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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』

十六

 十刻を過ぎて太陽は頭上高く上がり始め、気温もじりじりと肌を撫でるように熱を増していた。今日は朝からじっとりと蒸し暑く、半刻も鍬を振るえば薄い衣服では汗を吸い切れないほどだ。
 ミストラ山脈から吹き下ろす風も生暖かく、肌に触れればそれでも心地よさを感じる反面、どこかざらついた、震えを覚えさせるものも含んでいた。
 畑を耕していた四十半ばの男は空を眺め、そろそろ休憩をしようと鍬を下ろした。もうすぐ弁当を持って彼の妻がやって来る頃合でもある。男はミストラ山脈の北寄りの麓に位置するシュッテ村の住民で、村を囲む疎らな林の外側に畑を開墾して暮らしていた。
 畑から出て荷物と共に置いていた水筒に手を伸ばし、緑の草の上に座ると水筒から水を煽る。朝に井戸から汲んだ水はすっかりぬるい。
 それでも身体に染み渡る心地よさを覚え、ふぅっと息をついた時だ。
 耳慣れない音が聞こえた。
 初めは木の幹か何かを擦る音だと思ったが、耳を傾けた男の顔はだんだんと強張った。それが獣の唸り声だと気付いたからだ。
 それも一つではなく、いつの間にか幾つもの唸り声が自分を囲んでいる。そして唸り声は次第に輪を狭め、近付いて来ているようだった。
「な、何だ……」
 思い浮かんだのは鋭い牙を持つ獣の群れの姿――例えば狼。
「こんな真っ昼間に」
 この時期この辺りで、しかも真昼に狼の群れが出たとはこれまで聞いた事が無い。けれど唸り声はもう既に男をすっかり取り囲み、おそらくは四、五頭はいるのではないかと思われた。
 見えない獣の恐ろしさに震えながら男は慌てて手を伸ばし、傍らに置いた鍬を掴んだ。
 ふいに、隣家の畑がある方向から身も凍る悲鳴が響いた。男を囲む唸り声が一際増す。
「う、うわあっ」
 男は鍬を剣のように持ち上げ、悲鳴の上がった林を振り返った。
 男の背後の茂みが揺れた。



 その一報がサランバードにもたらされた時には、事が起きてから既に二刻が過ぎていた。とは言え山脈筋の小さな村で起きた異変が僅か二刻で伝わったのは、正規軍東方第七大隊の一小隊がシュッテ村のほど近くに宿営地を持っていたからだ。
 馬でほぼ一日の距離のあるサランバードでは、気付かれる事もないまま被害は拡大し続けたかもしれない。
 そして実際に、未だ気付かれていない村は確実にあった。それは昨日の昼過ぎから起こり始めていたのだから。
 だが、まだそれは、辺境の小さな村での一つの事件に過ぎなかった。
 馬にしがみつくように宿営地へと逃げてきた村人は、辿り着いた時は背中や脚に深い傷を負い、息絶える寸前だった。
 男の最期の言葉を聞き、傷がどれも牙や爪によって付けられたものと見て取ると、第七大隊右軍軽騎兵隊少将ブレメンはサランバードへ急報を上げると共に、小隊の半数、五十名と共に村に向かった。



「――何てことだ……」
 シュッテ村に近付いた辺りで、既に兵士達は言葉を失っていた。
 土を均しただけの細い道に、逃げ出した村人達が何人も倒れている。先頭の兵士が馬を降りて倒れている一人の息を確かめ、首を振る。彼等は既に事切れ、そして一様に目を背けたくなるほどむごたらしい傷を負っていた。
「どれだけいたんだ、その、獣ってやつは」
 呟きが兵士の口の中で揺れる。
「急ぐぞ、村が心配だ」
 ブレメンは危機感を募らせ、騎馬の速度を上げて狭い村道を駈けた。宿営地に駆け込んだ村人は、突然獣の群れに襲われたと言った。見た事もない、灰色の毛並みをした熊に似た姿だったという。
「十頭近くいたらしいが、熊が群れるか?」
「でかい熊だったら小隊半分じゃ厳しいかもしれないぞ」
「おい、村だ」
 村の入り口の、丸太を組んだだけの簡素な門が視界に入る。
「気を付けろ、まだ獣がいる可能性が高い」
 やや速度を落とし近付きながらブレメンが指示を出す。
「獣には最低二人で対処しつつ、生存者を探せ」
 ちょうど村の門を抜けた時、ふいに馬が怯えたように鼻を鳴らし脚を止めた。
「どうした」
 ブレメンの声を打ち消し、咆哮が響く。それはすぐに唸り声に変わった。
 唸り声がぐんぐん近付く。
「少将!」
 右奥の茂みが鳴る。
 飛びかかった黒い影へ、ブレメンは咄嗟に剣を払った。重い感触が剣を通じて腕の骨に響く。
「ぐッ」
 じんと痺れた腕で剣を構え直し、ブレメンは騎馬の向きを変えた。途端に目の前に鋭い爪が閃き、驚いたブレメンの騎馬は前脚を高く振り上げた。その拍子に鞍から放り出される。
「ブレメン少将ッ!」
 生臭い風が顔にかかった。地面に背中を打ちつけ、同時に獣がのし掛かる。目の前に開いた顎に、ずらりと並んだ鋭い牙が見えた。
 咄嗟に死を覚悟した瞬間、駆け寄った兵士の剣が獣の背へと振り下ろされた。剛毛をまとった分厚い背中が剣を弾き返す。
 獣は狙いを変え、身を起こした。後足で立ち上がった躯は、六尺近くある兵士の頭を優に超えている。
 ブレメンは自分も剣を掴み直し、素早く立ち上がって構えた。門をくぐり、広場に部下の騎馬がなだれ込む。獣は立ち上がったまま全身を緊張させ、唸り声を鳴らしてブレメン達を睨んだ。
「熊――、いや、何だこいつは」
 熊に似ているが、時折ミストラ山脈で見掛ける熊とは明らかに違う。
 鼻面は熊よりも長く狐を思わせ、牙は鉄の盾も一噛みで貫きそうに鋭く太い。前脚が後脚と比べ不均衡なほど長く伸び、四本の爪は一つ一つが鎌のように湾曲していた。灰色の分厚い毛並みは容易く剣を通しそうにない。事実ブレメンが最初に振るった剣も、ブレメンを助けた兵士の剣も、その躯に傷一つ与えていなかった。
 何より通常の熊と違うのは、尾が虎のごとくしなやかに長く伸び、そして先端に槍の穂先を思わせる鋭い突起がある事だ。
 こんな生物をブレメンも兵士達も見た事が無い。
「何なんだ……」
 呟きを掻き消し、獣は喉を反り返らせ吼えた。腹の底に響く咆哮にブレメン達が思わず身を震わせ、騎馬が浮き足立って嘶く。
 同時に周囲で幾つもの唸り声が湧き上がった。肌がぞくりと粟立つ。
「ま、まだいるのか!?」
 剣も弾くような獣がどれだけ、と焦る思考を巡らせる間にも、左右の茂みを揺らし、灰色の獣がのそりと現われた。
 一頭、二頭――茂みだけではなく広場の奥に建つ丸太造りの家の陰からも、獣が姿を現わす。ブレメン達を取り囲み、合わせて六頭もの獣が、喉の奥で雷鳴に似た唸りを鳴らした。
 それらの顎や前肢の爪には、まだ赤黒い染みがこびり付いていた。獰猛な目が灰色の毛の奥から人間達を見据えている。
 彼等が自分達を、何だと見ているのか――本能的な恐怖に頭の芯が痺れた。
「少将ッ」
「――複数で戦え! 背中は剣が通らない! 腹か喉を――」
 立ち上がっていた正面の獣が、右前肢をブレメンへ向けて振り下ろす。辛うじて避け、身を撫でた風圧にぞっとしながら、ブレメンは強く握った剣を振った。







 十一刻を報せる鐘の音が、まだ室内に残っているように思える。
 フレイザーはファルシオンの居城に上がり、居間の前室に膝をついていた。
 その正面には、先ほど王城から戻って来たばかりのレオアリスが立っている。年若い上官の姿を見上げ、フレイザーは湧き上がった驚きを抑えた。
 昨日の朝、王城へ上がるレオアリスを見た時とは、余りに印象が異なっていたからだ。その印象がフレイザーの胸の奥を掴み、痛みを覚えさせた。
「悪いな、フレイザー。隊を空ける事そのものも、まだ不安が多い」
 レオアリスの声は硬く、特に今は、と継いだ。その後にレオアリスが何を口にしなかったのか、聞かなくても判る気がして首を振り、フレイザーは立ち上がった。
「いいえ――まずはファルシオン殿下の警護を確実にする事こそが重要です。第一大隊は副将とクライフがおりますから」
 ヴィルトールがいれば、という想いを飲み込む。それがおそらく、レオアリスが口にしなかった想いの一つだ。
 ヴィルトール、それから、ロットバルト。
 背後にある広い硝子戸は光を抱え、レオアリスの姿も光に滲むように思える。
(まるで、四年前みたい)
 四年前のちょうどこの季節だった。脳裏に浮かんだその光景は、フレイザーに郷愁に似た想いを抱かせた。
 四年前、レオアリスは近衛師団に入団し左軍第一小隊に配属された。当時グランスレイが左軍中将で、フレイザーは第一小隊の少将だった。
 あの時のレオアリスの記憶として鮮明なものの幾つかに、孤独や戸惑い、それから不安、といった感情があった。
 孤独は隊の中で、剣士として一人だけ、自分が周囲とまるで異なっていたこと。不安は近衛師団という場所で何をすべきか、しるべを見つけられていなかったこと。
 そうした感情の中でレオアリスは、自分が何故そこに立っているのか、戸惑い悩んでいた。
 けれどそれもそう長い期間では無く、レオアリスは自らの標を見つけ、その為に自らの立場に求められるものを次第に理解し、身に付けてきた。
 王がいたからだ。
 自分が誰の為にここにいるのか――レオアリス存在そのものの、しるべ
 王の為――
 王の為に在りたいと願う、自らの強い、そして唯一とも言っていい望みの為。
(ずっとそうだったわ)
 けれど今のレオアリスの上には、四年前の寄る辺ない、あの不安定さが戻っていた。
(違う――あの時よりも、もっと)
 もっと不安定だ。
 剣を一振り失ったと聞いた。
 身体の内で砕けたと――
 想像する事の叶わない苦痛は、フレイザーの心を掴む事でその断片を伝えてくる。
(私ができることは、何――)
 レオアリスの面は血の気を失ったように白い。瞳を逸らし、フレイザーは一度その瞳を強く閉じた。

 レオアリスは部屋の奥にある両開きの扉へと近寄り、持ち上げた手の甲で艶やかな表面を叩いた。硬い樫の板に繊細な彫刻を施し磨き上げられ、その上を薄い青銅板が透し彫りのように飾っている。美しく、そして堅牢な造りだ。ファルシオンの休む居間がその向こうにあった。
 重い扉は想像と違って静かに開き、二人を招き入れる。
 扉を開いた侍従長ハンプトンが丁寧に頭を下げる向こうで、ファルシオンが窓際の椅子から立ち上がり、瞳を瞬かせた。
 レオアリスは数歩室内に歩み入り、一度膝をついた。フレイザーもレオアリスの斜め後ろでそれに倣う。
「近衛師団第一大隊、左軍中将フレイザーが着任致しました。共に殿下の御身の守護を務めさせていただきます」
「ありがとう。私よりも、ほかに近衛師団の大切なやくわりがあるのに」
 何よりもまずそう口にしたファルシオンに、フレイザーは深い敬意と痛ましさを覚えた。僅か五歳の幼い王子が今は国を負う立場にいる事は、どれほどの意志があり、そしてどれほどの重荷に耐えているのだろう。
「近衛師団の役割は王家の守護です。ファルシオン殿下をお守りする事が我々の大切な任務であり、誇りです。何か私に力になれる事があれば、どうか何なりと仰ってください」
 心を込めてそう告げると、ファルシオンは柔らかな頬の線を僅かに緩めてくれた。
 居間の東に面した壁からは一面の硝子戸が光を蓄えている。そこから見える庭園は鮮やかな緑の葉を陽射しに輝かせていた。
 ファルシオンは硝子戸の手前に置かれた椅子に腰掛け、レオアリスがその傍らに立ち、それは穏やかな午後の光景そのものに見える。
 けれどファルシオンにも、レオアリスにも、支えが必要だ。
(明日――、査問が終われば、ロットバルトは戻ってくるわ)
 それは恐らく、確実だろう。
 ただ、それまでの時間がとても長いものに感じられる。
(ロットバルトがこんな時に上将の側にいないことは、初めてかもしれない)
 そこはかとない不安が拭えず、一方で、これまでロットバルトに頼り過ぎていた事を改めて感じてフレイザーは申し訳なく思った。ともかく今は、ヴェルナー侯爵家の問題がロットバルトに不利ではない形で収まる事が一番だ。
(でも――)
 フレイザーはもうひとつ不安を感じている。
 今回の事が収まったら、それでロットバルトは戻って来られるだろうか。
(ロットバルトにとって不利でない形っていうのは、彼の潔白が明らかになること――)
 ヴェルナー侯爵が亡くなって、その上で問題が解決する。
 ロットバルトはその時、ヴェルナー侯爵家の中でどのような立場になるのだろう。
 フレイザーはレオアリスの面を見た。
 ちょうどレオアリスの瞳がフレイザーへと向けられ、フレイザーは自分の中の不安を読み取られる事を避けるように咄嗟に目を逸らした。
「私は一度、館内と庭園を見回って参ります」
 そう断り、フレイザーはハンプトンの開けてくれた扉から前室へ出た。
 ファルシオンの館は王城六階の東面を占め、先ほどの居間とその隣の寝室、食堂が館の中央に配置され、やや離れた所に学習室と、客間が二部屋設けられていた。
 それから、王や王妃が訪れた時に憩う部屋があり、今は王妃とエアリディアルがそこにいた。その部屋へ続く廊下には、王宮警護官が柱ごとに立っている。
 ハンプトン達侍従が控える部屋や王宮警護官の詰所、厨房、水場、浴室、その他の細々とした作業部屋や倉庫。フレイザーは館を歩いて回りながら、その位置どりをしっかりと頭の中に刻んだ。
 最後に庭園に出る。館よりも広い庭園は王都の空に張り出すように造られ、居間へと続く温室があった。それから館と離れた場所に侍従達の起居する別棟。
 庭園では王宮警護官達は二人一組で、互いの姿が見える距離を置いて立っている。今、近衛師団第一大隊の二班が警護官と共に居城の警護の任に就いているが、その姿も見える。
 一瞬吹き付けた強い風がフレイザーの緋色の髪を掬い上げて散らし、フレイザーは髪を抑えながら風の吹いてきた先を見つめた。
 西のボードヴィル。
 そこにいるヴィルトールを思い、そしてまた、ルシファーがいるのだと思う。
 ボードヴィルの件も、まだ何も解決していない。
(――まだ、たったの一日だわ――)
「フレイザー中将!」
 庭園に配置されていた第一大隊左軍の准将ノルトが、走り寄って敬礼を向けた。



 フレイザーが居間を出るのを見送り、レオアリスはファルシオンへと視線を戻した。幼い王子は不安と疲労を隠し切れない面を自分に向けている。
(殿下――)
 護らなくてはいけないと、そう思う。
 突然の事態に状況すら定まらない中で、一身に重責を負って、それでも毅然として立とうとしている。
 護らなくては。
 父王の不在の間――まだ僅か五歳のこの王子を、どんなものからも。
(それが、俺に与えられた任務だ)
 王が不在の間。
 そうだ。
 王は。
「――ス。レオアリス」
 はっとして瞬くと、ファルシオンが軍服の袖を握り、引いていた。
「――失礼しました」
 いつ、ファルシオンが袖を掴んだのだろう。気が付かなかった。
 注がれるファルシオンの瞳を受け止める事ができず、咄嗟に目を逸らしかけて、微かな呟きに押し止めた。
「レオアリス、」
 震える呟きがそっと、押し出される。
「父上は、戻っていらっしゃるよね?」
 どくりと、身体の芯が揺れた。鈍い痛みが水が染み出すように鳩尾から広がる。
 幼い、ただひたすらそれだけを願う想いに、レオアリスは答える言葉を持っていない。
「――」
 今はファルシオンの守護だけを考えるべきだ。
 ファルシオンの縋るような希望に、頷いてはいけない。
 警告が頭の中で鈍い音をかき鳴らしている。
 その奥から、抑え難い想いが競り上がってくる。
 目眩がする。
「レオアリス、父上は」
『王の姿を見た者が』
 息が苦しい。
 鼓動が全身で鳴っている。
 砕けた剣の欠片が熱を帯びる。それはじりじりと身体の内を焼いた。
『王の姿を』
『見た』
 鼓動が。
「――陛下、は」
 呼吸を求めるように口を開きかけた時、扉がそっと鳴らされ、応対したハンプトンがファルシオンの側へ寄った。
「ファルシオン様、王妃殿下と、王女殿下がお越しです」
 翳っていたファルシオンの瞳に光が戻る。
 レオアリスはファルシオンの側を離れ、庭園への硝子戸を三枚隔て、そこへ膝をついた。
 ハンプトンが導き、王妃とエアリディアルが室内へ入る。
「母上! 姉上――!」
 ファルシオンは二人に走り寄った。


 レオアリスは膝をついたまま、抑えた息を吐いた。
 鼓動がまだ身体を揺らしている。
 自分が先ほど、ファルシオンの問いに頷こうとしていたのを、判っていた。
(何をやってるんだ、俺は)
 スランザールやベールは慎重に捉えるべきだと言った。その報告を上げたワッツでさえ、見間違いだと考えている。
 兵士が見た姿が王だと、確証はない。
         “剣は砕けた”
 レオアリスが肯定すれば、ファルシオンはそこから離れられなくなる。
 ――肯定?
         “剣は”
 可能性があるのに?
(それの何が間違いなんだ。王は)
(違う)
           “砕けた”
(違う)
(王が)
(駄目だ)
 目眩がする。
 揺らぎそうになる上体を、膝を掴む手に力を込めこらえた。
 ファルシオンの警護に集中しなくては。
(だめだ、こんなんじゃ――)
 自分がどれほど大切な役割を担っているのか、もっと理解しなくてはいけない。
 それをおろそかにする事など有り得ない。
(だめだ)

『王の姿を』

 目の奥が白く瞬く。
 白く。
 王が。
(――俺は)
 白く。
(俺は、何をやってるんだ――)




 エアリディアルは愁いを帯びた藤色の瞳を、硝子戸の前に向けた。
 白い光に満ちたそこに膝をつき、やや面を伏せているその姿は、自分を揺さぶる何かをこらえているように見える。
 今、ファルシオンがその瞳の中に堪えている『希望』と同じ――自らの手にあるすべを知っているが故に、それがより激しく心を揺さぶっている。
(希望――)
 瞳を閉じる。
 自分の中に浮かぶ後悔を、ただ、今の自分から目を背けたい為の感情なのだと、エアリディアルもまた自覚していた。


 




 雷鳴に似た唸りは残り一頭のみの、低く警戒する響きに変わっていた。
 村の広場や狭い村道、そして周囲の草地には五頭の獣と、数頭の騎馬と、二十名近い兵士達が倒れている。
 息が上がった肩を上下に揺らしながら、ブレメン達は最後の一頭を注意深く睨みつけた。獣は全身を緊張させ、それでも隙あらばブレメン達を一人でも多く引き裂こうとしている。
 一呼吸が長く重く思える僅かな時間――唐突に獣は身を翻すと、樹々の茂みに飛び込み逃げ出した。
「待て……!」
 追おうとした兵士をブレメンが手を上げて止める間にも、茂みを分ける足音が遠ざかる。
「深追いするな。仲間がまだいるかもしれん」
「少将! 上空、サランバード本隊です!」
 兵士が頭上を指差し、村の上にひらけた空にちょうど飛竜の編隊が滑り込んだ。獣は飛竜に気付いて逃げたのだろう。
 まだ剣を握りしめていた兵士達は、第七大隊の隊旗をはためかせた紅玉の鱗の飛竜が数騎、広場へ降りてくるのを見て、ようやく力の篭っていた指を解いた。ブレメンも肺の奥から息を吐く。
 上空では四騎の飛竜が逃げた獣を追って林の向こうに消え、村に降り立った飛竜からサランバード本隊の少将ダイナーがブレメンへと歩み寄った。
 ダイナーはブレメンと目線を交わし、それから広場を見回した。遺体はどれも爪によって引き裂かれ牙に噛み砕かれ、のどかだったはずの村は血と撒き散らされた臓物に塗れている。
「……なんて事だ――何なんだ、この獣は」
「判らない。俺も見たのは初めてだ。――飛竜四騎じゃ歯が立たんぞ」
「巣を見つけるだけだ。それより村人を」
 探そう、とダイナーは言ったが、この有様では村の状況は目に見えるようだった。



 飛竜で逃げた獣を追った兵士は、想像していなかったものをミストラ山脈の麓に見た。
 林を縫いながら獣は疾駆していく。疎らだった木々が密集しはじめ、ミストラ山脈の斜面が迫る。
「おい、あれは!」
 先頭で飛竜を駆っていた兵士が持っていた槍の穂先を地上へと向けた。
 獣が逃げていく先に、森と山脈との狭間を蛇行して流れる浅い沢がある。
「何なんだ、一体――」
 その沢を、山の急斜面を下ってきた十数匹の獣が次々と渡っていた。







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2017.5.21
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