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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』

三十

 閉じた書棚の向こうの学習室は、束の間、一切の音が断たれたかのように物音を伝えなかった。
 辺りは真っ暗で、誰もが息を殺し、肩に置かれたハンプトンの手の温もりがなければ、ファルシオンには自分がいるのかさえ判らなかった。
 けれど、束の間の静寂はあっさりと消え失せ、すぐにくぐもってはいるが大きな音が書棚を挟んで身体に響く。足音と、叫び声。
 すぐそばで誰かの押し殺した息を飲む音が微かに耳を捉える。
「殿下、奥へ……っ」
 震える手が暗がりで肩を促す。ハンプトンだろう、としか判らない。手のひらはぐいとファルシオンを押しやり、目の前の闇に飲み込まれてしまいそうで、ファルシオンは首を振り後退あとずさりした。
「いやだ……」
「殿下、陛下のお館へ参りましょう。何も怖いことはございません」
 ファルシオンの背中をさすり、ハンプトンは顔を近付けて囁いた。そこまで近付くと、ようやくお互いの顔がぼんやり見える。
「殿下――私どもがおります、さあ」
 書棚の向こうから短い叫び声が漏れ伝い、侍従達が微かな悲鳴を飲み込み身を縮めた。
「殿下」
 ハンプトンの声が不安を堪え、ファルシオンを促す。
「ファルシオン様、さあ――わ、私どもが、お守りいたしますゆえ」
 震えながらも努めて柔らかく押し出された声を聴き、ファルシオンは唇を噛みしめると、手にしていた石をぎゅっと握り締めた。
 自分が行かなければ、ハンプトンも、侍従達も誰も逃げられないのだ。
 ここには一人の警護官も無く、いるのは女達ばかりだ。
 恐怖を堪え、ファルシオンは一歩、足を踏み出した。
 通路はすぐ先で、狭い階段が下の暗がりに向かって伸びている。
 階段を一段降りたところで、周囲の様子がぼんやりと見て取れるようになった。どうやら壁の所々に、申し訳程度の明かりが灯っている。揺らぐ事もなく、それは石組みの壁の所々がぼんやりと光っているようだった。
 僅かな灯りの中でハンプトンの顔が強張っているのが判る。だがファルシオンが階段を降り始めると、ハンプトンはさっと自分が前に出て、先に立って薄暗い階段を降りた。
 階段は下へ、下へと降って行く。それを始めは恐々と、だがすぐに、背後から漏れる音に押されるように足を急かし、ファルシオンとハンプトン達は駆け下りた。誰かの啜り泣きと呼吸の音が時折耳を掠める。
 三階分ほどを一気に降ったのではないかと思える頃、新たな階に着いた。階段よりも僅かに明るい。降りたそこから右に、通路が伸びている。
「こちらへ、殿下――」
 ハンプトンは侍従官服の長い裾を持ち上げ、通路を駆け出した。
 息を切らし、本当に出口があるのかも疑わしい狭く暗い通路を抜けて行く。
 だがすぐに、一番前を走るハンプトンの足が止まった。
「ハンプトン――?」
 ああ、とハンプトンが息を飲む。
「どうしましょう、どちらに」
 通路が突き当たりになり、左右に分かれていた。
「侍従長……」
「大丈夫、大丈夫です――」
 息を弾ませながら、ハンプトンは低い天井を見上げた。
 ハンプトンは侍従長として任を受けた時、この通路の存在と、順路を聞いた。必ず左を選び、階段を降る。だがそれは、王城の外へ至る順路だ。
 今目指しているのは王の館だった。
 自分達がどう走ってきたか――王城東棟にあるファルシオンの館から見て、南西の王の館は王城の中心を見て左側にある。単純に考えれば左の通路が王の館へ続いているはずだ。
 けれど、階段はどちらを向いていたか。
 反対を選んでしまったら。
「どちらを……」
 ハンプトンの震える声が、決めかねて呟く。
 壁を見回しても答えはなく、自分達の荒い息遣いだけで、他に音は無い。
 どれだけ離れたのか、学習室からの音も聞こえなかった。
「左――いえ」
 一度、角を曲がらなかったか。
「右……?」
 呟いた時、くぐもった音が遠くから伝わった。
 何か重いものが擦れる音だ。
 それから、声。壁に跳ね返りながら重なり合うように落ちてくる。
「じ、侍従長……!」
 書棚の入口が開いたのだと判った。
 薄れかけていた恐怖が一瞬にして通路に満ちた。







 第二大隊の隊士達の足音がファルシオンの館の廊下に、突然の驟雨に似た音を鳴らす。
 その群れに打ち掛かるハースや警護官達は、あたかも濁流に呑まれる流木のようだ。
 その第二大隊の中に見え隠れする、灰色の長衣。
 法術士――
『他にも、王太子殿下を欲しいというお方がいてな』
 トゥレスを追おうと身を返しかけ、ロットバルトは唸る音に咄嗟に身体を捻った。喉元を切っ先がよぎる。
 構えた剣の向こうで、キルトが隊士達との間に阻むように立った。
「残念だがヴェルナー中将、ここは大将から俺が任されたんでな」
「――役不足では?」
 再び繰り出された斬撃へ、ロットバルトはほぼ同時に踏み込んだ。
 剣撃はロットバルトが速く、だが横薙ぎに撃ち込んだ剣をキルトの剣が迎え撃ち、弾く。
 腕に響いた重量に奥歯を噛んだ。
 キルトは跳び退りつつ、足元から剣の刃先を掬い上げるように跳ね上げた。咄嗟に柄を離したロットバルトの左腕を切っ先が掠める。
 分厚い剣を軽々と返し、一呼吸も無く、キルトは頭上から剣を斜めに振り下ろした。ロットバルトが躱した直後、その奥の大理石の化粧壁に長く亀裂を刻み、足元を撃つ。
 ロットバルトは間合いを取り剣を構え直すと息を吐いた。トゥレスの剣で受けた傷の抱える痛みと流れる血が、どうしても動きを鈍らせる。
 何より、叩き割る事を重視したキルトの剣と力で撃ち合えば、剣は容易く折れそうだ。剣身の差はおよそ拳二つと大きく、そしてキルトの剣撃はその重量を感じさせず速い。
 視界に入る廊下には目に入っただけで二人、警護官が倒れている。剣撃の音はまだ聞こえるが、既にまばらだった。ハースが壁に凭れ俯せている。ラインとザガの姿はおそらく、無い。
 トゥレスを追ったのか、それとも。
 互いの剣が足元で噛み合う。
 上から押さえ込んでいるはずのキルトの剣が、ロットバルトの剣を僅かずつ、押し返す。
 キルトは薄青い夜の中でも光る瞳をロットバルトに据えた。
「諦めろ、ヴェルナー中将。庭園も飛竜隊が入っている。庭園へ逃げたとしても、王太子殿下を我々が保護するのは時間の問題だ」
(飛竜――居城へ、飛竜まで出すとは)
 先ほどの混乱の響きはそれだろう。
 トゥレスの戦術は周到で、大胆だ。
 庭園へ出たフレイザー達がどうなったか――ファルシオンは身を隠す事ができたのか、今、知る術は無い。
 キルトの剣を抑える腕に力を籠める。
「――どれほど手を尽くしても、優勢を得るのは一時のみでしょう。結局第二大隊の得る結果は変わらない」
 キルトの剣を押さえていた力を、僅かに左へ傾ける。上へ押し切ろうと力を込めていたキルトの剣が流れた。
「!」
 キルトの上体が支えを失って泳ぐ。
 ロットバルトはキルトの剣に沿って刃を走らせた。キルトが首を捻り、振り抜いたロットバルトの切っ先がその頬を掠め、切り裂く。
 キルトは顔を歪め、よろめきかけた身体を、右足を床に突いて支えた。その足を反動に、左肩に体重を乗せ突き出す。体重の乗った肩を胸に受け、ロットバルトの身体が弾き飛ばされた。
 一瞬呼吸を失ったロットバルトへと、キルトが踏み込む。
「それでも我々が……」
 迫るキルトへ、ロットバルトは奥歯を噛みしめ、剣を薙いだ。
「――我々が、勝利する!」
 キルトは叫び、ロットバルトの剣を弾き上げた。
 振り上げた剣を叩き下ろす。
 ロットバルトが斜めに踏み込み、大剣の斬撃を剣の背で受け、同時に僅かに傾けて流す。
 鉄同士の軋る高い音と共に、ロットバルトは間合い深く入った。そのままキルトの右脇腹へ、剣を撃ち込む。
 刃が脇腹を捉えた瞬間、キルトの左拳がこめかみを撃った。
「……ッ」
 視界がぶれる。
 キルトはその手でロットバルトの軍服の襟を掴み、壁へ叩き付けた。上半身を叩いた衝撃に、ロットバルトの手が緩み、剣が落ちかかる。
 追い撃ちを入れようと剣を振り上げたキルトが、右脇腹に走った痛みにごく僅か、動きを止める。
 剣はロットバルトの足元に落ち床を削った。
 ロットバルトは剣を掴み、右足を跳ね上げた。剣を持ち上げかけたキルトの腹部に蹴りを叩き込む。キルトが呻き、切っ先を床に引きずりながら二、三歩後退する。
 白刃が疾る。キルトの首筋へ――キルトは身体を捻り、左肩で受けた。刃は肩に深く入り、飛び散った血が床を濡らす。
 ロットバルトは追い撃とうとして、まだ消えず纏い付く眩暈に一歩、よろめいた。その背中が壁に遮られる。
「ォォおッ!」
 キルトが叫び、大剣を担ぎ上げ、叩き下ろす。
 ロットバルトを捉えかけた剣は、だが僅かに逸れ、その背後の壁――扉を叩いた。
 扉が内側に弾け、寄りかかっていたロットバルトはその中に倒れ込んだ。
 傷を負った左肩が床に打ち付けられる。ロットバルトは呻きをこらえながらも、無理矢理身を起こした。噛みしめていた歯の間から息を吐き、素早く周囲を見回す。
 来客がファルシオンとの面会を待つ為の、控えの間だ。壁の上半分に嵌った広い窓硝子が青い光を滲ませ、部屋に置かれた椅子や低い卓の影を浮かび上がらせている。
 庭園は静かだった。
(殿下は――)
 隠し通路に入ったとして、どれほど経っただろうか。その傍に護衛がどれほど残ったか。
 自分がここへ戻って――どれほどの時が経ったか。
 レオアリスが、ここを出て。
 戻るまでには、あと。
 目前に迫った剣を躱して膝を立て、剣を薙ぐ。剣が撃ち合う軋る音が、さほど広くない控えの間を圧して響く。キルトは室内に踏み入り、足元の邪魔な椅子を蹴り飛ばした。
 何度目か、撃ち合わせた剣が互いの正面で噛み合う。
 一瞬静まり返った部屋に荒い呼吸が流れる。
 キルトの大剣が、ロットバルトの剣をじりじりと押し込む。互いに血を滴らせ、間断ない痛みと傷が帯びる熱に肩を揺らす。
 キルトは剣に込めた力を抜かず、低く押し出した。
「もう一度だけ言う、諦めろ」
 ロットバルトはそれに答えず、キルトの両眼を見据えた。
「トゥレス大将は――、貴方がた第二大隊は、別の舞台も選べたはずだ」
「……別の舞台?」
 キルトの瞳の奥底に、じわりと怒りが灯る。
「別の舞台など無い。我々にはそれは、いつ、どの状況においても、与えられはしなかった……!」
 廊下の先で、学習室だ、と声が上がった。
 ロットバルトとキルトは同時に声のした廊下へ視線を走らせ、一瞬早くキルトが視線を戻した。ロットバルトの瞳を捉える。
「そこか」
 ロットバルトの剣を押し切ったキルトの大剣が、身を躱した先にあった卓を真っ二つに断ち切った。
 キルトは床を穿った剣を杖代わりに身体を捻り、左から踏み込みかけたロットバルトの脇腹を蹴り飛ばした。
 窓際の壁に叩きつけられ、一瞬、意識が飛ぶ。
 窓の下に倒れ、霞む意識の中でなおも剣を握ろうとしたが、手に柄の感触が無かった。
 キルトが一歩踏み出す。
「三度目の忠告は、無い……」
 自分自身も負傷と疲労とに上体を揺らめかせながらも、キルトは剣を引き寄せると、両足の位置を開いた。
「我々が――我々の大将こそが、王太子殿下を擁し、守護し奉る……っ」
 キルトが剣を担ぎ上げる。
 ロットバルトは倒れたまま、視線だけをその白刃に上げた。
「お前達の大将では無く!」

 耳に響いたのは、咆哮だった







 何度目か、剣を弾き、斬り交わし、フレイザーはそれでも学習室のある方向へだけは、視線すら向けなかった。
 腕や脚、肩に受けた傷が痛み、血を流し続けている。双剣の一振りは折れ、投げ捨てた。
 対する第二大隊中将カスパーもまた負傷を免れていなかったが、それでも既に勝敗は決していた。淡い月の光に浮かぶ庭園には、フレイザー以外には第二大隊の隊士達の姿しかない。
 カスパーが剣を正面から突き付ける。
「……フレイザー中将、もう一度聞く。王太子殿下はいずこに」
「答えることは、何もないわ」
「今立っているのは中将、貴方だけだ。だが我々はまだ、援軍を残している」
 その言葉に応えるように耳が捉えたのは、幾筋もの旗が風を打つような――飛竜の羽ばたきだった。
 カスパーの肩越しに空に目を向け、フレイザーは息を呑んだ。
「……飛竜隊――」
 庭園の向こうの空に、新たな飛竜の編隊が浮かんでいた。およそ十騎――黒鱗だ。
 胸の内を重苦しい塊が埋め、フレイザーは唇をきつく引き結んだ。
(ここまで――)
 最早これ以上、第二大隊の侵攻を妨げる事は不可能だ。
「来たか」
 援軍の到着に力を得て振り返ったカスパーは、だが、一呼吸置き、掠れた声を上げた。
「――だ、第三大隊……!」
 フレイザーの存在すら忘れ、カスパーが身を返す。
「何故、第三が!」
「第三……?」
 予想外の驚きに見開いたフレイザーの瞳が、中央の一騎にセルファンの姿を捉える。
 カスパーは自らの乗騎に駆け寄り、飛び乗った。
「上がれ! 奴等を墜とせ!」
 混乱が走りながらも、庭園に降りていた二十騎の内半数近くがカスパーと同様に再び中空に浮き上がる。その上へ、第三大隊の飛竜が迫る。
 翼と剣が交差する。
 第二大隊と第三大隊の黒鱗は擦れ違い、双方再び空に舞い上がった。
 遅れていた第二大隊の飛竜が空へと駆け上がる。
 到着した第三大隊は一編成十騎、対する第二大隊は二十騎が、風を煽り、空に浮かんだ。
 飛竜の背に騎乗したまま、セルファンは第二大隊の飛竜隊と庭園を見下ろし、声を張り上げた。
「大将トゥレスはどこか!」
 セルファンの声が張りつめた空気を圧し、庭園に落ちる。
「第二大隊の本隊は押さえた。お前達にこれ以上の増援は無い!」

 その時――風が唸りを上げた。







 ハンプトンは全ての息を吐き出し、選んだ。
 左。
 ハンプトンとファルシオン、そして四人の侍従達の足音に重なるように、背後から硬い足音が床を伝って響いてくる。
 姿の見えないそれがより一層の恐怖を煽り、追い立てられ、ハンプトン達は暗がりに足を取られる不安も忘れて走った。
 再び曲がり角が現われる。今度は右へと折れているが、他の分岐は無い。
 背後の声と足音が近くなったように思える。
 ハンプトンはファルシオンを促し、また走った。
 もう一度、曲がり角だ。また、右へ。
 曲がった途端、正面に、ぽっかりと更に黒い淵が口を開けていた。
 立ち止まり、ハンプトンは瞳を後悔に見開いた。
 階段だ。
 降っている。
「降り――」
 初めの分岐を右だったのかもしれない。それとも他の道を見落としていただろうか。
 けれど、これが正しい道ではないとも言い切れないのだ。
 考えても答えは見出みいだせなかったが、いずれにせよ、引き返す道はなかった。
 次の階までまた二階分ほどを降りたところで、今度はまっすぐ続く通路が現われる。
 追い掛けてくる声と足音は、途切れる事なく続いていた。








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2017.9.10
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