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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』


 東上層クレモント地区ヘレネ橋。
 西下層ヴァン・ルー地区ケネック橋。
 北中層アルティグレ地区エルゲンツ橋。
 その日、朝の七刻半を回った頃、王都の三か所、それぞれ階層も方角も違う場所で同時期に出現した海魔は、華やぎ平穏だった街に恐怖と混乱を巻き起こした。


 東上層ヘレネ橋の一角では、運河から現れた触手が物売りの小舟や遊覧船カーネを次々と沈めた。悲鳴が沸き起こる中、ヘレネ橋に絡み付いた触手が石造りの優美なそれを飴細工の如くに砕く。
 その場から逃げ出そうとする者と騒ぎに気付いて集まってくる者とで、大通りは人が犇めき合い一歩を進むのすら困難になった。
 八本の長く赤黒い触手が運河から這い上がる。ずらりと丸い吸盤が並んだ触手は根元で一旦すぼまり、その先には瓢箪に似た大きく膨らんだ頭が付いている。頭はそれだけで通りの建物一棟分ほどあった。やや離れて並ぶ二つの丸い突起にそれぞれ巨大な目が互い違いに動き、通りに犇めく人々を見渡した。
 犇めいていた人々は、一瞬、立ち尽くしてただその異様な姿を見上げた。
 恐怖が人々の意識を掴む。
 ゆらりと立ち上がった触手が陽射しを遮り、落ちた影の下で人々ははっと我に返った。
「ば――化け物だ」
 触手は建物の壁や屋根をやすやすと砕き、人が犇めく通りに伸びた。
 一抱えもある触手はそこにいた固まりの中から、十数人をあたかも濡れた手で粟を掴むがごとくに容易く巻き取り、高々と持ち上げた。妻を連れ去られた男が触手に縋り付く。
 内側にびっしりと並んだ吸盤が、花弁が開くように、無数の牙を剥き出した。
 身の毛がよだつ悲鳴が上がり、噛み砕かれた身体の破片が、身動きが取れずにいる人々の上にばらばらと落ちかかる。
 凄惨な光景に通りは束の間、声も無く凍り付いた。
 再び血に濡れた触手が頭上へと迫ると、幾つもの悲鳴が湧き起こった。
 野次馬で集まっていた人々も、ここに至って漸くただならない状況である事に気付き、今度は我先に緩い傾斜の通りを駆け下りはじめる。そこへ吸盤が並ぶ触手が伸び、数十人を無造作に掴み上げる。吸盤が獲物を貪る間にも、新しい触手が人々の上に伸ばされる。
 先ほどとは別種の混乱が通りに満ちた。






 ぞろりと、地面が動く。
 黒く濡れたような地面が、ぞろりと動く。
 本来そこは、薄灰色や淡紅色の石畳が連なる大通りだった。それが今や一面、石畳も、周辺の建物の壁も、その屋根も――黒く濡れて揺れるものに覆われていた。
 西下層ヴァン・ルー地区のケネック橋一帯は黒く塗りつぶされ、そしてその縁は、じりじりと滲み出すように広がり続けている。
 一見泥のように見えたが、良く見ればそれは泥などではなく、一つ一つが拳大の生き物が寄り集まったものだ。堅い甲羅を持ち左右に五対の細く折れ曲がった脚が開き、頭部に近い脚には左右不揃いのぶ厚いはさみを振っている。
 黒い群れの下にはあちこちに、逃げ遅れて群れに飲まれた者が倒れ血肉と剥き出しの白い骨を覗かせ、吐き気を催す光景を作り出していた。
 呻き声と悲鳴が聞こえる。群れは僅かな感情の気配すら見せず、黒く染まった運河から次々と這い上がってくる。
 通りの建物の壁面に取り付き、ぞろりと壁をよじ登る。建物の壁面に貼られていた煉瓦が鋏に掴まれ、脆い砂岩のように崩れる。硝子窓を砕いてぞろりと這い入り、建物の中からはあちこちで悲鳴が上がっていた。
 既に運河から二区画もの範囲が、黒い蟹の群れに覆われ、更にその染みを広げ続けていた。
 押し合いながら逃げる人々の靴音や荒い呼吸の音、泣き声と悲鳴、助けを求める叫びが入り混じり、その全てを群れの立てる渇いた耳障りな音が包む。
 三歳ほどの幼い男の子を抱えていた母親が疲労に脚をもつれさせて石畳の上に倒れ込む。子供が通りに投げ出され、火のついたような泣き声が上がった。だがその声も騒ぎにかき消されてしまう。母親は倒れたまま顔を上げ必死に助けを求めた。
「誰か……、その子を!」
 先ほどまで傍を走っていた白髪混じりの男が気付いて振り返り、駆け寄ろうとした足を、止めた。
 倒れている母親の背後に黒い群れが迫っていた。左右の建物の壁から、砂礫が崩れるように黒い塊が通りになだれ落ちる。
「その子を助けてその子を、助、っ」
 群れが倒れた母親の脚に這い上がる。金切り声が響き、子供の泣き声が重なる。
「お母さん……っ、お母さぁんっ」
 子供が蟹に覆われた母親を探そうとにじり寄る。
「ぼ、ぼうず、こっちへ……」
 初老の男は手を差し伸べて呼んだが、蟹の群れはもう男の子を飲み込む寸前だ。
「ああ……」
「おいっ、何やってんだ!」
 鋭い声と共に、恐怖に立ち尽くしたままの初老の男の背後からいくつもの塊が飛んだ。蟹の群れに落ちたそれは、煉瓦や木片、果ては使い古された鍋だ。
「爺さん、さっさとガキを拾え!」
 逃げる人々の中から飛び出した大柄の男が、手にした棍棒を群の先頭に振り下ろした。
「この野郎ッ」
 棍棒の先が堅い甲羅を捉え、砕く。路上から払い飛ばす。弾き飛ばされた蟹は腹を見せて転がり、ガサガサと音を立てた。
 その腹に足を落とし、ばりんと踏み潰したのはまた別の若い男だ。
「皆来い! こいつらを止めろ!」
 続いて二人の男が手にした鉈と剣を振り回した。
「オッさんはガキ連れて行け!」
「ガキの親がそこにいンだ!」
「早く引っ張り出せ!」
「武器だ! 剣か斧か、無けりゃ棒だって箒だって構わねぇ!」
 すぐにも二十人ほどの、どちらかと言えば余り真っ当な外見では無い男達が集まり、手にした武器で蟹の群れを払い始めた。倒れていた女を数人で引っ張り出す。
「生きてるぞ!」
「ぅ、ひでぇ……」
 なおも這い上がろうとする蟹を払い、踏み潰す。
「クソ!」
「この野郎ッ、俺等の縄張りでふざけた真似させるか!」
「油と火ィ持って来い!」
 仲間の身体が潰されるのも構わず、蟹の群れは男達の身体をよじ登る。
「うおおっ」
 慌てて身を捩る男から周りの手が蟹を払い除ける。
「誰か、火をッ」
 通り沿いの店の扉が開き、鍋を抱えた白髪の男が鍋の油を蟹の群れに撒き散らした。高熱の油が蟹の甲羅を焼く。男達の1人が火を灯したままの角灯を投げ入れた。
 そこだけ炎が立ち上がる。肌を煽る熱気の中、蟹の群が一斉に後退した。
「火は効くぞ!」
「何でもいい、油とか、燃えるモン投げ入れろ!」
 色めき立ち、男達は身に付けていた帽子や上着を投げ入れ、手近に並んだ屋台から炭の入ったままのかまどを転がした。屋台の布や柱まで投げ入れる。炎は壁となって通りを舐め、一瞬わっと歓声が上がった。
 だが後退させたと思ったのも束の間、黒い群れは炎や投げ入れられた屋台の骨組みなどの隙間を縫って滲み出した。建物の壁を這い、苦も無く炎を越えてくる。まるで意志を持った闇が、辺りを覆おうとしているようだ。
「火が間に合わねぇ! どんどん広がりやがるッ!」
「くそッ、これじゃ保たねぇぞ」
 迫り来る黒い群れに、男達は次第に一箇所に押しやられ始めた。払っても潰しても、止まる事を知らない何万もの蟹が寄せて来る。それはどう足掻いても、押し返しようのないものに思えた。
「どうする……」
「きりがねぇよッ」
「駄目だ――こんな数」
 男達の間に諦めと疲労が浮かぶ。
 蟹の群れは潮騒を思わせる音を立て、増え続けた。







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2017.1.29
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