城壁から一斉に飛来した何かが海魔の上へ降り注いだ。
 弾力のある分厚い表皮を物ともせず深々と突き立ったそれは、通常の矢ではなく、槍に近い半間もの長さの軸と鋳鉄の矢羽を覗かせている。
 城壁に兵士と共に並んでいるのは大型弩砲アンブルストと呼ばれるおおゆみだ。木組みの台座から歯車と発条ばねの力を用いて打ち出され、破壊力が高く主に攻城戦に用いられた。
「第二陣、前へ!」
 大型弩砲アンブルストの台座を載せた車輪が転がる音が、重なり合って響く。
 その中を、海魔は青い体液をどろりと流しながらも、身に刺さる矢を単なる棘だとでも言わんばかりに八本の触腕を蠢かせ進み続ける。
「撃て!」
 再びの号令に、大型弩砲アンブルストの歯車が回り、限界までたわめられた力が弾ける。鋭い風切り音が沸き起こり、降り注いだ鉄の矢の雨が大蛸の身を貫き、触腕を石畳に縫い止める。
『許さ……ぬ……ゆる、さ……ぬ……ナー、ジャー……ルゥ、ウ……』
 大蛸は苦痛の唸りを洩らし、身を捩ると、その巨体を更に膨らませた。
「何だ」
 危険を感じたその瞬間、目の間に突き出たくちばしのような突起から、黒い霧が吹き出した。
 兵士達が咄嗟に盾を掲げたが、隙間から漏れ落ちた霧を吸い、数人がばたばたと倒れ身体を痙攣させる。
「う、わッ」
「怯むな! もう少しであの化け物の動きを止められる! 第一陣、再装填終えたか!」
「完了します!」
「前へ出ろ!」
 大蛸は自らを縫い止める矢から、自らの肉すら引きちぎりながら這い出し、尚も前進した。
 城壁を守る兵士達の正面に、大蛸の巨体が緩慢に、だが確実に迫り来る。触腕を伸ばせばもはや城壁に先端が掛かる距離だ。
 呻きに似た咆哮が辺りを震わせる。
「手を止めるな! ありったけを打ち込め!」
 大型弩砲アンブルストが三度目の唸りを上げる。槍と見紛う鉄の矢が容赦無く突き立ち、肉を抉る。
 触腕がのたうち、辺りの建物を所構わず破壊した。倒壊する石壁が砂埃を上げる。
『裏切り……者の……、傲岸……』
 ずるり、と、あちこちが引き千切られ欠け青い体液に塗れた触腕が、城壁へと伸びた。
「第二陣、第二射用意!」
 鉄の矢羽が風を切る音は豪雨に似ている。
 それとも岩に叩き寄せ引いて行く波の音か。
『……お、お……懐かし、き、濤波とうは、の……』
 四度目の鉄の矢の雨を受け――、大蛸はとうとう、その前進を、ゆっくりと、止めた。
 静まり返った通りに、歯車がバネをたわめる音が更に鳴る。
『ナー……ジャ、ル……』
 八肢のあわいの口元から青い泡を吹き出し、激しくのたくっていた触腕が力を失い始めた。
『貴様に、国な、ど……ある、ものか』
 大蛸の身体は膨らんだ瓢箪のような胴と、血に濡れたおぞましい吸盤の並んだ触腕とが力を失い、陽射しに溶ける雪さながら沈んで行く。
『許……、さ……ゆ……』
 城壁から放たれた矢が、最期の呟きを消した。
 風が城壁と動きを止めた海魔との間を吹き過ぎ、耳に痛いほどの静寂の後、東上層クレモント地区にもまた、歓声が響き渡った。







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2017.2.12
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