二十六
「殿下、ファルシオン殿下!」
身体を揺り動かされ、ファルシオンは薄っすらと眼を開けた。
身を起こし、自分を覗き込むハンプトンの顔をぼんやり見つめる。
「どうしたの……?」
すぐに邸内の騒がしさに気付き、ファルシオンは驚いた顔で暗い室内を見回した。
「あの音はなに?」
ファルシオンの脳裏に咄嗟に蘇ったのは、半年前の冬の夜だ。銀の月が空に輝いて、庭園に大勢の警護官達が倒れていた。
「ハンプトン」
「大丈夫ですわ。陛下の館へ参りましょう」
ハンプトンは優しく、しかし急いでファルシオンを寝台から降ろし、寝間着の上から外套を羽織らせた。
「さあ、お靴を」
訳も判らないままに、それでも差し出された靴に足を入れながら、ファルシオンはまた室内を見回した。ハンプトンともう一人の侍従セレスがファルシオンの横にいて、扉との間にも、寝る前にもいた五人の侍従が立っている。
けれど一人、いない。
「レオアリスは――?」
ハンプトンは束の間口ごもり、答える代わりにもう一度ファルシオンの背に手を当て促した。
そこに扉が開かれ、ハンプトンが表情を強張らせたが、入って来たロットバルトとフレイザーの姿にほっと息を吐く。
フレイザーが戸口に留まり、ロットバルトは真っ直ぐにハンプトンに近寄った。夜の淡い蒼の中で互いの姿も朧に浮かぶ。それでもロットバルトの表情の厳しさははっきりと見て取れた。
「正面玄関はもう使用できません。ハンプトン殿、他に通路はありませんか」
ファルシオンを囲んでいた侍従達から息を飲む音が漏れる。ハンプトンは何度も瞬きを繰り返し、首を振った。
「王の館へ行く為には、正面玄関を通らなくてはなりません」
「この人数では押し通れない。他には」
ロットバルトの返しは容赦無く響き、ハンプトンは息を飲み込むと一度顔を伏せたが、すぐに顔を上げ震える声を何とか押し出した。
「ひ、一つ、通路が――ございます。古い隠し通路で、私も入り口を確認しただけで奥まで行った事はございませんが、退避の為と聞いています」
「では護衛を付けます。王太子殿下をその通路へ。入り口はどこに?」
低い声は抑えられているが、確かに緊張を帯びている。
「学習室の、書棚の奥です」
ロットバルトは視線を上げ、扉と庭園への硝子戸を確認した。動線と距離を測り、眉根を寄せる。
学習室へは一度廊下か庭園に出なくては行かれない。
視線を扉の前に立つフレイザーへ戻す。この寝室にいる護衛はフレイザーと隊士二班八名、警護官が六名、そしてハンプトン等侍従達七名だ。
「フレイザー中将、警護官達と隊士三人で殿下の守護を」
「判った」
「その時間、廊下は抑えます。残り一班は私と廊下へ」
「ロットバルト」
ファルシオンが手を伸ばし、ロットバルトの手を引いた。ロットバルトの視線を捉え、不安の篭った瞳で振り仰ぐ。
「レオアリスは、どこにいるのだ」
ロットバルトは膝を落とし、ファルシオンの高さに合わせて視線を返した。
「すぐお傍に参ります。殿下はまず、御身の安全を第一に図っていただく為にも、ハンプトン殿と一緒にこの場を離れてください」
「でも……」
廊下から流れ込む騒音が膨れ上がる。室内は息を殺し、一瞬静まり返った。
「殿下、参ります」
「待って」
ファルシオンは身を翻して寝台の傍らの低い抽斗に駆け寄り、その上に置かれていた物を掴んだ。握り締めた小さな手の隙間から、先端の千切れた細い鎖が溢れる。
廊下からの騒音は、金属が打ち合う硬い響きや叫ぶ声が聞き取れるほど増している。すぐにでもこの部屋へ雪崩れ込んで来るのではないかと思えた。
襲撃を受けている。
王太子の館が。
「西海――?」
茫然と呟いたファルシオンへ、ロットバルトははっきりと首を振った。
「いいえ」
王家と王城を守護する、近衛師団によってだ。
今でさえ起こっている事が信じ難いほどだが――、それは厳然とした事実だった。
「ファルシオン殿下、こちらへ。庭園から回ります」
「お急ぎを!」
ハンプトンの腕に肩を包まれながら、ファルシオンはなおも首を巡らせた。
「母上と、姉上は……っ」
「既に、王の館に」
答えるロットバルトに視線を据えたまま、ほんの僅かに安堵を浮かべ、ファルシオンは半ばハンプトンに抱えられ庭園へ出た。
ロットバルトは再び廊下へ出て、唇を引き結び足を止めた。緩やかに弧を描くその先の壁に、灯りに照らし出された幾つもの影が揺れている。
足音、金属音。行かせるなと叫ぶ声が途中で途切れる。
「ドナート准将、オーベン、妃殿下方の所へ。王妃殿下の警護官と共に、王太子殿下と同じ通路まで護衛しろ」
ファルシオンへは既に逃れたと答えたが、王妃も、エアリディアルも、まだこの館に残っている。動ける時間は全くと言っていいほど無かった。
ただ部屋は廊下の奥にあり、庭園を通ればまだ学習室へ行く事ができる。
呼ばれた二人は素早く頷き、廊下の奥へ駈け出した。
「ライン、ザガ、ハース。ここで足止めする。殿下が学習室を目指していると悟らせるな」
「はっ」
鋭く応え剣を抜き放つ。自身はまだ剣を抜かず、ロットバルトは前方の壁に揺れる影の方へ床を踏んだ。
悲鳴が上がる。壁の影が激しく揺れたかと思うと、警護官の一人が弾かれたように姿を現わし、白い壁に倒れかかった。もたれた背中が壁に紅い筋を引き、そのまま動かない。
続いて数名の警護官と、それを追って漆黒の軍服――、近衛師団の軍服を纏った男達が現われる。
警護官等は応戦しつつも廊下にいるロットバルト達に気付くと、追う剣を弾き駆け寄った。一人は警護官長ブラントだ。
「ヴェルナー中将!」
「今の人員は」
「私を含め、七名です。十三名、おりましたが――」
辿り着いた七名はいずれも傷を負い、引き攣った面に混乱と疲労が見え、だが再び向き直り、剣を構えた。
廊下の先で侵入者の一団も足を止める。
先頭にいるのは第二大隊副将キルトだ。伴う隊士はそこに見えるだけでも二十名を超える。
キルトも、従う隊士達も息を飲み、ロットバルトと第一大隊の隊士等を見つめた。
改めて、そこに自らの罪を見据えるように。
静寂が辺りを打つ。
一瞬の静けさに荒い息遣いが響く中、第二大隊の隊士の間を抜け、一人が悠然と前へ出た。
ロットバルトは二つの瞳を細めた。
「――トゥレス大将」
トゥレスはロットバルトの姿を見て驚きを浮かべ、そして笑った。
「随分と戻りが早い。ここで会うのは想定外だったな」
ロットバルトは素早く、背後の扉へ目をやった。
その動作に視線を据えたまま、トゥレスはまるで兵舎で顔を合わせただけのように、気軽に近寄った。二つの集団の間に横たわる空間の、ちょうど中央で足を止める。
「ヴェルナー中将。それともあんたがここにいるという事は、今はヴェルナー侯爵かね」
「……私としては、近衛師団大将である貴方と、この時間にこのような状況で会うとは、夢にも思っていませんでしたが」
「俺もだよ」
ロットバルトは帯びていた剣の柄に手をかけた。
「何だ、もうやり合うのか? 恨み言の一つも聞いてやろうかと思ったんだがな」
「必要ないでしょう。貴方と話をするとしても、より相応しい場所がある」
トゥレスがにやりと笑う。
「片方にだけ手を貸してやるんじゃ悪いと思ったんだが――、随分と違う兄弟だ」
反応を示さないロットバルトに対し、トゥレスは仕方なさそうに肩を竦めた。その瞳を、奥の扉に向ける。
「さっき扉を見たな。王太子殿下はその部屋か?」
「答える意味が無い」
「だろうな」
トゥレスもまた剣の柄に手をかけた。背後の部下に顎を上げる。
「行け。殿下をお探し、保護しろ」
ロットバルトの手元から白光が疾る。トゥレスは剣を抜きかけ、咄嗟に切り替えた。
喉元に走った白刃を上げた柄で遮り、足元を蹴り、後方へ跳ぶ。
身体二つ分空いたそこへ、ロットバルトが間合いを詰める。剣を叩き込み、振り切る前にロットバルトは左手に支点を移し、斜め下から剣を切り返した。狙いは過たず、トゥレスの喉だ。
トゥレスが踏み込む。
再び剣の柄で切っ先を捉え、弾き上げる。素早く左手を引き、その勢いで鞘から剣を抜き払う。
刃は互いに三度噛み合い、双方の剣が弾かれる。
金属の軋る音が、静まり返った廊下に余韻を引いた。
トゥレスは再び退いたが、ロットバルトは追わず距離を取った。
初めに立った位置よりやや手前、ファルシオンの寝室への扉を左後方に背負う位置取りだ。その間をブラント等警護官が埋める。まだキルト達は動けていない。
トゥレスは手の中でくるりと剣を返した。
「自分から空けちゃくれないか」
「長引けばそれだけ不利でしょう、貴方は」
「確かにそうだ」
そうは言ったが、この場が長引けば、不利なのは確実にロットバルト達の方になる。
日ごろレオアリスの剣を相手にしているロットバルトでさえ、トゥレスの剣筋は底が知れない。
「ヴェルナー侯爵家は既に手を打った。トゥレス大将、我々は貴方を告発した。貴方にもう後は無い」
トゥレスが目を細め、口の端を上げる。
ロットバルトはトゥレスに据えていた切っ先を、僅かに逸らした。
「上将は、どこへ?」
「――時間稼ぎは、意味がないぜ」
言葉に被せるように、庭園の方向から混乱の響きが湧き上がった。
一瞬、ロットバルトの視線は響きの方へ動いた。
そこを掴み、トゥレスは床を蹴りロットバルトの懐へ一息に踏み込む。同時に背中で返した剣を床を這う影のように奔らせ、切り上げる。
切っ先は左脇腹を掠め、鮮血を散らす。ロットバルトは一歩引き、右手の剣を正面へ突き出した。
トゥレスは左肩を捻って切っ先を躱し、頭上で止めた剣を、ロットバルトの肩へと叩き下ろした。
寝室から庭園へ出ると、不安をもたらしていた響きは薄れ、館の騒音がまるで嘘のように穏やかささえ感じられる。フレイザーは自分の中に沸き起こる安堵を抑えた。
ファルシオンを隠し通路へ送り届けるまでは、気を抜く訳にはいかない。館も気になる。残ったのはロットバルトを含めて六名、館の警護官を入れたとしても十分ではない人数だ。
いや、全く足りない。いつまで保つか。
庭園に配置されていた警護官達は館へ入ったのか、月明かりに浮かぶ庭には誰の姿も無かった。
王妃も、エアリディアルも、まだ庭園に逃れた様子は無い。
鼓動が速い。それを極力宥めた。
今打てる手は打っている。
「殿下、こちらへ」
館の造りは昼間頭に入れていた。学習室へ、フレイザーは館を左に、並ぶ窓に自分達の姿を映さないよう、身を低く、できる限り早く、ただファルシオンを必要以上に怯えさせないよう静かに動いた。
すぐに夜の庭園の中、上半分硝子張りの壁面が張り出している一角に辿り着く。ハンプトンが扉に転び寄り、震える手を抑えて腰の鍵束から目当ての鍵を探し出し、鍵を鍵穴に差し込んだ。
微かに金属が噛む音と共に、鍵が外れる。
フレイザーが手を伸ばし扉を開こうとしたその時、不意に甲高い音と共に風が巻き起こった。
背後を振り返った隊士が驚愕に息を飲む。
「中将――!」
飛竜だ。
夜空に張り出した庭園の向こうに、十数騎の飛竜がその身を浮かべていた。
鱗は黒燐――、近衛師団。そして鞍に第二大隊の紀章を配している。
「庭園からも」
予めトゥレスは、庭園からの浸入も考えていたのだ。
だがまだ、彼等はこちらに気付いていない。
フレイザーは一瞬で選択した。
「引き付ける。ガレス、ベルン、二人は殿下の護衛に残れ。警護官からは三名こちらへ。あと二人、申し訳ありませんが侍従の方で、お一人なるべく背の低い人に殿下の振りを」
自分の長布を肩から外し、進み出た侍従の頭を覆うように被せる。
「ハンプトン殿、殿下を」
ハンプトンが蒼白な面を震わせ頷き、ファルシオンの肩を押した。
「殿下、お早く!」
「でも」
躊躇うファルシオンへきっぱりと首を振り、ハンプトンは幼い王子の姿を隠しながら扉を潜った。
それを見届け、フレイザーはあたかも、たった今その扉から逃げ出して来たかのように、再び庭園に走り出た。布で身体を隠した侍従を真ん中に囲み、学習室から今来た方向へと遠ざかる。
「いたぞ、あそこだ!」
声が上がり、飛竜の翼が風を打つ。飛竜の姿が急激に視界に迫った。
「走れ!」
飛竜を振り返り剣を抜くと、フレイザーは殿に位置取り走り出した。
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