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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』

十八

 目を開けて初めに見えたのは、格子状の木組みと漆喰の天井。
 光を感じ首を巡らせると、陽光をたっぷりと蓄えた格子窓があった。
 四角く切り取られた空が気持ち良く晴れている事に喜びを覚え、ラナエは口元を笑みに綻ばせた。爽やかな天候で、きっと今日の林檎の収穫も捗るに違いない。
 あれ、と首を傾げる。
「私、砂糖煮を作ろうと思ってたんじゃなかったかしら」
 ばたばたと床を鳴らして慌てた足音が行き来している。それが複数の人のものだったために、初めは隣家から届く音のように聞いていたが、また首を傾げた。今住んでいる林檎園は、周りに民家が無い。その時ちょうど扉がバタンと開き、ラナエは首を巡らせた。
「イリヤ、あなた、何を慌てて――」
 声が喉の奥で掠れて消える。
 イリヤではない、全く見も知らぬ男が数人、戸口に立ってラナエを見ている。
 ラナエは強張った喉から悲鳴を上げた。


「こんな若い娘を、しかも身籠ってるのを怖がらせるんじゃないよ兵隊さん。スクード、あんたもだ」
「すみません、リンダ伯母さん」
「軍の大事な話だっていうからあたしゃ外に出てるけど」
 スクードの伯母リンダは、やや信用ならない目で甥のスクードとワッツを睨んだ。他の兵士達はとっくに居間に追いやられてしまっている。
「ちょっとでも悲鳴が聞こえたら叩き出すからね」
 そう釘を刺し、厚い手のひらでラナエの肩をそっとさする。「気分は悪くないね? すぐそこにいるからね、何かあったら遠慮なく大声出しな」
 ラナエはリンダへ頭を下げた。
「ありがとうございます。大丈夫です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「そんなかしこまっちゃ身体に良くないよ。さぁさ、あったかいお茶でも飲んで。これはちゃんとあんたの身体にもいいやつだから」
 もう一度ジロリとワッツを睨み、「全く、あんたも奥さんいるならちょっとは気を使いなよ! だめだねぇ!」とぐさりと刺してリンダは外へ出た。
「いや、申し訳なかった、本当に……」
 ワッツはリンダの鋭い視線に押され、普段の厳めしさなどすっかりどこかへ放り出し、筋肉の張った大柄な身体を縮めている。剃り上げた頭を手でさすり、そのまま頭を下げた。
「野郎ばっか相手に慣れちまってて……」
「本当に、怖がらせてすみません」
 スクードもしゅんとして頭を下げ、二人してそのまま固まっている。
「あ、あの……」
 と言い、ラナエは寝台の背もたれに寄りかかりながら二人の頭を交互に見て、困った様子で首を傾けた。
「申し訳なかった!」
「すみません!」
 二人の頭が更に下がる。
「――そんなに、頭を」
 ラナエはもう初めの恐怖は消えていて、目の前のかなり恐そうな兵士二人が身体を縮めているのを見る内に、次第に可笑しさが込み上げてきた。
「ふふっ」
 零れた笑いにワッツ達の目がそろりと上がる。
「もう、怖くありません。どうぞお顔を上げてください」
 ワッツとスクードは目を見交わし、頭をそろりと上げた。まるで親に叱られたいたずら坊主のようで、ラナエが声を立てて笑う。
「すみません、笑って」
 と言いながら、ひとしきり肩を震わせている。
 ワッツはその姿を眺め、これまでずっと身体に篭っていた力が抜けていくのを感じた。そう、ずっと身体が強張ったままだった。
 そして久しく、笑顔というものを見ていなかった事に気付いた。
 何日ぶりだろう、と思い、しかしその笑顔は、つい昨日の昼には当たり前のように目にしていたものなのだと、そう思う。
「本当に、失礼をしました」
 もう一度頭を下げ、それから身体を起こす。粗末な木の椅子が軋んだ。その音さえも気持ちを軽くするようだ。
(笑うってのは、大事だな)
 疲れて定まらなくなった心を、本来あるべき視点に立ち返らせてくれる。
「ラナエ――さん」
「ラナエ・ハインツと言います」
「ハインツさん。貴方が何故ここにいて、我々が何故貴方をここに連れてきたのか、貴方の夫君がどこにいるのか、説明させていただきたい。このスクードが、ご夫君のイリヤ殿から直接聞いた話です」
「――はい」
「そして、貴方の考えをお聞きしたい。貴方の目から見た考えを」
 ラナエはワッツの視線を受け止め、頷いた。
「はい」
 それは目の前の相手から再び笑顔を失わせる内容でもあったが、最終的に笑顔を取り戻すためには越えなければならないものでもあった。
 ワッツの言葉を、ラナエは顔を強張らせて聞いていた。時折、そこにある存在を守るように腹部に手を回す。
 このアボット村へ辿り着いた経緯まで話し終えると、ラナエはしばらく俯いたまま、眉根を寄せて何かを耐えていた。
 風が村に広がる茶畑の葉を揺らすのか、窓の外の光が時折移ろう。
 騒めきと、鳥のさえずり。
 やがて、ラナエは顔を上げた。
「ありがとう、ございます」
「――」
 ワッツとスクードが身じろぐ。苦しかった。
「皆様に、ご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ありません」
「いや、俺達は」
 ラナエは真っ直ぐワッツへ眼差しを向けた。
「イリヤは――彼は」
 窓から差し込む日差しが日焼けした木の床を細く照らしている。その輝きをラナエは一度、眩しそうに見た。
「お父様からいただいた名を、ミオスティリヤと言います」
 ミオスティリヤ、とワッツは繰り返した。
 ミオスティリヤ――ボードヴィルが掲げた王太子旗に描かれていた若草。
 膝に置いた手をぐっと握り込み、ラナエの瞳を見つめ返す。
「イリヤはその名前に込められた意味を、知らずに育ちました。忘れな草ミオスティリヤは彼にとって、自分が忘れ去られた象徴でした。そして、彼が想像したその意味のために、罪を――犯してしまった。でも、それは」
 ワッツ達を見つめたまま首を振る。
「私達のせいでもあったんです。私達が――」
 すみません、と言った手が、微かに震えて麻の掛布を握る。
「それでも彼は、彼の名前に込められた本当の意味を、想いを、知りました。今――、私達が許されているのは、許されないことなのかもしれない。いつも考えます。あの林檎園で私達は、なんて幸せなのかと」
 ラナエがそれを、またそこに戻れると考えているのか、もはや失われたものだと考えているのか、それはワッツには読み取りようがなかった。
 ただ、ラナエは疲労の覗く面を真っ直ぐに持ち上げ、ワッツを見ていた。
「私達はもう、罪を重ねてはいけないんです」
 静かな澄んだその眼差しを、人は、人生のいつの時点で、何度得るのだろう。
「どうか止めてください、イリヤを。彼の望みの通りに。私はそのために、自分ができることを行います」






 
 オルブリッヒは額に汗を滲ませ、肩で息を切らしていた。
 丸い卓の上に横たえた剣を、まるで近寄った瞬間にひとりでに自分を切りつけるのではないかと、そう恐れているように及び腰で見据えている。
 黒い鞘に包まれたそれは、近衛師団の紋章が入った剣だ。
 そして今朝方、まさにヴェルナー侯爵を殺害した剣でもある。
 オルブリッヒは時計を見た。午後の二刻になろうとしているところだ。ずっと、邸内の見回りや配備体制の確認などと何度も理由をつけては部屋を出て、もうこれ以上行くところも無くなった。
 行っていないのは、ヘルムフリートに命じられた、三階のあの部屋・・・・だけしかない。
 オルブリッヒはぶるりと身体を震わせた。身体の芯からとめどなく、震えが込み上げてくる。
 ヘルムフリートははっきりと、殺せと――命じた。
(わ、私は)
 人を殺した事などない。考えた事もない。
 これまで裕福な家庭で育ち、剣が得意で、親の縁でヴェルナー侯爵家の警備隊へ入隊した事は自慢だった。長子の警備隊に任命された事も優越感を覚えていた。
 その地位はつい昨日まで、侯爵の考えとあの存在により揺らぎ、不満を覚える事が多かったとしても――今朝からは違ったのだ。
 もう揺らぐ事はない。
 ヘルムフリートが当主だ。
 それなのに今さら自分が人を殺すなど、考えもしなかった。
 この手で。
 考えると手が震えて、眩暈がする。
 しかも殺せと命じられている相手は、憎いと思った事はあっても、オルブリッヒが仕えるヴェルナー侯爵家の人間なのだ。
(こ、殺したら――私はどうなるんだ……?)
 剣が目の中に飛び込んでくるように思え、オルブリッヒは咄嗟に顔を反らした。
「オルブリッヒ隊長」
 ギクリと飛び上がり、オルブリッヒは扉を振り返った。
「な、何だ!」
「隊長?」
 自分を凝視しているオルブリッヒを、戸口に立った部下が戸惑った顔で見返している。
「ヘルムフリート様が」
 オルブリッヒは慌てて、扉と、卓に置いた剣を何度も見比べた。
「隊長? あの、ヘルムフリート様が報告はまだかと」
 鼓動が跳ね上がる。
「隊長……?」
「わ、判っている! すぐにご報告致しますと、そうお伝えしろ!」
 驚いたままの部下を追い払い、オルブリッヒは荒々しく扉を閉ざすと、卓を振り返った。
 肩で呼吸を繰り返し、そろりと、卓へ近付く。
 手が震える。
 ヘルムフリートはオルブリッヒに命じた。
 オルブリッヒが命令を果たせなければ、ヘルムフリートは口封じにオルブリッヒを殺すだろう。
 ヘルムフリートは既に二人、殺している。
 父侯爵、それから、先日オルブリッヒが遺体を片付けた、侯爵家の間諜だという男。
 確か、ブロウズと――
(私には関係ない!)
 思い出しかけた名前を慌てて打ち消す。オルブリッヒには関係がない。あの時既に死んでいた。オルブリッヒはただヘルムフリートの命令通り、遺体を片づけただけだ。
 ただ、ヘルムフリートは、オルブリッヒも殺す事を躊躇わないだろう。
 呼吸が荒く、室内に響いている。
 ぶるぶると震える手を、何とか持ち上げる。
 細心の注意を払わなければならない。
 自分が、手に掛けるところを、誰かに見られたら――それでもオルブリッヒの人生はそこで終わりだ。
「う……う」
 唾を飲み込み、剣の鞘に手を伸ばした。



 ヴェルナー侯爵邸の北翼が騒がしくなった。
 地下に入れられていた数人が逃げたようだと警備隊士が声を上げて慌ただしく走って行く。
 一人が三階へ駆け上がり、ロットバルトのいる部屋の前に立っていた警備隊士へ声をかけた。
「おい、お前も来てくれ、人手がいる!」
「え、でも」
 警備隊士は戸惑って自分の背後の扉を見たが、呼び掛けた同僚はもう一度手招いた。
「隊長の命令だ」
「――判った」
 隊士が扉の前を離れ、廊下から人気がなくなると、三階は唐突にしんと静まり返った。
 その板張りの床を、そっと踏んだ足が微かに軋ませる。
 息を殺して廊下を扉へと近付く。
 左右に誰もいない事を確かめ、服の下に隠した剣をいつでも抜けるよう意識しながら、取手に鍵を差し込んだ。
 素早く扉を開け身体を滑り込ませる。
 窓際に立っていたロットバルトが振り向いた。







 昼の二刻を過ぎて、ファルシオンの寝室は静かな空気に満たされていた。
 起きていると言い張ったファルシオンは、それでも寝台に横になると吸い込まれるように眠りに落ち、今は穏やかな寝息が微かに耳に届いている。
 レオアリスは窓際に立ち、ファルシオンが眠る寝台の天蓋の形を、見るともなしに見つめていた。
 室内も、館の外も、不穏な様子は少しも感じられない。
 つい数刻前まで次々と吹き上がった出来事が嘘だったかのように、何の動きもなかった。
 とても静かだ。
 息苦しさすら覚える。
 ずっと考え続けてしまう。
 考え、否定し、考え、否定し。
 もし。
 もし、ワッツの報告した兵士の言葉が本当なら――
 何度も、何度も、繰り返し頭に浮かぶ。否定する。
 ワッツの、情報の事を
 考えてはいけないのなら
(でも、俺は)
 何度も考える。
 自分は、幾つもの断片を目の前に確かに見ながら、ずっと動いてこなかった。
 いつかの時点で動いていたら、何か変わっていただろうか。
 何が変わっていただろうか。
『ファルシオン殿下の守護に、集中を』
(判ってる)
 何度も考える。
 何度も考える。
 何度も――
 コツコツと、軽い金属音が三度、耳を打った。
 その軽い音はどこか虚ろに室内を震わせ、レオアリスは視線を上げ扉を見つめた。
 ハンプトンが静かに扉を開けて室内に入り、寝台をそっと確認してからレオアリスへと眼差しを向けた。
「近衛師団第二大隊のトゥレス大将がお越しです」



 ハンプトンに案内された部屋には、先に控えていたフレイザーと、そしてトゥレスが部屋の中央に卓を挟んで置かれた椅子に座っていた。
「トゥレス――」
 トゥレスはやや身体を捻って振り返り、レオアリスが自分の前に座るのを待っている。部屋は細い縦長の窓が五つ正面の壁に並び、陽の光が五つの筋となって椅子の足元に差し掛かっていた。
 椅子を引き座る間も、トゥレスの視線が追っているのが判る。
 レオアリスは椅子に浅く座り、卓を挟んでトゥレスと向かい合った。
「悪いなレオアリス、殿下の警護中に」
「いや、今は休まれてる――どうしたんだ」
「少し、急ぎで話したい事があった。その前に」
 トゥレスの視線がレオアリスの背後に立つフレイザーをちらりと掠める。
「悪いが、フレイザー中将には外してもらえないか」
 トゥレスの言葉を受け扉へ向かおうとしたフレイザーを、レオアリスは手を上げて止めた。そのままトゥレスへ視線を注ぐ。
「――何故だ。情報は可能な限り共有したい。フレイザーがいると話せない内容か?」
「まだ不確定な話なんだ。さすがにお前以外には聞かせられない」
 レオアリスは束の間、口を閉ざしトゥレスを見ていた。
 フレイザーの瞳は問い掛けを含んで自分に向けられている。
 トゥレスは卓に手を組み、レオアリスの判断を待っている。
 トゥレスが何の話を持ってきたのか、フレイザーの同席を拒む理由がどこにあるのか。けれど部下を入れず大将の間だけで話をする事自体は珍しくはない。特に今の状況下では、情報の共有と同様に、統制もまた重要だ。
(それなら――)
 鼓動が耳につく。
 ロットバルトの顔が思い浮かんだ。
『トゥレス大将は』
 鼓動が、鳴る。
 あの話をしたのは、たった二日前の事だ。
 今、トゥレスがファルシオンの居城を訪ねて来てまで持ってきた話が何か――
 ややあって、レオアリスはフレイザーへ顔を向けた。
「――フレイザー。殿下のお側にいてくれ」
 フレイザーはレオアリスの面をじっと見つめ、一度口を開きかけたが、それを収めて頷いた。
 トゥレスはフレイザーが廊下へ出て扉を閉ざすのを見送り、もう一度悪いな、と言った。
 首を振って答えたものの、レオアリスは自分の判断がそれで良かったのか、この瞬間から迷い始めていた。
(相手はトゥレスだ)
 心の内で呟いたその言葉は、これまでと同じ一つの意味しか含まないものではなくなっている。


『トゥレス大将は場を搔き回しすぎるな』
 ロットバルトがいつか――つい最近だ、どこかでそんな事を言っていたのではなかったか。
『いつもこう・・ですか』


「――」
 ロットバルトは、トゥレスの動向を探るために彼の部下を付けていた。ブロウズという男だ。
 ブロウズは、イリヤ達の果樹園の調査を侯爵家から正規軍に依頼する為、ロットバルトの書状をヴェルナー侯爵に届ける途中で行方が分からなくなっている。それが、四日前の晩――
(あの書状は、どこにある?)
 ロットバルトが襲撃に遭ったのは、その翌日だ。
 その襲撃にトゥレスが関わっているのではないかと、ロットバルトはそう推測していた。
 確証が無く、推測に過ぎない。
 それでも。
『搔き回し過ぎる』
 ロットバルトが審理を受ける後押しをしたのは、トゥレスの言葉だったのではないか。


「どうかしたか?」
 トゥレスはレオアリスの瞳を、真っ直ぐ見つめている。
「顔色が良くないぜ。まぁ回復してないんだろう。昨日――」
 トゥレスの瞳の色を、初めて意識したように思う。
 深い森を思わせる緑。
「お前は剣を一振り、失ってるんだしな」
 鼓動が、鳴る。
「本当は動けるほど、回復してないんじゃないか? 今朝の事だって、あれは無茶しすぎだっただろう」
「――大丈夫だ」
「大丈夫って言葉は、俺はあんま信用しないようにしてんだよなぁ」
 鳩尾に熱がある。
 実態はなく、けれども絶え間なく骨と肉を焼く熱だ。
 レオアリスは喉元にとどまっていた空気の塊を飲み込んだ。
「本当に、問題ない。それは確かに、普段どおりって訳にはいかないけどな」
「そうか。まあ無理はするなよ」
 トゥレスは普段と変わらない苦笑を浮かべ、それから身を乗り出した。声がやや躊躇いを含む。
「そんな事言っときながら、こんな時に、お前にこの話を持ってくるのはどうかとも思ったんだが……」
 注がれる瞳に浮かんでいる光。森の木々が葉に照り返す光の拡散に似ている。
 ふいに脳裏に警告が浮かんだ。
 トゥレスの言葉を、このまま聞くべきではない。
 今すぐ席を立ち、この場を離れなくては――その判断を、すべきだ。
 判断を。
「――トゥレス」
「陛下のお姿を見たと言った兵士と、話ができる」
 一瞬、全ての意識が、真っ白に塗り替えられた。
「――王都にいるのか?! どこだ――どこに」
 レオアリスは卓に手をつき、身を乗り出して半ば立ち上がった。トゥレスが落ち着かせようと片手を上げる。
「いや、まだサランセラムにいるんだ。ただ、お姿を見た兵士は特定できたってことだ」
「――」
 サランセラム、と微かに繰り返し、レオアリスは椅子に身を落とした。ただその行為も無意識だ。頭の中では、一つの言葉だけが音を鳴らしている。
「そ、の兵士は、何て……」
「重傷を負ってるせいであまり長く話せないって事だが、直接話ができれば今より判る事があるはずだ。陛下の御身について――」
 鳩尾に手を当て、震える指を握り込む。
 迫り上がる呼吸を抑える様子へ、トゥレスがじっと視線を向けている事に気付いていなかった。
 ゆっくりと息を押し出し、それを繰り返す。その都度指先は強く手のひらに食い込む。
「その兵士の話次第じゃ、ファルシオン殿下にもお伝えする必用があるだろう。だから相談に来たんだ」
 ファルシオンの名は、レオアリスの思考を白く塗り込めた闇を、一瞬晴らした。
(殿下――)
 白い闇の中に浮かんだファルシオンは、不安げな瞳を見開いて、レオアリスへ向けている。
 兵士が見た存在が、本当であれば――
 けれどもし見間違いだったならば、その時にファルシオンが受ける苦しみは今よりも何倍も痛みを増してしまう。
 今、何よりも重視しなくてはいけないのは、ファルシオンの身の安全であり、幼い心をこれ以上の混乱と衝撃から守る事だ。
 レオアリスは自分の肺が空気を取り込み、吐き出すのを意識した。
「……トゥレス、悪いが、新しい情報が出たら、教えて欲しい」
 肺の動く間隔を数える。
「ただ、今の時点ではファルシオン殿下にも、お伝えしない方がいいと思う。もっと、正確な」
「レオアリス」
 低く、忍び入る響きだ。
「転位陣がある」
 レオアリスは瞳を見開き、呼吸を止めた。
「――転位、陣――」
「大戦時代の古いものだが、まだ動く」
 トゥレスの言葉は、頭の奥のどこかでくぐもって聞こえるようだった。
「うちの法術士の見立てじゃボードヴィルがあるサランセラムに飛べるって話だ。行って戻るのにそう時間はかからないだろう、まあ三刻ありゃ充分足りる。転位陣は、深夜の――、一刻頃には整う」
 どくりと、こめかみが脈打つ。
 指先が。
 爪先。
 喉。
 心臓。
 鳩尾が。

「お前、行くか――?」







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2017.6.18
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