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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』

二十二

 昨日まで呼吸していた父の身体は、今は血の気が失せ物言わぬ形骸となって横たわっている。
 ロットバルトは寝台の傍に立ち、その顔を見下ろした。
 最後に会話したのはいつだったか。この父が、わざわざ近衛師団へ足を運び、近衛師団を退団しろと言いに来たのは確か一昨日の事だ。
 全く話が噛み合わなかった事を思い出し、呆れて口元を歪める。
(違うな、そう言えば昨日の午後に話をした)
 それは西海による不可侵条約破棄後の、今後の対応に関する話だった。確か四半刻も話した時間は無かったはずだ。
 姿を見ればさすがに涙の一つくらいは出るかと思ったが、それは遠いところにあり、近付いてくる気配は無かった。
 虚しいとしか感じられないほどに、肉親に対する情というものが無い訳ではなかったと思う。
「貴方は最後まで、理解しなかったんだな」
 それとも最後まで理解しなかったのは、自分だろうか。
 そうだったのかもしれない。
「一人は剣を向けかけ、一人は剣を振り降ろした。笑い話にもならないが――そもそも貴方が保とうとしたものは、家族とやらではなかったんだろう」
 この父が家族というものを、どのように捉えていたのかは判らない。理解していなかったように思うが、そう思う事もまた、自分自身が理解していなかったからでしかないのかもしれない。
 その葛藤は、とっくに振り切ったと思っていた。
『何故、あの時お前の弟と』
(クラウス)
 双子の弟がいた。生まれつき心臓を患い、共に過ごしたのは生まれて十年を数えるまでの事だ。
 幼い頃の自分達は、侯爵に顧みられる存在ではなかった。侯爵が自分達の館を訪れるのは月に一回あればいい方で、自分たちが侯爵の館を訪れるたのは年に一回程度だっただろう。
 兄がいたからだ。後継ぎとして、ヘルムフリートだけが侯爵の眼に映る存在だった。
 弟はそれでも父を慕っていた。成長し、父の役に立ちたいと願っていた。
 自分はどうだっただろう。
 ふいに、彼の言葉が甦る。

『じゃあロットバルトは、何の為にそんなに努力をしているの?』

 かつて、会話の端に問われた。
『学問も、剣も』
(判らない)
 判らない――今でも?
 弟は父に対して、期待をし過ぎていたように思えた。
 それはただ彼の心を苛むだけだと思い、それを告げると、彼は怒るでも悲しむでもなく、笑った。
 何故笑ったのかは尋ねず、だから今でも判らない。
「――」
 判らない――

『お前はそうやって、自分の望みを殺すのか』

 それはレオアリスが投げ掛けた言葉だ。
 そしてそれは、弟が微笑んだ理由の、裏返しだ。
 ロットバルトは落としていた視線を上げた。
 すぐに再び、横たわる父の物言わぬ面へと戻される。
(――そうか、俺は)
 見ない振りをしてきた。
 今となってはもう理解を得る事のできない存在を見つめる。
 ただ風が吹き、かつての夜が深まるばかり。
(俺はただ――)
 王都からは、そう、飛竜であれば夜明けに間に合っただろう。弟の命が消えて行く、あの夜に。
 けれど父も、自分も、弟もまた、誰一人そこにたどり着く事はなく、ただ風の音だけが夜を占め、深まり、やがて明けて行く。
(俺は、ただ、飛竜の羽ばたきが聞きたかっただけだったのかもしれないな)
 ロットバルトは父が横たわる寝台の前に膝をついた。
 腕を伸ばせば胸の上で組んだ手に触れる事が出来たが、それはしなかった。
 寝台に背を預け、高い天井を見上げる。
 全ての音が、自らの呼吸の音すらも束の間消え失せ、灯りを落とした室内は深い静寂の中に沈んでいた。
 抑えた靴音が、床を鳴らす。
「ロットバルト様――」
 ロットバルトは立ち上がり、声の主を振り返った。扉の形に切り取られた灯りを背負い立っているのはルスウェントだ。
「父の葬儀を、明日正午までに整えて欲しい。一切はルスウェント伯爵にお任せします」
「承知いたしました」
 ルスウェントが退いた扉から、燭蝋の灯りの満ちた前室へと出る。眩しさに束の間目を細め、前室を横切り、長老達の待つ居間へと戻った。
 長老達が深々とお辞儀をしてロットバルトを迎え入れる。
(兄のやり方は元々成功の見込みの薄いものだった。あっさりと覆る状況しか作り出せなかったのは、手段が拙速に過ぎたからだ)
 ヘルムフリートが父ヴェルナー侯爵を手に掛けたのは、衝動的な面が大きかったのだろう。
 だが、それを仕掛けた者がいる。
 その者は今回の拙速さとは裏腹に、一つ一つの道筋を周到に作り上げ、そこへと導いた。
 近衛師団第二大隊大将、トゥレス。
 違和感がある。
 微かにざらりと指先に触れる感覚だ。
(あの男が今回、兄を拙速な手段に導いたのは、何故だ)
 どれほど遅くとも、明日の日中には潰える仕掛けでしかない――
 その拙速さで満足する理由、すなわち、その僅かな時間だけで成し得るものは。
 ヴェルナーという枠の中で起こればいいだけの波が、同時にさらうものは。
 そこに明確に浮かび上がった答えを見据え、ロットバルトは強い憤りを喉の奥へ押し戻した。
 時計を見る。
 十一刻に近い――取り返しのつかないほどの時間を費やした。
「ロットバルト様」
 ルスウェントが指輪を盆に載せ、ロットバルトへと差し出している。ヴェルナー侯爵家当主が持つ、当主としての意思と決定を表わす印璽の指輪だ。
 ロットバルトはそれを一瞬、疎ましさを含んで睨み――、それから手を伸ばして指先に取り、右手の中に握り込んだ。
 ルスウェントと長老会へ、視線を持ち上げる。
「ヴェルナー侯爵家として、近衛師団第二大隊大将トゥレス殿に対し、正式な告発を行う。長老会の総意を以て、この印璽を用いて示す事としたい」
 ルスウェント、そしてディアデーム等長老会が厳しい面持ちで頷く。すぐにルスウェントは書棚の引き出しの中から、便箋と封蝋を取り出し卓上へ置いた。
 その間にもロットバルトは見届け役として残っていた司法官のハイセンへ、視線を向けた。
「書面はまず、司法庁のハイセン殿に預けたい」
「承ります。すぐに対処を」
「それからエイセル」
 エイセルが膝をつく。
「近衛師団第一大隊の副将グランスレイ殿へ、書状を届けて欲しい」
 二通の文書はすぐに整い、それらは純白の封筒に仕舞われると、ヴェルナー侯爵家当主の印璽を以て封蝋を施された。
 ルスウェントは二つの封筒を受け取り、そして問い掛ける視線を、若い総主へと向けた。
 ロットバルトはその問いに答える時間も惜しみ、居間を横切って扉へと向かった。途中、ブロッシ男爵がまだ手にしていた剣を掴む。ロットバルト自身の剣筋に合わせて打たれたものだ。
「私は一度、王城へ戻る」







 鐘の音が耳を打つ。
 レオアリスはびくりと顔を上げた。
 もう一つ、鐘の音は高い響きを鳴らし、余韻を引いて消えていった。
 余韻を意識の隅で追いながら、レオアリスは周囲を見回した。今いるのはファルシオンの寝室で、レオアリスは窓辺に椅子を寄せ、背もたれに深く身体を預けて座っていた。
「――」
 部屋は灯りを落とし、夜の闇に覆われている。
 ファルシオンは眠っている。穏やかな寝息に救われる想いがした。
 何刻だろう。今の鐘は何度鳴ったのか――彷徨った瞳が暖炉の上の置き時計を捉える。
 針が指す数字は、思いがけないものだった。
「十刻――」
 トゥレスが帰った時は三刻になっていなかった。
 まさか、眠っていただろうか。
 いや、あの後、幾つかの遣り取りをフレイザーやハンプトンと行い、八刻にはこの寝室に戻ってファルシオンが眠りにつくのを見守った。それからもう一度、フレイザーと警備について意見を交わした事も覚えている。
 心配するフレイザーに何でもないと答えた事も、つい先ほどまでの自分の行動も――フレイザーが明日のファルシオンの予定を確認して部屋を出たのは、ほんの少し前の事だ。おそらく。
 ファルシオンが眠っている間に、現状の確認をしようと考えていた。
 何も変化はないが、それが目に見えている面だけでしかないのは判っている。
 ただ、それらが全て薄い霞の向こうにあるように感じていた。
 そしてその間、一つの言葉が絶えず心の奥底に響いていた。
 トゥレスの告げた、言葉――
『転位陣がある』
 再び鼓動を激しく揺らす。
 レオアリスは自覚のないまま、微かに震える右手で鳩尾を掴んだ。

『転位陣は深夜一刻に整う。陣があるのは郊外の古城だ。長くても明け方には居城へ戻れるだろう』

 トゥレスが示したマグノリア城は王都郊外の南東に位置し、大戦時には転位陣を用いた兵や物資の補給線として使われていた古城で、現在ではほとんど森に埋もれるように打ち棄てられた状態だった。
 馬でなら三刻程度、飛竜ならば一刻もかからない。
 レオアリスの乗騎は今は王城内の厩舎に預けている。通常、各院の長官以上でなければ王城の敷地内に飛竜は入れないが、海魔討伐の際、王城に直接降ろす許可を得ていた。
 王城から飛べば、それこそ時間はかからない。
 トゥレスの示した時刻に、間に合う。
 今行けば。
 邸内はどこも静まり返り、起きているのはレオアリスただ一人のように思える。
 内側から響く鼓動がひどく大きく、身体を揺らす。
 カチリと時計の歯車が回り、時を刻んだ。







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2017.7.18
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