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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』


 七つ目の鐘の音が遠く余韻を引き、謁見の間に注ぐ朝の光に溶ける。
「――刻限だ」
 内政官房長官ベールは短くそう宣言すると、謁見の間に置かれた楕円の卓に座る顔触れを見渡した。
 それは昨日、東方公不在のまま協議を始める為にベールが口にしかけた言葉であり、その時は口に出さないまましまわれた言葉だ。
「全ての者が揃った訳ではないが――我々には時間が無い。協議を始めよう」
 この瞬間にも扉が開くのを期待した視線が、音の無い落胆と不安と共にベールへと戻される。
 二つの空席――東方公ベルゼビアと内政官房副長官ヴェルナーの二つの空席は、天窓から降り注ぐ白々とした光にくっきりと浮き上がっている。
 一つの空席は物言わぬだけで明確に突きつけられる意思のように思え、そしてもう一つの空席は、足元に口を開けた深い穴のように思えた。



 自分に幾つもの視線が注がれるのが判る。ロットバルト自身、その空席は他の何よりも想定外だった。
 今回の朝議が単なる状況確認ではなく、西海への対応を決断する場であり、いわば国の方向を選択する場になる事は昨日から既に明らかだった。
 内政官房官の席へ目を向けても、反対に問い掛けを含んだ狼狽えた視線が返るだけだ。
(――この場に穴を開けるほどの理由、要因)
 それは何か。
 廊下へ続く両開きの扉は、僅かも動く気配が無い。
 ロットバルトは再び前方の空席に視線を移した。
 初めに西方公の席が欠けた。そして今この、東方公、そして内政官房という国政中枢の一角であるヴェルナーの空席は、どこまで意味を持つだろう。
(少なくとも一方は、一時的とは考えにくい)
 ベルゼビアの意思の行方がどこに向かうのか。
 アスタロトの能力の消失。
 王の不在。
 打ち鳴らす鐘の裏の這い寄る静けさで――確実に、この国の中枢は歪み始めている。
(――もう一つ――)
 ファルシオンの斜め後ろに、レオアリスが控えている。
 飾り窓から落ちる淡い朝の光がその面に微かな陰影を与えてはいるが、身の内に今、何を抱えているのかを窺わせるものはない。



「昨日、緊急の協議において我々はいくつかの選択をした。まずは、現在の状況を明確にしたい」
 重苦しい空気の中、ベールは口をつぐみ、もう一度楕円の卓を囲む者達を見回した。
 王太子ファルシオンを中心に、二重に置かれた楕円の卓の一列目、左側にベール、アスタロト、財務院副長官ゴドフリーが座り、正規軍副将軍タウゼンと参謀長ハイマンス、東方将軍ミラー、南方将軍ケストナー、西方将軍ヴァン・グレッグ、北方将軍ランドリーが座る。
 右側にはスランザール、法術院長アルジマール、地政院副長官ランケ、近衛師団副将ハリス及び第一大隊副将グランスレイ、第二大隊トゥレス、第三大隊セルファンが座っている。セルファンはイスで負った負傷が重く、直前まで法術院での治癒を受けていた。
 外側の席には内政官房や地政院など各部署の補佐官が座る。
 レオアリスは一人、ファルシオンの斜め後ろに控えて立っていた。
 およそ四十名、それだけの人数がいても誰一人口を開かず、ベールが次に口にする言葉が何か――それを待っている。
「まず、西海へは昨夕、アレウス国として勧告を行い、この七刻までに回答を求めた」
 求めたのはボードヴィル及び一里の控えからの即刻の兵の退去、王の安否確認と即時帰還、そして両国間の再調停の場の設定だ。
「現時点で、西海からの返答は無い」
 ぐっと息を飲む気配が張り詰めた空気に伝わる。
 それは半ば想定できていた結果だった。だがほとんどの者は、その結果を何とか避けられればと願っていただろう。
 七刻までに西海から返答が無い場合、十刻を以て宣戦を布告、そして正午、十二刻には、西海軍への攻撃を開始する。それが昨日のこの場で定めた国としての意思であり、今、この卓に載せられているのは、まさにその決断に他ならない。
 タウゼンが溜めていた息を吐き、眉根に深い皺を刻んだ面をベールと、スランザール、そしてファルシオンへと向ける。
「――では、西海への勧告どおり、十刻を以て宣戦布告となりましょう」
 一瞬、静寂が落ちた。そこに含まれた緊張から、静寂が耳を衝くようだ。ファルシオンが青ざめた瞳をベールへ向ける。
「――お待ちください」
 片手を上げたのはゴドフリーだった。
「いま一度、熟考すべきではないでしょうか」
 ゴドフリーの発言に、財務、地政院の主に文官達が不安げに頷く。タウゼンはゴドフリーと向き合い、言葉を強めた。
「西海は勧告を無視し、そもそも内陸のボードヴィルへも兵を進めております。我等が国土においてこれほどまでに好き放題している相手に対し、この期に及んで出した結論が未だ様子見では、それこそ奴等の無法な侵攻を言外に認める事になりましょう」
「そうは言うが、西海との全面戦争となると、簡単な話ではない」
「ご懸念は分かります。しかし、昨日より西海が一体何をしてきたか――ゴドフリー卿にもお分かりのはず。目を瞑るべきではございません。西海に対話をする気が一切無いのです。強硬な手段を以ってしても、まずは西海軍をバルバドスへ押し戻さねばなりません」
 ゴドフリーがやや疲労の滲んだ壮齢の面に眉を寄せる。ゴドフリーとしても現在の状況が開戦やむなしと解った上で、それでも回避の手段は無いのか、昨日からずっと考え続けていただろう。
「タウゼン殿のおっしゃる事は理解している。しかしせめて陛下の安否が定かになるまでは、もう少し様子を見た方が良いのではないか」
 数名の視線がファルシオンへと動き――それから、その後ろにいるレオアリスの姿を素早く窺った。
 昨日、王の身について否定的な発言をしたベルゼビアに対し、レオアリスが見せた怒りは、身を裂く刃のように感じられた。
 スランザールが止めなければ、そのままベルゼビアを切り裂いていたのではないか、と。



 ロットバルトは離れた場所に立つレオアリスを確認し、微かに息を吐いた。前に座るグランスレイと目が合う。グランスレイの瞳にも同じ安堵と、懸念がある。
 レオアリスの様子は、今は普段とそう変わらないように見える。
(見えるだけだ)
 変わらない訳がない。
 その事がより、懸念に拍車をかけていた。
 正直に言えばロットバルトには、レオアリスの状態は判らない。
 剣を一振り失い、それが齎す苦しみや苦痛が一体どれほどのものなのか、測りようがない。
 そして現実に、どれ程の影響があるのか。
(バインドは剣の回復に、それこそ十七年近い年月を要したはずだ)
 レガージュのザインは短期的な眠りを繰り返している。
(剣を損傷した剣士は、回復の為に眠りを必要とする――過去の例から見てもそれは間違いではないだろう)
 ではレオアリスはどうなのか。
 失われたのは、二対の内の一振りだ。例外になるか。
 身体的な問題だけではない。
 剣を失った事が意味するものを、レオアリスがどう捉え、何を思い、どう咀嚼しているのか――
(測りようのないものを想定しようとするのは、無意味か)
 今必要なのは、状況を斟酌できる者が第三者としての視点で、脆い足場を支え周囲を見渡す事だ。
 まずはせめて身体を休ませたい。昨夜はファルシオンの館の中に寝所を用意されたが、おそらく殆んど眠ってはいないのは判った。夜の内に無理にでも身体を休めるよう、昨夜アルジマールに対処を依頼すべきだった。
 いっそのこと、剣の眠りが訪れる方がいいのかもしれない。
(――いや)
 それはいつ目覚めるか、保証がない。剣の眠りとは、自らの意思では左右できないものなのではないか。
 この緊急事態で、レオアリスがファルシオンの側を離れることは難しい。
 その考えに、ロットバルトは口元を歪めた。
(どこまで――)
 一つだけ今回の利点を挙げるとすれば、ファルシオンの傍にレオアリスがいる事に、異論がないという点だ。一度も議論の俎上に載っていない。
 王が予め、レオアリスをファルシオンの守護と定めていたからだ。
 そうでなければ、誰をファルシオンの守護に付けるか、恐らくその議論だけで長時間を要していただろう。
 ただそれを単純に良しとは、ロットバルトには思えなかった。
(――王は、それをも踏まえて今回の配置をされたのか)
 王にはこの流れが全て見えていた。
 その為に不測の事態であってもレオアリスが混乱なくファルシオンの側に付けるよう、早い段階から道を敷いていた。
 それは取りも直さず、王が自身の結末を定めていたという事だ。
 レオアリスにとって、その王の決断がどれほどの苦しみを齎すものであるか。
(王は、お考えになったのか――)
 僅かでも。



「ゴドフリー侯爵、西海との戦争を回避したいのは、我々としても本音の部分では同じです。しかし西海はそうは思っていないのです」
「この場にはベルゼビア公爵も、ヴェルナー侯爵もいらっしゃらない。国家の重要事を決定するには、いささか」
「七刻までに返答がない場合については、昨日の協議において両名がおられるところで決定しています。ここでまたそれを蒸し返しては、いつまで経っても結論は出ません。その間にも西海は、平然と我らの土地を侵食し続ける。それで良いのですか」
「良い訳がない、しかし」
「ゴドフリー卿、お言葉ですが」
 南方将軍ケストナーが立ち上がる。
「西海へ勧告した内容は、決して生半可な決意で臨んだものではございませんぞ。一度意思を翻せば、この先弱腰と侮られ、以降のどのような交渉においても対等な立ち位置を失うでしょう」
「軍部は好戦的過ぎる」
 ポツリと上がった呟きに、ケストナーが憤りを露わに卓を見渡した。
「今のご発言はどなたか――」
 怒りに顔を染め、卓に手をつきぐっと身を乗り出す。
「弱腰こそが、この国を」
「落ち着け、ケストナー」
 低い声が割って入り、ケストナーはさっと口を閉ざしてタウゼンを見た。列席者達の目も再びタウゼンに集まる。
「熱くなってはそれこそ議論にならん」
「し、しかし」
 ケストナーを目線で制し、タウゼンはケストナーに代わるように立ち上がった。
「開戦を宣言する事は、確かに国を揺るがす事態です。それを憂える想いは軍部も同じ」
 ですが、と、タウゼンは言葉を継いだ。
「国の混乱を憂慮した上でなお、我が国がこれ以上西海の行為を見過ごすべきではないと、申し上げます。それだけは――すべきではない。ボードヴィルには、昨夜」
 タウゼンは双眸鋭く、文官達を見据えた。
「ナジャルが出現しています」
 謁見の間が水を打ったように静まり返る。
 次に、喉の奥から息を押し出す掠れた響きが文官達の間から漏れた。
「ナジャル――」
「まさか」
「何かの間違いでは」
「――西方第六、七大隊は」
 タウゼンの声が更に低くなる。
「兵三千五百名中、およそ三百名が――ナジャルに喰われ、失われました」
 今度こそ、一切の音が消えた。
 天窓から落ちる光は次第に明るさを増して差し、楕円の卓の中央に落ちたそれが卓に座る者達の目を眩ませる。

 ふと――

 ファルシオンと、アルジマール、そしてレオアリスが同時に視線を上げた。
 タウゼンの声が微かな残響を呼ぶ。
「西海からの返答、そもそも対話など、初めから期待できる相手ではなかったということです。我が国は――」
『いいや。今ここで返答しよう』
 心臓を掴まれる感覚があった。
 視線が、楕円に置かれた卓が囲む空間に集まる。
 天窓から一筋の光が落ちるそこに、男が一人、立っている。
 誰もが一瞬息を呑み、不意に現われた男をただ、見つめた。
 降り注ぐ白い光の中に在りながら、深い闇が形を成したかのように思える。
 それは男だと判るが、ただ闇でもあった。
 赤々とぬめる血の深淵を抱えた闇だ。
 謁見の間は、今にも、その闇に向かい滑り落ちていくように思えた。

 乾いた音が鳴った。

 レオアリスが楕円の卓に手をつき、飛び越える。
 手のひらが卓を打った鋭い音に、それまで闇に呑まれていた列席者達の意識が、弾かれたように戻された。
 レオアリスがファルシオンを背に、男と向かい合う。その身体を、青白い陽炎が取り巻き立ち上った。
「レオ」
 ファルシオンが伸ばしかけた手を、握り込む。
 闇は、男になった。
 年齢は全く想像がつかない。百年も経た老いた男のようにも見え、青年のように若くも見える。身の丈は六尺を越え、足首まで流れる濃い灰色の長衣に包んでいる。
 細く冷酷な面、髪は赤味がかった銀。
 双眸は同じく、血を滲ませたように輝く銀――
 タウゼンを始め楕円の卓を埋めていた正規軍、またグランスレイやトゥレスが椅子を蹴立て立ち上がる。だが、咄嗟に腰へ伸ばした手は、空の剣帯を掴んだ。
 ファルシオンの前で、剣を帯びていないのだ。
 タウゼンが近衛師団副将ハリスを呼ぶ。
「衛兵を」
「投影だよ、諸兄」
 アルジマールがかずきで隠した頭を巡らせた。
「でも安心できる代物じゃないけどね」
 やや緊張と、それ以外の何かを帯び、アルジマールはぐいと唇を引いた。
『さて――』
 声は低くく、愉悦を滲ませ、一欠片の情さえ感じさせないほど冷酷だった。
『珍しき地上の王宮にて、浴びるほどの歓待を受けたいものだが――』
 男は自分を囲む楕円の卓を、ぐるりと見回した。
『これだけでは腹の足しにならぬ』
 舌舐めずりを思わせる響きだ。
 ベールが立ち上がり、男を見据える。
「名を名乗られよ、西海の使者よ」
 誰何への答えは傍らの卓から返った。
「――ナジャ、ル」
 よろめくように立ち上がったアスタロトが、真紅の瞳を見開き、唇を震わせた。
「ナジャル――?!」
 ケストナーが呻く。
 ナジャルの双眸がアスタロトへ向くと、アスタロトはびくりと身体を震わせた。
『無事戻れたようだな、娘。その通り――ナジャルとは、我を呼ぶ名のひとつであろう』
 ナジャルの口の端が吊り上がり、二対の牙が剥き出しになった。
『我を呼ぶ名は、幾つか憶えている』


横たわる者ドゥイール


うねり喰らう者リヴァグィエル


海を呑む者ナジャル



『この国にあっては、地を呑もうか』









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2016.12.4
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