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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』

二十一

 何一つ変わらずに陽は沈み行き、通りも空も建物も人も、やがて境界が淡く崩れていく。黄昏が王都を覆う。
 影は長く伸び、訪れる夜の闇と混じり合い、残された僅かな光すら容赦無く奪いながら夜のとばりは街を包み込む。
 海魔の襲撃による混乱と不安と疲労とで、普段は日暮れ後も華やぎを纏うはずの王都の街並みは、今は窓の奥や通りの街頭に灯りを灯し始めながらも、どことなく生気を失っているように感じられた。

 やがて、西の地平線から、低く淡い紫と朱色を重ね合わせていた陽光の名残も消え、王都は夜の中に静かに横たわった。
 そして街は、独り煌々と篝火を灯す王城を、その尖塔の傍らに浮かぶ欠け行く月と共に、不安を抱えた眼差しで見上げていた。




 王城の区域を構成する第三層には貴族達の屋敷が広がる。その中でも一際広い敷地を有するのが四つの公爵家と、続く十の侯爵家であり、それぞれ所領する方面に従い、王城をぐるりと囲むように配されていた。
 西面の一角を占めるヴェルナー侯爵家では、広い敷地の中に当主の館、その隣に長子であるヘルムフリートの暮らす館があり、主邸からやや離れた場所にロットバルトの暮らした館があった。
 夜の十刻が近付き、広い敷地内は樹々の葉擦れを聞き分けられるほど静まり返り、唯一主邸である屋敷のみが窓の明かりを美しく纏って夜の中にその形を浮き上がらせていた。
 ただ王都の街と同様に華やかさは影を潜め、そしてまた、屋敷そのものがそっと息を潜めているように思える。
 主邸の中央棟三階は、全体がヴェルナー侯爵家当主の為に整えられていた。広い居間と寝室、書斎、ごく限られた者とのみ語らう為の客間、また露台に面した温室と、壁に挟まれた寝台と小窓を備えた小さな図書室。
 いずれも寛ぐ事を目的とした美しく穏やかな仕立ての部屋だったが、ヴェルナー侯爵は書斎や離れの執務室にばかり居り、余りそこで過ごす事は無かっただろう。
 ヘルムフリートにとってもその部屋は、今、彼の心に何の安らぎも与えなかった。
 廊下の奥には、ヘルムフリートがその手で父の命を奪った書斎がある。
 そして、前室を一つ挟んだ隣の寝室には、父侯爵の亡骸が横たえられていた。
 罪の証――
 それを拭い去り、書き直さなくてはならない。
 今ヘルムフリートがいる居間は幾つもの燭台によって煌々と照らされ、ヘルムフリートの影を四方八方へと投げ掛ける。
 その影を一層不安定に彷徨わせ、ヘルムフリートは室内を落ち着きなく行き来していた。
 時ばかりが経つ中でまるで心は静まる事なく、何度となく吐き気に襲われ、指先は際限なく震えていた。
 オルブリッヒは戻らない。
 扉近くに立つ警備隊士を、何度目か睨み付ける。
「オルブリッヒは何をしている! 何故報告に来ない! 一体いつまで待たせる気だ!」
「お、お探ししているのですが、どこにもおられず」
「その言い訳は聞き飽きた!」
 警備隊士が恐縮しきった面を低く伏せる。
 ヘルムフリートは口元を歪め、壁に掛けられた時計の針を睨んだ。
 既に時刻は夜の十刻を過ぎている。まさか、オルブリッヒは裏切ったのではと――、ヘルムフリートの心の中には苛立ちと不安と、恐怖とが、嵐の前の黒雲の如く沸き起こっていた。
「いいか、もうこれ以上待つつもりは無い。今すぐにオルブリッヒをここに連れて来るのだ。必ず、報告を携えて来いと」
 ヘルムフリートは若い警備隊士を射殺さんばかりに睨んだが、唐突に足を止めた。
「――いや、私が」
 これ以上、オルブリッヒに任せておくべきではない。
 オルブリッヒが信用できないのならば、ヘルムフリート自身が、それ・・をするべきではないか。
 ちらりと視線を向けた先で、不意に扉が開いた。
 咄嗟に期待の眼差しを向けたヘルムフリートの面が、さっと曇る。
「どのような報告をお待ちなのですか、ヘルムフリート様」
 その言葉と共に部屋へ入って来たのは、ディアデーム伯爵を始めとする長老会の七人の当主達だ。
 ヘルムフリートの面に明らかな動揺が浮かぶ。扉の前に並んだ長老達の姿は、昼にヘルムフリートの前に揃った時の、あのおどおどと自らの意思も覚束ない老人達とはまるで別人のように思えたからだ。
「何だ、お前達――、私は呼んだ覚えはないぞ!」
 鋭く言い放ったヘルムフリートは、彼等の背後にある姿に気付き、細い面を驚愕と、憎しみで彩った。
「お前――何故、ここに……」
「長老会が開かれる要件は、総主の招集のみではありませんよ、兄上。それはこのヴェルナー侯爵家長老会に於いても変わりは無いでしょう」
「ロットバルト……」
 それまで抑えがたかった指先の震えは、彼自身が自覚しないままに、ぴたりと収まった。
 苛まれていた吐き気も、ひと時も落ち着かず波打っていた心も。
 ヘルムフリートは戸口に立つ弟の姿を、束の間、ただ見つめた。
 ロットバルトが長老達の間を抜け、中央よりやや手前、ヘルムフリートと向かい合う位置で立ち止まる。
 それはちょうどこの昼に、ヘルムフリートが長老会を開き諮問を行なった際、ロットバルトが立った距離だ。ただ長老会の立ち位置が全く違う。
 ディアデームが進み出ると、白髪の頭を昂然と持ち上げ、細い瞳を立ち尽くすヘルムフリートへと向けた。
「ヘルムフリート様。そしてロットバルト様。今一度、長老会の総意として、長老会の開催を要望します」
「――長老会の開催だと? 何を、勝手な事を」
「私は同意しています。そして兄上、総主は長老会からの要請に対し、これを容れる義務がある」
 ぎり、と口元を引き結びヘルムフリートは怒りに染まった瞳で周囲を見回したが、警備隊士達さえも遠巻きにしたままで、彼の横に並ぶ者はいなかった。
「……オルブリッヒ、は――」
「彼は私を殺せなかった。それだけです」
 ヘルムフリートは青ざめた面を凍りつかせ、血を分けた弟を睨んだ。唇を歪め、やや掠れた声を押し出す。
「それで何だ。賢しらに、私を追い詰めたつもりか? 長老会を丸め込み結論を覆そうと言うのだろうが、お前が父上を殺した証拠は揃っているのだ。目撃者と、剣も――」
「父上を殺害した剣ですか。オルブリッヒが持っていた、この――」
 長老会の一人、アンヘング男爵が一歩前へ進み出る。その手に剣を捧げ持ち、ヘルムフリートへと示した。
 ヴェルナー侯爵の命を奪った剣であり、ヘルムフリートがオルブリッヒに対しロットバルトを殺せと命じた剣だ。
 ヘルムフリートは目を逸らした。
「確かに近衛師団の支給品ですが、私は支給される剣を用いていません。剣筋が違うのでね」
「何だと」
 ロットバルトは後方へ手を伸ばし、もう一人のブロッシ男爵から違う剣を受け取った。
 浅く反った刀身を持つそれは、ロットバルトが自らの剣筋に合わせて打たせたものだ。
「私は入隊後すぐにこの剣に持ち替え、通常の剣の支給は受けていません。そもそもそれ以前、近衛師団に入隊する前から、私はこの剣を使っていた」
 ロットバルトは一度言葉を切り、ヘルムフリートへ眼差しを向けた。
「貴方は、知らなかったと思いますが――私が貴方の事を、何も知らないように」
「――」
 ヘルムフリートは眉を寄せ、何事か舌に載せようとし――、それをしまい込んだ。瞳に棘を残す。
「その事はお前が、部下にやらせたという可能性を否定するものではない」
「貴方の用意した目撃者は、私自身を見たと言いました」
「剣など、別に入手できる。それをするのは難しい事ではない」
「その仮定は、私個人のみに当てはまるものではありません」
 自分にとってこの遣り取りが作業で・・・しかない・・・・と、そう感じている事をロットバルトは自覚していた。
 虚しいと確かに思い、そう思う事に安堵しながらもまた、自嘲を覚える。
 既に結末は見えている。
 後は整えた手順を辿る作業だ。
「詭弁ばかりを!」
 ヘルムフリートは苛立ちと共に激しく吐き捨てた。
「そもそも長老会の総意と言ったな。だが今、一人欠けているではないか。総意と言うならば成立要件は」
「総意でございます」
 新たな、冷静な声が割って入る。
 扉から入って来た男を目にして、ヘルムフリートは目を剥き出した。
 ヴェルナー侯爵家長老達の中で抜きん出て若く、五十代前半の男だ。長い髪を背中でくくり、面にやや疲労を浮かべながらも、普段と遜色なく冷静さと知性を窺わせる。
「ルスウェント、伯爵……」
 邸内に拘束していたはずだと、ヘルムフリートは視線を彷徨わせた。
 ルスウェントは昨夜の侯爵の考えを、全て聞いている。
 そしてまた、ヘルムフリートがその場に居合わせた瞬間を、確かに見ていた。
「――」
「ヘルムフリート様。この度の件、今一度長老会を開く必要があると考え、私が呼び掛けました。そして未だ議論及び状況の検討が足りていないと、全員の同意を得たのです。故に長老会の総意と申し上げました」
 ルスウェントは理知的な瞳をヘルムフリートへと注ぎ、感情を抑えた声で続けた。
「また、この場には司法官の同席が必要と考えております。失礼ながら、先程から前室に待機してもらっておりました」
 ルスウェントの言葉と共に、廊下からハイセン等司法官が現われ、壁際に並ぶ。
 今この部屋には窓際に一人立つヘルムフリートと、中央に相対するロットバルト、その後方に並ぶ長老会の八名、そして壁際に立つ十名の司法官と、所在なく控える僅か二名の警備隊士。
 その様はこの部屋があたかも、ただヘルムフリート一人を糾弾する為だけにあらかじめ用意されたかのように思えた。
「長老会の開催は必要ない」
 ヘルムフリートはなおも抗い、ロットバルトとルスウェントを睨んだ。
「お前達二人が、共謀して父上を殺害したのだ」
 ロットバルトは対照的な瞳をヘルムフリートへ向けた。
 ルスウェントが現われた時点でこの問題は帰結している。
 後は虚しい作業を重ねるに過ぎない。
 おそらくヘルムフリート自身、そう感じているように。
 ロットバルトがこの後示す幾つかの手札も、事実を明白にするものではあっても、何一つ昂揚や喜びをもたらさなかった。
「私は兄上の言葉を、否定し続けるしかありません」
 ロットバルトは扉を振り返った。開け放たれたままのそこに、三人の男が現れる。
 一人はエイセル、もう一人はブロウズ、そして後一人は、エイセルによって後ろ手に拘束されたオルブリッヒだ。
 激しい動揺と怒りを浮かべたヘルムフリートの眼差しを避け、オルブリッヒが顔を逸らす。
「この者が誰かお分かりですか」
 ロットバルトはオルブリッヒではなく、ブロウズを示してそう尋ねた。
 ブロウズを確認したヘルムフリートは、顔を歪めた。ヴェルナー侯爵家で間諜として動く者達の顔と名を、長子たるヘルムフリートは当然知っている。
「貴方が命を奪い、このオルブリッヒに埋めさせた男は、ブロウズの息子です」
「……何の事だ。その男の息子の事など知らん」
 顔を逸らして縮こまっているオルブリッヒを忌々しそうに睨む。
「その者がどんな世迷言を言ったかは知らないが、お前はただ自分に都合よく状況を作り上げようとしているに過ぎない」
「裏付けが必要ですか」
「裏付けだと?」
 ブロウズが懐から一通の書状を取り出す。その封筒も、中から現れた便箋も、赤黒く汚れ乾いて歪んでいた。ブロウズがヘルムフリートの部屋から探し出したものだ。
「これは私が、父に宛てた書状です。ヴェルナーの所領である南方イル・ファレスの村で問題が生じた為、正規軍へ対処を要請して欲しいと書いたもの――ブロウズに持たせたはずのものです。これは貴方の部屋にありました」
「私の部屋を探ったのか、無礼な!」
「処分しておくべきでしたね」
 激高はその場を揺るがす役には立たず、ヘルムフリートは唇を引き結んだ。
「貴方は――」
 ロットバルトは口調を落とし、言い直した。
あなた方は・・・・・、ブロウズを殺害し、この書状にその時気が付いた。ブロウズの目的は貴方を探る事では無かったと知ったと思いますが、もはやこれを父に届ける訳には行かない。それ故に貴方はこれを隠匿した」
 ヘルムフリートは一点を見つめている。
「これはあなた方には・・・・・・関わりの無いものだったでしょう」
「ブロウズを、斬ったのは、私だ」
 頭を振りたて、ヘルムフリートはロットバルトを睨み付けた。
「私の館の周りをうろつき嗅ぎ回っていたからな。私に・・関係ないだと? お前は詭弁ばかりだ。大方、お前が父上の意を変えさせようと、私を探れと命じていたのだろうが」
 怒りに震える指を、ロットバルトの後ろに控えるブロウズへと突き付ける。
「間諜が主家を漁るのが仕事か? そのような差し出た振る舞いをしたから斬ったのだ! 親子ともども恥を知るがいい!」
「私の息子は時折、貴方の御身を案じておりました」
 ヘルムフリートは一瞬、呼吸を失い口を閉ざした。
「――それが、どうした」
 束の間の静寂が落ちる。
 響くのは浅い息遣いだけだ。
「お前は、お前の息子に、正しい振る舞いを学ばせるべきだった」
 ブロウズはただ視線を落とした。
 静寂にロットバルトが言葉を投げ入れる。
「彼の命を奪ったのは本当に貴方ですか?」
「――何だと」
「もしくは、ブロウズを貴方の前に立たせたのは誰だったのか――」
「何を」
「彼等はその職務の性質上、武芸と隠行に通じていなければ務まりません。失礼ながら兄上、私は貴方がブロウズを斬れるとは思っていない。残念ですが警備隊士にも難しいでしょう」
 張りつめた静寂の中に、ロットバルトの言葉だけが流れる。
「となれば、その時他の誰かがいて、ブロウズに気付き、捉え、斬ったと考えるのが妥当です」
 ロットバルトがヘルムフリートの前に立つと決めた、ほとんど唯一の目的はこれだ。
 ヘルムフリート自身の口からそれの名を導き出す事、もしくは、それを認めさせる。
「――お前の憶測に過ぎん」
「もう一つ」
 ロットバルトはこなすべき手順を淡々と消化する。ここで開く手札は残り二枚だ。
「ブロウズが殺害された日、恐らく同時刻と思われる時間帯、裏門の門衛の記録に、近衛師団第二大隊大将――トゥレス大将の名前が記載されています」
 エイセルから差し出された薄い帳簿を手に取り開いて、記録の上に視線を落とす。蒼い双眸を再びヘルムフリートへと据えた。
 青ざめ、唇を引き結び睨め付けるヘルムフリートへと、ロットバルトは足を向けた。
 ヘルムフリートは傍らの小さな円卓に左手を置いて身体を支え、眼差しは歩み寄る弟ではなく、ただ真っ直ぐに正面へ据えている。
 ロットバルトはヘルムフリートが左手をついている卓を挟んで立ち止まり、帳簿を二人の間の卓に置いた。
 互いに向かい合うでもなく、ヘルムフリートはまだそこにロットバルトがいるかのように部屋の中央を見据え、ロットバルトは視線の先に、夜の闇に塗り込められた窓を捉えている。
「トゥレス大将を呼んだのは貴方だ。それは私自身がブロウズの足跡を追う中で、門衛に確認しています」
 ヘルムフリートの答えは無い。ロットバルトは左足を一歩引き、ヘルムフリートの強張った横顔と向かい合った。
「ここからは貴方の言う通り、単なる私の憶測です」
 ヘルムフリートの視線だけが、ぎこちなく動いてロットバルトの視線を捉える。
「トゥレス大将が貴方にあの剣を渡した際、何と言ったのかは判りません。ただトゥレス大将が貴方に近付いた目的は、ヴェルナーそのものではないでしょう」
 音を立てるほどに奥歯を軋らせ、ヘルムフリートはロットバルトを睨んだ。
「――奴は、私の要請に応えたのだ」
 それは罪を暴かれ追い詰められた故にではなく、ヘルムフリートの矜持から発せられる言葉だっただろう。
 だからこそロットバルトが選ぶ言葉も、断罪の為のものではなかった。
「兄上。トゥレス大将は自らの目的の為に、ヴェルナーを利用したのです」
 時計が十刻半を告げ、一つの音色を響かせる。痺れるほどの静寂の中で、誰一人その音へ目を向ける者はいなかった。
 ヘルムフリートが深い呼吸を繰り返す。
 室内にいる者は誰もが、ただその姿を見ていた。
 やがてヘルムフリートは、ゆっくりと、だが明確な意思を表した動作で、ロットバルトと正面から向かい合った。
 この距離で、この兄弟が向かい合ったのは初めての事だ。
「私は、お前が疎ましい」
「判っています」
「お前が憎い」
 ロットバルトもまた初めて、ヘルムフリートという個人の姿を、そこに見たように思った。
「お前が――」
 ヘルムフリートは喉の奥に留まっていた塊を、無理矢理押し出した。
「何故――、何故、お前などがいるのだ! 何故、あの時お前の弟と一緒に死ななかった!」
 激しい言葉が室内を叩き、ルスウェント等がはっと面を強張らせて二人を見つめる。
 ロットバルトはただその双眸を、激しい感情を湛えたヘルムフリートの瞳に据えた。
「貴方は私を、放っておいてくれれば良かった」
 カチリと、時計の歯車が時を刻む。
 長い静寂を破ったのはヘルムフリートだった。
 瞳を逸らし、顔を背けると、ヘルムフリートは扉へと歩き出した。
 長老達が退いたその間を通り過ぎ、司法官達の前で止まる。
「父上は、お前自身を認めたのではない。父上が見ていたのはあくまで、ヴェルナーの後継者だ」
 ヘルムフリートは扉の前にいた司法官を押しのけ、取っ手を掴むと、自ら外へ出た。







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2017.7.18
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