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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』


 謁見の間は、協議が行われていたつい半刻前までとは想像もつかない姿を見せていた。
 楕円に並べられていた卓は列を乱し或いは倒れ、卓の後方の円柱は断ち切られ、床の上に崩れ落ちている。何よりも、大理石の床は丸く陥没し、ひと抱え程の穴が階下を覗かせていた。
 アルジマールの創り出した球体はレオアリスを包み込んだまま、それそのものが意志もを持つように、アルジマールとファルシオンとの間の床にすぅっと降りた。
 輝きが薄れていく。
「――レオアリス!」
 ファルシオンはその横にしゃがみ込んだ。アスタロトもまた駆け寄って膝を落とす。
 アスタロトは蒼白な顔で、傍らに立つアルジマールを見上げた。
「アルジマール、レオアリスは――」
 剣をあらわす時にあれほど苦しむのを、アスタロトはこれまで一度も見た事が無かった。光が膨れ上がる前の、まるで別人のような気配も、初めての事だ。
「何が……何があったの。何で、こんなに、血が」
 アルジマールは口を噤んだまま答えは無かったが、アスタロト自身はそれもどこか、上の空に感じているようだった。見開かれた真紅の瞳は微かに震え、横たわるレオアリスの面に注がれている。
「さっきの――あれは」
「アスタロト、正規軍に城下の状況確認命令を」
 呼びかけたのはベールだ。ベールはアスタロトを見て、もう一度声を強めた。
「アスタロト」
 はっとしてアスタロトはベールへ顔を向け、束の間の葛藤を押し退けるように、唇を引き結んで頷いた。
「判った――タウゼン」



 ロットバルトとグランスレイは駆け寄りかけた足を、敢えて抑えた。諸侯の面前で、第一大隊が余り慌てた様子を見せるのを控えたからだ。
 グランスレイはそれでもやや早い歩調で卓を回りながら、ロットバルトを低い声で呼んだ。
「ロットバルト」
 レオアリスの状態を聞いている。
「アルジマール院長の判断です。適切でしょう」
 短くそれだけ返すと、グランスレイはひとまず頷いた。レオアリスの横に膝を落とす。
 ファルシオンがグランスレイを縋るように見た。
「グランスレイ、レオアリスは大丈夫なのか」
「御安心を、殿下。今は眠っているだけです。御身はどうぞ、お立ちくださいますよう」
 このやり取りは何度目だろうかと、そう思いながらロットバルトは先ほどの光を目の奥に描いた。
(あれは――)
 ナジャルのいた位置を見つめ、それから大理石の床の上に散らばった巨大な怪魚のむくろに眉をひそめた。独特の生臭さが漂っている。
 街に今何が起こっているのか、ナジャルの身から分かれたあの黒い塊が何か。
『これまでに我が喰らい、我が身に沈めた者達だ』
 首筋に、凍る手が触れたように思えた。
(――何だ)
 ナジャルの言葉に仄見える、性質故か。
 レオアリスが斬った怪魚の鱗はぶ厚い鋼を重ねたようで、並みの剣や弓が通用するとは到底思えないものだ。
 ナジャルから分かれた塊は、他に三つあった。残りの三体がどのようなものかは判らないが、容易く抑えられる相手ではないだろう。
 視線の先で、アルジマールとアスタロト、タウゼンは法術士の派遣を話し合っている。
 そこへ、謁見の間の扉が開いた。
 駆け込んで来たのは若い正規兵だ。謁見の間の様子を見てぎょっと足を止めたが、ケストナーに呼ばれ走り寄った。
「し――、失礼致します!」
 右腕を胸に当て、若い正規兵は緊張と混乱を隠しきれない面持ちで、一度乾いた唇を舐めた。
「と、東方第一大隊中軍ベネ中将から、至急御報告申し上げます!」
 東方、とミラーが頬を張り詰める。
「東上層ヘレネ橋に海魔が出現、被害が広がっていると」
「海魔――どんな奴だ」
 ケストナーが詰め寄り、兵士はまた唇を湿らせた。ケストナーを恐る恐る見上げ、それから直轄将軍であるミラーの顔を伺う。
「隊は直接視認しておりませんが、情報では、触手を持ち、一つの家ほどの大きさもある怪物と聞いております。運河より現れ、既にヘレネ橋は崩落、住家住民に相当の被害が出ている模様です。ベネ中将は小隊一隊の派兵許可を求めておられます」
「小隊一つでは不足だろう。少なくとも」
 タウゼンの言葉を遮り再び両開きの扉が開く。次に駆け込んで来た兵士が告げたのは、西下層のベッカー門から人々が逃げ出しているという、演習場で訓練中の西方第一大隊からの第一報だった。第一大隊大将ゴードンの指示でまずは偵察隊を先遣し、同時に小隊を動かしたと告げる。
「西下層――それが二体目か?」
「おそらくそうだろう。ナジャルから放たれたのは三体だ。あと一体、どこかに既に出ているはずだ」
 北方のランドリーと南方のケストナーは警戒を露わにし、西方のヴァン・グレッグは恐らくまだ昨日の負傷が完全に癒えていない身体をアスタロトへ向けた。
「将軍。小隊に続き西方第一大隊をケネック橋に派兵します。ミラー、ヘレネ橋もやはり大隊が要るだろう。西海相手に状況を見定めている暇はないぞ。次の報では間違いなく、相当の被害を聞くことになる」
 ヴァン・グレッグはまた、近衛師団副将ハリスとグランスレイを見て、はっきりと口にした。
「ハリス副将、グランスレイ殿、レオアリス殿は動けませんか」
「ヴァン――」
 アスタロトの上げた声が、喉の奥に消える。
 ハリスはグランスレイに慎重な問い掛けを向けた。床に横たえられたレオアリスへ視線が集まる。
「どうなのだ」
「――恐れながら、現状では、不調は明らかです」

『王の守護者の折れた剣を見よ』

 ロットバルトは苦いものを噛み潰すように奥歯を噛み締めた。
 ナジャルのあの言葉は、恐らくアヴァロンの剣を指しての事だ。
 ただ、レオアリスが右の剣を使わず、また顕現に伴った血――、勘のいい者はレオアリスの状態と結びつけるかもしれない。
 伏せ続けるのは無理がある。
 ロットバルトはグランスレイの横に立った。
 昨日の状況を知る者は限られている。
「不調は昨日からです。陛下の御不明が、影響しているのではと推察できます」
 諸侯の視線と共に、アスタロトもまたロットバルトへと不安な眼差しを注いでいる。アスタロトにどの時点で伝えるべきか――、それもまた判断が難しい。
 もう一人、ロットバルトはトゥレスを見た。
 トゥレスの口元に微かに笑みが浮かぶ。だがトゥレスはそれ以外反応を見せず、すぐに笑みも消した。
「――アルジマール院長には状態を診て頂いていますが、原因はまだ掴めていません。そこは慎重に見定める必要があります。恐らくは、現在の状況で海魔の討伐へ出るのは困難ではないかと」
「しかし、今は何より剣士の力が必要ではないか」
 王都に出現した海魔への対応は、通常であればレオアリスが最も適任だ。ここにいるほとんどがそう考えているだろう。
 だが。
『裂傷に手を突っ込むようなものだ』
 あのアルジマールの制止は、決して大げさなものでは無かったはずだ。そしてレオアリスの負った傷は完治した訳ではないと、たった今見せつけられたばかりだった。
 このまま、ひと時ではあっても眠りを得た方がいいのではないか。
 そう思う理由の一つには、先ほどレオアリスが見せた力の発露があった。
 あれは、制御を失いかけていた。
 いや。
(手放しかけていた)
 ロットバルトはアルジマールに視線を向けた。アルジマールもまた、そのかずきの下に覗く口元を真っ直ぐ引き結んでいる。
 一呼吸置いて、アルジマールは顔を上げた。
「僕の見解は――、否だ」
「アルジマール院長、しかし」
「彼は動ける状況にない。いや、この先を考えたら今動かしたくない」








 蟹の群れが男達の足元まで迫る。
 進退極まった男達が死を覚悟しかけたその時、風切り音が男達の耳を打った。
 上空から数十本の矢が降り注ぎ、黒い蟹の群れを貫き、弾き飛ばす。
「おおっ!」
 男達が顔を上げた先に、正規軍の紅玉の飛竜の姿があった。顔に血の気が戻る。
「正規軍か!」
「これは何事だ!」
 街門に続く通りの先から、騎馬に跨った数名の兵士が駆け付け、先頭の一人が惨状に目をぎょっと剥いた。
「お前達、これは一体」
「遅ぇぞ正規軍!」
「説明してる暇ァねェんだ!」
「とにかくこの蟹どもをぶっ潰さねえとならねぇ!」
 再び男達が勢いを増す。
 続いて駆けつけた正規西方軍第一大隊の小隊長ノックスは、男達の足元まで埋め、更に炎の向こうから溢れ出す黒い群れを見て鼻先を歪め、傍の部下を振り返った。
「少将に状況を報告しろ! 原因は不明だが、とにかく人数がいる! 本隊に、増援を!」
 ケネック橋に素早く正規軍が到着したのは、街門がほど近い位置にあったためだ。異変に気付いたのは街門の衛兵だけでなく、王都外周の演習場で訓練中だった正規軍西方第一大隊が街から逃げ出す人々を発見した。
 男の一人が這い上がる蟹を蹴りつけ、踏み潰し、馬上のノックスを振り仰ぐ。
「火が効くが、そこらの店の油じゃ足りねぇ!」
「油と火矢――それと、法術師団の要請を」
「はっ」
 一騎が馬首を返して駆け出して行く。
「それ以外は剣を抜け! カッセの班は裏通りの状況を確認しろ!」
「まだ逃げ切れてねェヤツもいる!」
「住民を見かけたらまず救出しろ!」
「どんどん広がりやがるんだ、クソったれが、家の中にも入ってきやがる!」
「正規軍はどんくらい来れんだ?!」
「すぐ来んのかよォッ」
「演習場に大隊がいる! 既にここへ向かってるはずだ! 四半刻で到着できる!」
 男達から次々に挙がる声をノックスはとにかく拾い、そしてまた自らも騎馬を降りて剣を振るった。








 北中層アルティグレ地区の運河にかかるエルゲンツ橋は、職人が多く住まう地区の誇りを表すかのように、精緻な彫刻を施された白い石の欄干が緩やかに弧を描く造りで、橋ですら美しい造形を誇る王都の中でも一、二を誇る洗練された橋として知られている。
 その姿は今、運河の上には無かった。
 あたかも鉈で一息に断ち切ったかのごとく、つるりとした断面だけを橋の両端に晒している。わずかに残る橋の白い花崗岩は赤黒い血で染められ、残った橋脚を伝いとめどなく滴り落ちる血が、運河の川面を赤く濁らせていた。
 鱗で覆われた魚の尾が、橋の渡り口に広がる血だまりを叩く。
 湿った音とともに跳ね上がった血飛沫は、血だまりの中に転がる首無しの身体に跳ねかかった。彼の首は、剥き出しの白く美しい豊満な胸に抱かれていた。
 首を抱いた女は、二つの乳房の間に抱いた青年の頬に唇を寄せ、静かな啜り泣きを零す。その面は思わず視線を奪われるほど美しかった。
 彼女を中心に広がる血溜まりには、まだ他にも何人もの人々が血を流して倒れ、恐怖と痛みに歯の根を鳴らし瞳を見開いて、啜り泣く女を凝視していた。
 女の上半身は一糸も纏わず白く輝く肌を晒し、絹糸の髪は哀切を表わすように肩や胸へとしだれ落ちかかる。
 ただその腰から下は、碧い鱗が連なった魚の尾が続いていた。
 肩を震わせていた啜り泣きが、次第に甲高い笛に似た音に変わって行く。建物の窓硝子が激しく振動し、血溜まりと、運河の水面が小刻みに波打つ。
 倒れていた人々は苦悶の呻きを上げ、頭を掻きむしった。
 波打つ血が激しさを増し、波の一つ一つが鋭い刃のように薄く屹立する。血の刃は倒れていた人々の身体を寸断した。
 女の背後で運河の水が同じく立ち上がり、そこにいた船を切り裂く。運河の岸壁が断ち切られて崩れた。
 女と同じ姿はあと二つあった。
 女達は上半身の白い裸体を晒し、招くように両手を広げ、喉を反らして甲高い声で叫び続けた。







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2017.1.29
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