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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』


 「御館様――湯浴みの用意が整っております。お出ましになられますか」
 ヴェルナー侯爵家の家令は、指定された五刻ちょうどに当主の書斎の扉を三度、控え目に叩いた。腕を下ろしぴんと背筋を張った姿勢のまましばらく待ったが、返る声は無い。
「御館様――」
 もう一度呼び掛けたものの、扉の向こうは物音一つなく静まり返っている。家令は眉を寄せた。
 あと一刻後、六刻には登城すると言っていた侯爵が、予定の変更を自分に伝えないとも、ましてや書斎で眠ってしまうとも思えない。そんな事は家令がこの侯爵家に仕え、現当主に仕えてからおよそ五十年間、ただの一度たりとも無かった。
「失礼致します」
 それ以上返答を待たず、家令は扉を押し開けた。
 薄暗い室内に踏み入った途端、嗅いだ事の無い臭いが鼻腔に触れた。篭った、しめった鉄のような臭いだ。
 いよいよ眉を顰め、手にしていた燭台を掲げる。とても嫌な予感がしていた。
「御館様――」
 正面に濃紺の天鵞絨びろうどの日除け布を背にした侯爵の執務机があるが、そこには誰の姿もない。
「どちらにおいでですか、御館様」
 自分の鼓動を感じながら、執務机へと歩み寄る。あと数歩、というところで、卓の上に置かれた用紙が乱れているのに気付いた。自分がきっちりと整えてそこに置いたそれは、数枚が皺を刻んで燭台の灯りに陰影を落としている。
「御……」
 靴底が、湿った感触を捉える。びちゃりと音を立てたその感覚に、毛足の長い絨毯が湿っているのだと、すぐに判った。
「――」
 燭台の光が投げ掛けた丸い輪が、床に投げ出された白い手のひらを映し出した。
 その先に腕が続き、絨毯の上で捩じるように置かれた頭が浮かぶ。
 見開かれた蒼い双眸と、目が合った。
 家令は押し上がる声を咄嗟に飲み込み、ほんの一瞬棒立ちになった後、執務机の脇に垂れている呼び鈴の紐に飛び付いた。
 何度も紐を引きながら、扉を振り返って大声を上げる。
「誰か! 誰か来てくれ! 早く!」
 紐を放り出し倒れているヴェルナーの脇に膝を付く。絨毯が湿った音を立てた。
「御館様……!」
 一目で、胸を穿つ深い傷が見て取れた。虚ろに見開かれた両眼は作り物のように思える。
「御館様」
 早朝に響く呼び鈴を聞き付けた家人達の足音が複数、廊下に重なって聞こえ、すぐに扉が叩かれた。
「入れ! 誰か一人、医務官と、薬師――法術士を!」
「ファンネルさん?!」
 一番最初に入ったのは侯爵邸の執事だ。執事は執務机の前にしゃがみ込んでいる家令を見て訝しそうな声を掛け、だがすぐに家令の向こうに人が倒れている事に気付いて立ち止まった。
「お、御館様……!? 一体、何……、いえ」
 問おうと開きかけた口をつぐみ、執事は踵を返して廊下を駆け出した。擦れ違いに駆け付けた侍女が悲鳴を上げる。
「騒いではいけない、落ち着いて、とにかく何か、御館様を寝室へお運びするためのものと……それから、もっと人手を。それからどなたか」
 努めて抑えた口調でそう指示しながら、まずは誰をこの場に呼ぶべきなのか、家令は素早く考えた。
(まずは、ルスウェント伯爵を――それから)
 ヘルムフリートは館にいるだろう。
(――ロットバルト様も)
 これが・・・それほどの・・・・・事態だと・・・・家令は改めて思い至り、胸の奥が冷える感覚を覚えた。
「ああ、どうすれば……」
 落ち着かなければいけない。震える手に視線を落とす。
 その時、侯爵の傍らに落ちている剣にようやく気付き、家令はそれをまじまじと見つめた。刃が白々と燭台の灯りを弾いている。
 唐突にぎくりと息を呑んだ。
 柄に、近衛師団の軍章が刻まれている。
「そ……」
(……そんな、まさか)
 浮かんだ名前が信じられず、咄嗟にそれを執務机の下に押しやった時、部屋から出て行きかけていた侍女が小さな声を上げた。
「ヘルムフリート様!」
 驚き、家令は扉へ目を向けた。廊下で慌ててお辞儀した侍女を荒っぽく押し退け、ヘルムフリートが扉を潜る。
 ヘルムフリートはそこで愕然と立ち尽くした。
「父上―― ! これはどうした事だ!」
「ヘルムフリート、様」
 何故ここに、という言葉が咄嗟に浮かび、家令はそれを喉の奥に飲み込んだ。倒れている侯爵に駆け寄るヘルムフリートの、強張り紙のように白い面を見つめる。
「父上! 父上―― !」
 家令を押しやり、ヘルムフリートは父の身体を揺さぶった。
「父上―― ! だ、誰が、このような……! 目を、目を開けてください!」
 縋り付き声を絞って何度も呼び掛け、ヘルムフリートは扉口へ頭を振り立て、怒鳴った。
「何をしている! いつまで父上を床に置いておくつもりだ!」
 振り返り、家令が自分を凝視している事に気付いて、ヘルムフリートはほんの僅か、視線を泳がせた。「な――、何をぼんやりしている!」
「……ヘルムフリート様、どうして、こちらに」
「お前達は……!」
 ヘルムフリートの腕が伸びて家令の襟元を掴む。家令はよろめき、血の染み込んだ絨毯に両膝をついた。
「父上のお側に付いていながら、お前は一体何をしていたのだ!」
「――わ、私は」
「父が命を落としたのは、お前達の責任だ! その責任も問うぞ!」
 鞭を打つように言い放ち、一度襟首を離しかけたヘルムフリートは、血を含んだ絨毯の一点に目を止めた。苛立ちが面を染める。
「どこに隠した」
「――、何を、ですか」
 初めは何の事か判らず、家令は目の前の張り詰めた顔を見返した。
「ヘルム」
「とぼけるな。剣を隠したのは判っているんだ」
 見られていたのかと一瞬言葉を失い、視線が執務机の下へ彷徨う。
 咄嗟に隠したのは、あの剣が近衛師団のものだったからだ。混乱していて、このまま人に見られては良くないと思ったからだが、却ってまずい事をしてしまったと胸が冷えた。
 ヘルムフリートに見られてしまったのは何より拙かった。
 近衛師団の剣がここちあったとなれば、一番に疑いがかかるのは。
「それは」
 目を強くつぶり、ふと、家令は瞬きを繰り返してヘルムフリートを見た。剣を隠したのはヘルムフリートが扉を潜る前だった。
 そもそも、隠したところを見ていたのなら場所を聞かなくても判るはずだ。
「……何故、それを、貴方がご存知なのですか」
 ヘルムフリートは虚を衝かれたように、両眼を剥いた。
「剣が残っていた事を」
 目の前の面が歪み口元を震わせるのを、家令は目を見開いたまま凝視していた。
「貴方は何故――、こんな時間に、館にいらしたのですか」
 答えが返らない。
「……ル――ルスウェント伯爵に、ご連絡を」
 家令は膝でにじるように動き、先ほどの呼び鈴の紐に手を伸ばした。
 ヘルムフリートは執務机の下に手を入れ、そこにあった剣の柄を探り当てると、引き出した。
 素早く扉口を確認する。人影は無かった。
 立ち上がり、家令の背中を見下ろす。
「誰も呼ぶ必要は無い。私が――私が、ヴェルナーの当主だ」
 剣を振り下ろす。父を斬った時よりも、剣は滑らかに扱えた。
 家令は振り返ろうとしたが、ヘルムフリートの姿を視界に捉える前に、絨毯の上に倒れた。
 高い悲鳴が上がる。扉口に若い侍女が座り込んでいた。
「へ、ヘルムフリート様……何故……」
 舌打ちし、この女も殺そうかと咄嗟に睨んだが、さすがにそれを止めた。ヘルムフリートが一歩近寄ると、侍女は悲鳴を上げて後退った。その膝の前に手にしていた剣を投げ出す。
「良く見ろ。その剣が、誰の物か」
 侍女が怯えて目を見開いたまま、おずおずと視線を落とす様を見下ろす。
「それは誰の物だ?」
 重ねて尋ねたが侍女は混乱のせいか、怯えた顔で剣とヘルムフリートを見比べるばかりだ。ヘルムフリートは苛立って舌を打った。
「うすのろめ。柄の記章を見ろ。これは、近衛師団の剣だ」
「――近、衛……」
 侍女ははっと息を飲み、なおも後退りかけて壁に阻まれた。
「そんな……そのような事が……」
 ヘルムフリートは満足気に口元を歪め、既に息絶えている家令を一瞥した。
「この者は、共謀してこのヴェルナー侯爵家当主を殺害した。故に次の当主たる私が自ら、制裁を下したのだ」








 王都の街を見晴るかす時計台は、朝の光を浴びた白い陶器の盤面の上で、二つの針が七刻を指そうとしているところだった。
 謁見の間には既に王太子ファルシオンを始め、内政官房、財務院、地政院、軍部など、昨日と同様に国の中枢にある役職が顔を揃えていた。無人の玉座が置かれたきざはしの下に、普段は無い卓が二重の楕円を作り置かれている。
 階の正面にファルシオンの座る椅子が置かれ、室内にいる者はファルシオンの後方に控えるレオアリスを除き、全員が卓に着いていた。
 だが、二つの席がまだ埋まっていない。
 その事が広い謁見の間を、ひりつくような緊張で満たしていた。
 地政院長官、東方公ベルゼビアがまだ姿を見せていないのだ。
 そしてまた、もう一人。
 ヴェルナー侯爵の姿も、そこには無かった。
 着座した者達はそれぞれ低い声で言葉を交わし合い、何度も二つの席と、そして玉座への階を背に座るファルシオンを見比べている。視線は時折、近衛師団の席に座るロットバルトへも向けられた。
 ベルゼビアの不在は、昨日議論の中で彼が表した挑発と不満とを、改めて思い起こさせた。ただそれはある意味、昨日あの場にいた者たちが心のどこかで想定していた事だ。
 しかしヴェルナーの不在は、この場の全ての者にとって全くの想定外だった。
 ヴェルナーがその役割を放棄し事は未だかつてない。その空席は、昨日から目の前を突如覆った暗い景色を、もう一つ黒く塗り潰したかのように思えた。








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2016.10.30
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