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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』

三十一

 走り続けて息が苦しい。
 階段の先には、ぼんやりとした闇が溜まっている。
 気をつけて降りなければ足元を踏み外しかねず、けれど追いかけてくる足音がひと時も足を止める事を許さなかった。
 ずっと手の中に握り締めたままの石は、それなのに芯が手のひらにいつまでも冷えて感じられた。
(レオアリス――)
 ここに、ファルシオンの傍にいてくれたら、どれだけ心強かっただろう。
 どうして側にいなかったのかを考えても、何度考えても判らない。
 けれどきっと何か理由があったのだ。ファルシオンの傍にいられなかった理由。レオアリスもこんな事が起こるなんて、きっと思っていなかったに違いない。
 そうだ。
 だからきっと、もうすぐ来てくれる。
 そうすればもう怖い事は一つも無くなる。
 ファルシオンが右手の中の石をなおも強く握り締めた時、背後の音が大きくなった。
 石壁に跳ね返りながら、音が狭い階段を降りて来る。
「ハンプトン――!」
「お、お早く!」
 恐怖と息苦しさに心臓が跳ねる。これ以上は破裂してしまいそうだ。
 ようやく次の階の床に靴底が触れ、ファルシオンは足をもつれさせてハンプトンの服にしがみついた。膝がどうしようもなく震えて上手く立てず、ハンプトンの腕がファルシオンを支える。
「殿下、お身体は」
「だい、じょうぶ」
 見上げたハンプトンも疲れ切り、今にも倒れそうだ。ハンプトンでも怖いのだ。
 改めてそう思い、ファルシオンは周りを見回した。
 他の侍従達も怖がっている。ただファルシオンと目が合うと、皆安心させるように微笑んだ。
(私が――)
 彼女達がこんな暗い地下を怯えながら逃げているのはファルシオンの為で、本当はこんな場所にいなくても良かったはずだ。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 鼓動は早く、だがそれでも唇を決意に結んだ。震える膝に力を籠める。
(私が、まもらなきゃ)
 どれほど降りて来たのだろう。ファルシオンの館は王城の六階層にあったが、おそらくは王城よりも更に地下に降りているのではないか。
 周りを見回せば、通路はここから十字路になっていた。いずれも少し先は薄暗がりに覆われている。
 ファルシオンは顔を上げ、通路の奥を見つめた。
 正面の奥を。
「――左の道を、参りましょう」
 ハンプトンの手がファルシオンの肩をそっと押す。背後からの足音と声が一際大きく揺れ、ハンプトンの手が震えた。「お早く――」
「こっち」
 ファルシオンは正面の通路へと、糸に引かれるように歩き出した。その瞳は暗がりとは違うところを見つめている。
 淡い金色の光が、微かにファルシオンの瞳に揺れる。
「ファルシオン様? ……お待ちください!」
 ファルシオンはまるで慣れた場所のようにしっかりした足取りで進み、途中に十字路が二つあったが、構わず真っ直ぐに進んだ。
 三つ目に現れたのは、丁字路だ。そこは今までよりも天井が倍近く高かった。
 左右に広がる通路のどこかで、水の流れる音がしていた。
 そして、右の通路の途中に一つ、扉があった。
 この通路に降りて初めての扉だ。白い花崗岩で造られた両開きの扉には、四角い枠が横に二列彫られ、縦に八つ浮き彫りにされている。
 扉のそれぞれ上から二つ目と三つ目の四角い彫りの間に、王の紋章があしらわれていた。
「これは……」
 ハンプトンがおそるおそる近付き、震える声を押し出す。
 王城では見慣れていたその紋章は、この薄暗い廊下の中で、ファルシオンやハンプトン達を守る盾のように心強く感じられた。
 ファルシオンは把手に手を伸ばし、回した。鍵の抵抗もなく、扉は微かな音を立て開く。
 扉の隙間から眩い光がこぼれ、ファルシオンの上に差し掛かった。
「殿下!」
 ハンプトンは咄嗟にファルシオンを止めようと手を伸ばしたが、ファルシオンは躊躇うことなく、扉を押し開いた。
 すぐに初めの眩しさは薄れ、淡い、黄昏を思わせる金色の光が通路に溢れる。
 ハンプトンは言葉を失い、その場に立ち尽くした。
 そこは廊下よりも更に天井の高い、五間四方の広い部屋だった。白い大理石の壁が囲み、入口の扉以外、他に通じる扉は無い。
 そして、部屋の中央に、輝く一つの球体があった。
 球体は二尺ほど――成人が両腕で円を作ったほどの直径を持ち、表面は水面のように時折波紋を揺らしている。奥まで透き通って見えるが、球体の向こうは覗けない。
 それが支える台座も何も無く、微かに移ろう金色の光を放ち宙に浮かんでいた。
 球体から半間ほどの空間を置き、四つの白銀の柱が同心円を描いて球体を囲んでいる。柱は一つ一つが細い蔦が絡むような美しい細工で形造られ、上部はそれぞれ四方に開いていた。
 先端はちょうど俯く鈴蘭の花のように丸まっている。そこから黄金の光が雫になって溢れ、雫が落ちるごとに大理石の床は淡く光を帯び、吸い込まれていく。
 束の間、誰もが自らの置かれた状況を忘れ、その美しい球体に魅入っていた。
 光が増す。
 奥から湧き出た波紋が一つ、球体の表面を広がり、ゆらりと黄金の光が波打つ。
 再び球体の光は、黄昏色に変わった。
 ファルシオンは球体の前に立った。
 光をそのまま映したような黄金の瞳が、吸い込まれるように球体に注がれる。
 黄金の光はファルシオンの面を柔らかく彩り、先ほどのように時折光を増して濃い影を落とし、また淡く揺れた。
 感じていたのは、肌ではなく、心の中に染み込む暖かさだった。この球体が何の為のものなのかは判らないが、この光はファルシオンを包んでくれる。
 父王が纏う光と、同じものだ。
 揺らめきファルシオンへと届く光が、まるで父が手を伸ばし頰を撫でるように感じられた。
 ファルシオンの二つの瞳に涙が湧き上がる。
「ちち、うえ……」
 ファルシオンは球体の表面へ、右手を伸ばした。
 球体の輝きに引き込まれていたハンプトンは、ファルシオンの呟きに我に返り、幼い王子の姿と、輝く球体を見つめた。
 ファルシオンは、父と言った。
「そ、それでは……」
 ここはおそらく、安全だ。あの球体は、おそらく王が何らかの目的の為にここに置いたのだ。だからきっと安全だ。そう考える事は、この場所を恐怖から切り離してくれるようだ。
 強張っていた身体が力を失ってしゃがみ込みかけ――、ハンプトンはぎくりとして扉を振り返った。
 光が廊下に洩れている。
「っ」
 急いで駆け寄って扉を閉ざし、その瞬間、今度こそ全身から力が抜けた。
 扉に両手を当てたまま、ハンプトンはその場にしゃがみ込んだ。
 扉は鍵を備えていなかったが、この一枚を隔てるだけで全てを防いでくれるように思える。
 何度も道が分かれていたのだ。きっと追っ手はここまで追い付いて来ないのではないか。
 それに、この部屋ならば。
「ここなら……」
 突然、把手が回り、ハンプトンは悲鳴を上げた。
 把手に飛び付き、必死に抑える。
 だがハンプトンの抵抗をあっさり跳ね除け、扉は内側へと押し開かれた。
 侍従達が蒼白になって立ち尽くす。ファルシオンは振り返り、扉から現れた隊士達を、濡れた瞳を見開いて見つめた。
 初めに部屋に入ったトゥレスは、驚いた顔で室内を見回わした。その瞳を細め、ファルシオンの背後にある黄金の球体を眺める。
「これは――ずいぶんと興味深い部屋におられる」
 トゥレスが一歩近寄り、ファルシオンはじり、と後ろへ退がった。ハンプトン達がファルシオンの前に立ちはだかる。
 その蒼白な面を見つめ、トゥレスは立ち止まった。
「……王城の地下にこのような場所があるとは、知りませんでした。何の役割を果たしているものなのか、侍従長殿はご存知ですか」
 当然返る答えは無く、怯えながらも自分を睨むハンプトン達の瞳を眺めて笑うと、トゥレスはその場に膝をついた。扉の前にいた部下達もトゥレスに倣う。
「王太子殿下。お迎えに上がりました。私共とどうか、王城へお戻りください」
 ファルシオンは後退りしながら首を振った。
「――いやだ。そなたたちとは行かない」
「貴方をお守りするのが我々近衛師団の任務です」
「こ――このような狼藉を働いておきながら、今さら何を、白々しく……!」
 ハンプトンが蒼白な面で、精一杯の声を張り上げる。だがトゥレスもトゥレスの部下達も、膝をついた姿勢を崩さなかった。
「改めて申し上げます。我々近衛師団第二大隊もまた、王太子殿下をお守りする者でございます」
 ファルシオンがなおも首を振る。
「レオアリスが、守ってくれる」
「ですが、彼はどこに?」
 トゥレスの言葉にファルシオンは唇を噛み締めた。柔らかな頰が微かに震える。
「どこへ行ったのか、王太子殿下はご存知なのですか。彼は貴方に行き先を伝え御身の守護を離れる許可を求め、そして貴方は彼にそれを許しましたか」
 ファルシオンは手の中の硬い感触を意識した。確かな存在がありながら、石はいつまでも温もりを持たず、冷えている。
「――もうすぐ戻ってくる。絶対に」
「残念ながら貴方の剣士はここにおりません。そもそもあれは、王太子殿下、正しくは貴方のお父君の剣士でした」
 ファルシオンは瞳を見開き、言葉を紡ごうとして、だが何を言えばいいのか判らなくなった。
「であれば、今、この状況が、貴方が知覚されるべき真実でしょう」







 ロットバルトは霞む意識の中でなおも剣を握ろうとしたが、手に柄の感触が無かった。
 キルトが一歩踏み出す。
「三度目の忠告は、無い……」
 自分自身も負傷と疲労とに上体を揺らめかせながらも、キルトは剣を引き寄せると、両足の位置を開いた。
「我々が――我々の大将こそが、王太子殿下を守護し奉る!」
 ロットバルトは壁にもたれたまま白刃を見上げた。防ごうにも剣は手に無く、それ以前に思うように身体が動かなかった。
「お前達の大将ではなく!」
 その言葉に、ふいに怒りが突き上げる。
 視界の隅に取り落とした剣が映った。
 全身の力を振り絞り、剣に手を伸ばす。
 白刃が頭上に落ちかかった刹那――
 地響きに似た音が耳をろうした。

 大気を掴んでうねるその響きは、一瞬完全に耳を塞ぎ、だが何が起きているのかまるで掴めなかった。
 振動が全身を叩く。
 窓硝子が音を立てて震えたかと思った瞬間、内側に向けて一斉に弾けた。
 キルトの全身に、砕けた硝子の破片が襲いかかる。
 キルトは咄嗟に、振り下ろしかけていた剣を盾のごとく振った。
 弧を描く刃に硝子の破片が弾かれ、だが弾き切れない破片がキルトの身体に突き立つ。
 キルトがよろめく。厚手の軍服が辛うじて破片の切っ先を弱めたが、十数箇所に傷を負い、そこから血がどくりと流れ出した。
「――ッ」
 ロットバルトは立ち上がる事が叶わず、左腕を床に突き、落ちている剣へと右手を伸ばした。散らばった硝子片が腕を割く。
 指先が僅かに柄に触れた。
 キルトが血塗れの身体を向ける。
「……我々の――大将、こそが……ッ」
 身体を揺らし、大剣を肩に担ぎ上げる。
 その動作は緩慢だった。
「決して、お前達の、では」
「それは、違う……!」
 ロットバルトが剣を掴み、キルトを振り返る。
 一瞬の剣の交差――
 ロットバルトの突き出した剣が僅かに早く、キルトの胸を刺し貫いた。
 キルトの左手が柄から滑り、剣がロットバルトの左肩を掠めて落ちる。
 キルトは身体を揺らしながら、左手で、自分を刺し貫く剣の刃を掴んだ。
「まだだ――俺達は……」
 開いた口から血が溢れ出し、床の硝子の破片を濡らしていく。
「トゥレス、大将、こそが」
「貴方が、自らの大将を支える想いは判る」
 キルトの視線を真っ直ぐに捉え、ロットバルトは声を押し出した。
「だが、我々の大将が何の苦悩も代償も、葛藤もなく、そこに祭り上げられたと思うのなら――それは間違いだ」
「――」
 上体を傾がせ、キルトは床の上に身体ごと倒れた。
 血が止め処なく流れ、毛足の長い絨毯を染めていく。その床を伝い、複数の足音が響く。
 廊下からだ。近付いてくる。
「トゥレス大将は目の前に選択肢を並べた時、破滅の方により心を向ける質だ。貴方も副将として支える立場なら、彼の力を別の道に導くべきだった」
 キルトは瞳を上げ、熱を帯びたそれをロットバルトへ据えた。
「そう、だ……あの人は……。――お、れは、後悔、しては、いない」
 血の溢れる口元が笑みを刻む。
 その笑みはどこか満ち足り、彼こそがこの場の勝者のようだ。
「お前、の、支える、将……が、破滅を……選ぶ、ならば――」
 吐き出す言葉は時折掠れ、次第に弱く、力を失っていく。
「お前もそれに、倣う――だろう……」
 ロットバルトは束の間、キルトの瞳の奥を見た。
 そこにある色を。
「――それを望むのなら、そうかもしれないな」
 微かな笑みを返し、ロットバルトは深く、息を吐いた。
「ただ――、選ばないと思いますよ」
 それが、幸福であるかどうかはともかく。
「――」
 庭園が一瞬、騒がしさを増す。
 キルトは瞳を見開き、その音に耳を傾けた。
 恐怖を孕んだ、その響き。
 庭園に何が起きているのか、この場所からは見えない。
「トゥ、レス、大将……」
 キルトの指先が絨毯を掴み、血の帯を引きながら身体を引きずり、廊下の奥へと這った。
 ただ身体はどれほども進まず、次第に長い毛足を掴む指先から力が失われていく。
「大……」
 吐き出す言葉はもはや音にならず、代わりに溢れた血が床に新たな血溜まりを広げる。
 そこだけ、時が止まったように静かだった。
 腕は前に伸ばされたまま、瞳は光を失い、だが真っ直ぐに前へと据えられていた。
 上下していた背中の動きが止まる。
「――」
 ロットバルトは束の間俯せの横顔を見つめ、それから立てた膝に手をついて、まだ力の戻らない上体を起こした。
(……今のは、何の音だ)
 庭園で何が起こっているのか――現状と、その対応は。
 考えなければならないが思考すら億劫だ。
 廊下で響く足音が近くなる。
 耳慣れた声が名を呼んだ。
「ロットバルト!」
 室内に駆け入ったのはグランスレイだ。その後に続く第一大隊隊士と、その向こうの廊下を隊士達の列が通り過ぎていく。
 第一大隊へ隊士を走らせておよそ、一刻弱――これを間に合ったと言えるかどうか、ロットバルトは肺の奥に溜まっていた息を吐いた。
 気が抜けかけた瞬間、傷が痛みを訴え、呻きを堪える。
 グランスレイは倒れているキルトへ一度視線を向け、ロットバルトの傍らに膝をついた。素早く傷を検分し、背後を振り返る。
「エンティ、治癒を」
 灰色の長衣の被きを背に落とし、第一大隊の法術士長エンティがすぐに詠唱を始める。グランスレイはそれを確認してから再びロットバルトへ顔を戻した。
「状況は」
「王太子殿下は、フレイザー中将とハンプトン侍従長と共に、学習室から緊急時の避難路を用い、王の館へ向かわれました。既に半刻は過ぎたと思われます。充分な護衛は無く、無事入られたかは掴めません。トゥレス大将は、学習室に気付きました。それは四半刻も経ってはいないはずです。感覚ですが」
「至急追わせる」
 グランスレイの指示で控えていた中軍少将が踵を返す。
「それと、庭園の状況が、不明です。飛竜が入ったと――それから、あの音をお聞きになりましたか」
「聞いた」
 グランスレイの面は硬く強張り、今は不気味に静まり返っている窓の外へ向けられた。夜の闇しかここからは見えない。
 だが、張り詰めた緊張が肌を震わせるほどだ。
 何かが、そこで起きている。
「――司法と第三が第二の本隊を抑えた。第三は飛竜を出している」
 頷き、ロットバルトは痛みの引いた左腕へ、首を傾けた。
「――上将は」
「カイを送ったが、戻っていない」







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2017.9.24
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