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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』

十九

 眼下に臨んだ街はいずれも、目を背けたくなるほど無残に崩れ、焼け、断ち切られた姿を晒していた。
 東上層ヘレネ橋、西下層ケネック橋、そして北中層エルゲンツ橋。
 ナジャルに放たれた海魔によって一帯が破壊された三つの区画。
 アーシアはその光景の上を、つぶさに飛んだ。背中に、震え、歯をくいしばるアスタロトを乗せたまま、それでも目を逸らすまいとする彼女の意志に従って飛んだ。
 いずれの地区も既に負傷者の救護と死者の搬送を終え、残された瓦礫を片付ける為に正規軍兵士達が忙しく立ち働いている。初めに見た二つの区画、そして今見下ろすこの北中層アルティグレ地区でも、街の人々は自分達もまだ恐怖と疲労が染みついているだろう状態で、正規軍兵士達が瓦礫を運ぶのを手伝っていた。
 ふと空を見上げた住人が上空を飛ぶアーシアの姿を見つけ、声を上げた。青鱗の飛竜はアスタロトの従者であるアーシアだけだ。
「アスタロト様だ――」
 その声に引かれて人々は次々と空を見上げ、辺りが瞬く間に歓声に満ちた。
「炎帝公だ!」
「アスタロト様!」
「アスタロト様がいらしてくださった」
 そこに込められているものは、四大公爵家の一人であり、正規軍将軍であり、炎帝公と呼ばれるアスタロトに対する純粋な期待だ。それが熱量となって、高く飛ぶアーシアのもとまで立ち昇る。
 アーシアは首を巡らせ、アスタロトを見た。視察に出る際タウゼンから、住民達がアスタロトに気付いた場合はすぐに戻るよう指示されている。
「アスタロト様、戻りましょう」
 アスタロトの返事が無く、アーシアはもう一度名前を呼んだ。
「アスタロト様……これ以上飛ぶのは、あまり良くありません。街の人たちに対しても……」
 今のアスタロトに、ここで何かができる訳ではない。タウゼンに言われたからではなく、アーシアはこのまま彼等の期待の中にアスタロトの心を晒す事を心配していた。
「戻ります。いいですね?」
「――降りて」
「アスタロト様?」
「お願い、アーシア、降りて」
 長い首を巡らせ、アーシアは自分の背にいる主を見つめた。
「――」
 一度翼で風を叩き、それから旋回しながら広場へと降下する。
 そこはこの朝まで瀟洒で美しい橋があった・・・場所だ。飛竜が苦も無く降り立てるほどに開けているのは、海魔がその歌で無残に切り崩したからだった。瓦礫は運河沿いに積み重ねられ、そして亡くなった人々の遺体が、造り上げられた広い空間の中央に集められ横たえられている。
 アスタロトはアーシアの背から滑り降り、集まってきた住民達の前に立った。
「アスタロト様――」
 アスタロトが降りて来るとは思っていなかったのか、集まる住民達の数はどんどん増えて行っても、戸惑ったようにアスタロトをやや遠巻きにして近付こうとはしなかった。
 近くにいた正規軍兵達が駆け寄り、アスタロトと住民達との間に立つ。その場で兵達を指揮していた北方第一大隊右軍中将ヘイムが遅れてアスタロトに駆け寄った。
「将軍閣下!」
 ここにアスタロトが来るとは聞いていなかったヘイムは、一体急にどのような用件かと、乾いた血と泥がこびり付いた面を手の甲でこすりながら窺う視線を向けた。右腕を胸に当てて敬礼を向け、アスタロトへ告げるべき事を探す。
「――この区域の死傷者は、死者七十五名、重傷九十八名、中軽傷は百八十二名になります。既に救護活動は全て終えております」
「ありがとう」
 ヘイムが再び敬礼を向ける。
 アスタロトはしばらく黙ったまま、やや俯き立っていた。
「その、我々は作業を続けます。まだ瓦礫が残っているので、足元にお気をつけください」
 ヘイムはそう言い、部下達に目配せし、自分はもう一度アスタロトが何か言うのを待った。
「その……、将軍閣下、私共に、どのような」
 アスタロトに言葉が無く、代わるようにアーシアが戸惑いを覗かせながらもヘイムへ頭を下げた。
「少し視察で――もう戻ります。……アスタロト様」
 アーシアの促す声にも、アスタロトはじっと動かない。
 次第に周囲も、微かながら騒めき始めた。
「アスタロト様は、何で何もおっしゃらないんだ――?」
 そんな声が聞こえ、アーシアはどきりと心臓を鳴らし、そっと声のした方へ視線を向けた。遠巻きにしている住民達の顔には、つい先ほどまでアスタロトへ向けていたものとは違う感情が浮かび始めている。
(降りない方が良かった――)
 タウゼンの忠告に従うべきだった。
 黙したままのアスタロトの姿に対し、住民達の面には次第に戸惑いがくっきりと表れてきた。
 それから、不審。
「そう言えば、アスタロト様は今回、何かなさったのかな」
「何かって」
「だから――王の剣士みたいに、海魔と戦われたのかって」
「そんな話、聞いたか?」
「ヘレネでも、ケネックでも――」
「じゃあ、何も」
「しっ、正規軍に聞こえるぞ」
「おい!」
 聞き咎めた兵士が男達に近付く。少将のダンだ。男達はさっと青ざめて身体を引いた。
「お前達、何の話を――」
「い、いや」
 黙り込み、静まり返った住民達へ戸惑い交じりの視線を向け、ダンは一旦口を閉ざした。ひどい被害を受けた住民達を、ことさら咎めるのは気が引ける。
「……作業を、再開しよう」
 そう言って踵を返したダンの背に、抑えた声が聞こえた。
「そういえば、アスタロト様は陛下の護衛で、西海に行かれたんじゃなかったのか?」
「陛下はまだ、ご無事かどうか判らないって――」
「じゃあアスタロト様は何でここにいるんだ」
「ッ、おい! お前達!」
 アスタロトは身体を屈め、足元に落ちていた煉瓦の欠片を拾った。その傍にあった石壁の塊も拾い上げる。
 すぐに両手を石くれや煉瓦、木片でいっぱいにすると、アスタロトはそれを持って歩き出した。
「アスタロト様」
 追いかけ、その横に並んだアーシアは、アスタロトの手から瓦礫を引き受けようと両手を伸ばした。だがアスタロトはそのまま運河まで歩き、既に集められていた瓦礫の山へ抱えていたものを下ろした。
 踵を返し、再び元の場所に戻ると、また落ちている瓦礫を拾い集める。
「アスタロト様――」
 住民達は驚き、戸惑ってアスタロトの行動を見つめている。
 ただ、四度目にアスタロトが瓦礫を拾い始めると、住民達は誰からともなく、黙って同じように瓦礫を拾い、或いは手で、或いは手押し車に載せて運び始めた。
「しょ、将軍閣下」
 狼狽えているヘイムと向かい合い、アーシアは深々と頭を下げた。
「すみません、手伝わせてください」
「し、しかし、そのような事を将軍閣下に」
「そうしたいんです、今は」
 アーシアの瞳をみつめ、そこにヘイムは自分の心を垣間見たのかもしれない。戸惑いを押し殺せないままではあるが、しばらくして頷いた。
 アーシアはまた頭を下げた。
 今は、できる事が限られている。
 ヘイムが作業の指揮に戻って行き、それを見送ってから、アーシアもまたアスタロトの横に屈むと落ちていた瓦に手を伸ばした。
 この行為が何かになると――アスタロト自身が海魔に対して――西海に対して、成し得なかったことの代わりになると、アスタロトが考えているようには思えない。贖罪でもないのだろう。
 ただ、今できる事をしたいと、それだけを思っているように見えた。
 今、脅威が過ぎ去り、崩れたこの街で、正規軍将軍でもなく、炎帝公でもなく、アスタロト公爵としてでもなく、アスタロト――アナスタシアとしてできる事を。
 黙々と瓦礫を拾い、集め、また拾う。その行為を続ける事で、彼女の中にあるものを忘れようとしているように見えた。






 室内に滑り込んだ男を振り返り、ロットバルトは驚きを浮かべた。
「エイセル――」
 その驚きは、彼がここに来る事がロットバルトにとって想定外だった事に加え、今動く為に、必要な手札が思いがけず・・・・・揃った・・・事を意味していた。
「ロットバルト様」
 男――エイセルは剣を掴んでいた懐から手を抜き、やや進んで床の上に片膝を落とした。ロットバルトの館に仕えている――正確にはヴェルナー侯爵がロットバルトの護衛として付けた、ヴェルナー侯爵家が抱える間諜の一人だ。
「ご無事で何よりです。このような状況になる前に対応すべきところを、お許しください」
 素早く言ってエイセルは顔を上げ、ロットバルトを見上げた。
「今は見張りがおりません。ですがそれも僅かの間でしょう。今の内にここを」
「見張りがいない?」
 ロットバルトが眉を潜める。
「はい、留め置かれていた者が逃げ出したと騒ぎになり、出払っております」
 窓の外へ目を向けたロットバルトは、硝子に映った室内に動く影を捉えた。エイセルの背後――扉だ。
「エイセル!」
 ロットバルトが警告を発すると同時に、エイセルは身を捻った。左肩を振り下ろされた剣が掠める。
 開いた扉の前にオルブリッヒがいた。
 オルブリッヒは震える腕で剣を構え直し、エイセルへと突き付けた。
「お、お前は誰だ! 一体どうやって、ここに」
 エイセルは懐から短剣を抜き出し、床に片膝をつき身を低く構えた。
「オルブリッヒ隊長か。貴方こそ、何をしに今、ここへ来た」
 問われ、オルブリッヒは忙しく瞳をさ迷わせた。正面のロットバルトの姿を捉えようとし、真っ直ぐ捉える事ができずに反らす。
「わ、私は――」
「その剣で、何をするつもりだった」
 容赦なく問い、短剣の切っ先をオルブリッヒの喉の延長線上に置く。ピタリと定められたそれに対し、オルブリッヒの掴んだ剣先は、腕の震えを伝えて小刻みに上下している。
「オルブリッヒ隊長」
「だ、黙れ!」
 オルブリッヒは喉を詰まらせ、絞り出した。
「ロ、ロットバルト様――貴方には、死んで頂かなくてはならないのだ!」
「何という――主家の、恩義を」
「兄は結論を出したのか」
 オルブリッヒはびくりと肩を震わせた。
「私を殺せと?」
「――そうだ! ヘルムフリート様の決定だ!」
 闇雲に剣を振り回してオルブリッヒが突進する。無軌道な剣筋は逆にエイセルの短剣が割り込む余地を与えず、エイセルの左腕を裂く。
「ッ」
 それでも更に踏み込もうとしたエイセルを、ロットバルトは肩を掴んで押し退けた。エイセルが驚きたたらを踏む。
「ロ――、何を!」
 ロットバルトは振り下ろされる剣を身を逸らして避け、次の一歩で懐へ踏み込んだ。腕を捩じり上げられ、オルブリッヒが呻き声を上げ剣を取り落とす。
 同時に背後から手が伸びたかと思うと、オルブリッヒの身体が弧を描き、床に叩き付けられた。
 オルブリッヒを取り押さえたのはロットバルトでもエイセルでもなく灰色の服に身を包んだ壮年の男で、男はそのまま背中に膝を落としオルブリッヒを床の上に押さえ込んだ。捩じろうとした首を男の手が抑え、オルブリッヒはくぐもった声を上げて辛うじて自由の利く足をバタバタと鳴らしている。
 エイセルが床に屈み落ちた剣を拾い上げると、息を吐いた。
「ロットバルト様、そのような行為はお止めください、対応は我々に――」
「私は仮にも近衛師団の中将だ。剣の扱いはそれなりに長けている」
「いいえ――」
 エイセルは膝をつき、ロットバルトを見上げた。
「貴方は、ヴェルナー侯爵家の継承者です」
 ロットバルトは答えず、ただエイセルを見下ろした。蒼い双眸に明らかな苛立ちが浮かんでいる。
 だがエイセルは僅かに膝を進めた。
「ロットバルト様。ヘルムフリート様の御意志は、これ以上は変わりません。どうぞ私と、このブロウズにお命じください」
 諦めて抑えられるままになっていたオルブリッヒが、唐突に身体を震わせた。
「ブ、ブロウズ――?」
 オルブリッヒを抑えている男が右手の下に視線を落とす。
「ブ、ブロウズは、その男は、生きてるのか?」
「――何の事だ」
「わ、私が、埋めたはず――」
 エイセルが男を見る。オルブリッヒの首に置かれた男の腕に、一瞬血管が浮き上がった。オルブリッヒが呻く。
「待て」
 ロットバルトの制止で、男が腕の力を緩める。ロットバルトはオルブリッヒを見下ろした。
「ブロウズを、埋めたと言ったのか」
「わ、私は埋めただけだ! 殺したのは私じゃない! 私は、ヘルムフリート様に命令されて」
「――ブロウズ・・・・
 ロットバルトの視線はオルブリッヒを抑える男へと向いている。オルブリッヒは自分を抑える男がそのブロウズなのだと、悟った。
 首に掛かる手が喉全体を掴み、今にもぐしゃりと握り潰すのではないかと思え、オルブリッヒは悲鳴に近い声を上げた。
「こ――殺した、いや、斬ったのは、ヘルムフリート様と、トゥレス大将だ!」
 ロットバルトはオルブリッヒへと再び視線を落とし、そして外した。
 オルブリッヒはうつ伏せに抑えられたまま、なんとか自分を抑える男と視線を合わせようと首を捻る。
「わ、悪かった――許してくれ、私には、どうしようもなかった、ヘルムフリート様に呼ばれた時には、もう――ほ、本当だ! で、でもい、生きていたんなら」
「お前が埋めたのは、私の息子だ」
 感情を抑えた声が降る。オルブリッヒは束の間ぽかんと自分を押さえ付ける男を見つめ――それから意味を飲み込むと、蒼白になって身体を強張らせた。
「……ゆ、許してくれ! 私は、本当に、命令されて、ほ、本当に埋めただけなんだ!」
「ロットバルト様――」
 エイセルの目がロットバルトへと訴えを込めて向けられる。
 ロットバルトはエイセルの訴えるものが正しく取るべき道と理解していながら、それを選択するのを躊躇っている。おそらくロットバルトはずっと、踏み込まず躊躇っているのだ。
 自らの意志を定める事を。
 定める必要があると認めている事を。
「ロットバルト様」
 もう一度名を呼び、エイセルはロットバルトへと、真っ直ぐに視線を向けた。ブロウズもまた、オルブリッヒを押さえつけたままロットバルトを見上げている。
「お命じにならないのですか」
 ロットバルトは答えず、エイセルに視線を返すだけだ。エイセルが言葉を継ぐ。
「もはやヘルムフリート様が外部の手を借り、御父君を手に掛けられたことは確実です。これを看過しては、今後ヴェルナー侯爵家は立ち行かなくなるのではないかと、危惧しております。故に僭越ながら、私共は、貴方様が私共にお命じになることを、進言させていただきます」
 答えは無く、それでもエイセルは口を閉ざさなかった。
「ロットバルト様――どうか」
 ロットバルトが視線を逸らす。
「この火急時にヴェルナー侯爵家が崩れれば、それは国家の体制をも揺るがすのではございませんか」
 エイセルは片膝をついた姿勢で、深々と頭を下げた。
 室内はしんと静まり、喉元を絞められるような息苦しさに満ちている。
 ただ、その沈黙はそれほど長くは無かった。
 やがてロットバルトは静かに息を吐き、エイセルと、ブロウズを見据えた。
 その双眸の蒼は、久しくそこに無かった色だ。
「――ルスウェント伯爵の身の安全を確保して欲しい。恐らくこの邸内に留められているだろう、兄の警備隊は分散させるほどの人数はいないからな。そのオルブリッヒに聞けばいい。それと司法官が留め置かれている。状況を見て彼等も解放してくれ」
「承知しました」
 エイセルは姿勢を正し、膝に額が付くほど顔を伏せた。
「それからブロウズには、探してもらいたいものがある。これは恐らく、兄の館にあるだろう」







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2017.7.2
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