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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第二章『身欠きの月』


 
「ミオスティリヤ殿下はどうしておられる」
「貴賓室におられると聞いております」
 ヒースウッドはほっと頷き、城の扉を潜る前にまず砦城を見上げて貴賓室の辺りを確認し、四階へと急いだ。
 石敷きの無骨な床にヒースウッドの足音が響く。階段を昇る間、左の壁に設けられた窓から時折、薄い雲を棚引かせる空と遠方に霞む緑の帯が見えた。
 その手前に、今ヒースウッドがいる位置からは見えないが、城壁から連なり千尋の谷のごとく落ち込む岸壁と、大河シメノスがある。
 西海軍は尚もそこに陣を敷いていた。
(奴らは次にいつ動くのだ)
 昨夜の戦場の惨状、そして昨日日中の西海軍による襲撃時に腹心のケーニッヒを失った事を想い、ヒースウッドは髭を蓄えた口元をきつく引き結んだ。
 込み上げる怒りに流されないよう、顔を振り立て前を見据える。
 ふと、王都に呼ばれて向かった兄伯爵の事が気になった。
(兄上は、どうなさったか)
 何も連絡が無いのだ。兄からも、王都からも。
(――さすがに、おかしいのでは)
 大股に動かしていた足が、次の一歩を踏み出し、止まる。
(レガージュの転位陣をお使いになると言っていた。王都にお着きになったら、ご連絡を頂けると思っていたのに)
 そもそも、兄ヒースウッド伯爵は、ボードヴィルに不穏な動きありと、王都に疑義を持たれて呼び出されたのだ。ヒースウッドは不安を覚えたが、ルシファーは逆に王都に自分達の志を伝えるいい機会になると言った。
(まさか、兄上の説明を、誤解されてしまったのでは)
 そう簡単に信用されない性質のものである事は、ヒースウッド自身もよく判っている。
 ヒースウッドは首を振り、また歩き出した。中央階段を四階まで上がる。不安はむくむくと心の中に頭をもたげていたが、ヒースウッドは極力それを抑え込む事に努めた。
(兄上を信じるのだ。兄上ならばきっと誤解を解いてくださる)
 この国の守護の意志は、王都と変わらずボードヴィルの本懐なのだから。
(昨夜、エメルやワッツ中将達の本隊と合流できなかったのは痛い。ワッツ中将の理解を得、共に力を合わせられればどれほど心強いか)
 現場が混乱しているせいか、伝令使を送っても本隊と連絡が付かなかった。
 四階の床を踏むと、中央階段から東翼へ進み、扉を一つ潜る。静まり返っている廊下の半ばに、衛兵が二人立っていた。
 近づいた扉の前で、衛兵達がヒースウッドへ敬礼を向ける。ヒースウッドは彼等を労い、扉に向き直った。
 貴賓室の扉は無骨なボードヴィルの砦城の中で、ここだけ違う趣を放っている。釣鐘状の厚い銅製の扉は、両開きのそれぞれの枠の中に色彩を帯びた装飾が施され、廊下と室内とを隔てている。
 左右に続く廊下にはいずれの両端にも扉があった。右奥が先ほどヒースウッドが通り抜けてきた扉だ。床は砦の他の場所のような剥き出しではなく足音を吸う赤い絨毯が敷かれ、壁は半ばまで艶やかに磨かれた腰板と、上半分は白い漆喰で天井まで覆われていた。
 丸みを帯びた天井に彫り込まれた彫刻も美しい。格子状の枠に収められたその彫刻の一つ一つが、ボードヴィルの紋章だ。記号化されたサランセラムの丘と砦城を、シメノスを表わす輪が囲っている。
 そして中央に一つだけ、王家の紋章が彫り込まれていた。
 ここは王が来臨した折に使う為の部屋なのだ。それを示すように扉も廊下から三段、高くなっていた。ルシファーでさえも、この部屋は使わない。
 ヒースウッドは背筋を伸ばし、青銅の輪金具を持って丁寧に扉を鳴らすと、やや間があり、それから入室を促す声が返った。くぐもってはいるが、おそらくヴィルトールの声だろう。
「失礼致します」
 声を張り、ヒースウッドは扉を開けた。
 扉の向こうは広い前室になっていて、室内には花を活けた背の高い花瓶が床に置かれ、面会を待つ為の長椅子と卓があり、正面の硝子戸からは光が燦々と注がれている。
 右の壁の扉の前に、ヴィルトールが立っていた。ヒースウッドは踵を鳴らした。
「ミオスティリヤ殿下にお目通り願いたく」
 ヴィルトールが頷き、一度扉を叩いてから把手に手を掛けた。
「ヴィルトール中将」
 思わずヒースウッドはヴィルトールを止めた。把手を回しかけたところで、ヴィルトールがヒースウッドの顔を見る。
「その、ミオスティリヤ殿下の御様子は、如何ですか」
 昨夜の戦場をイリヤは直接見てはいないが、戦場は余りに近すぎ、凄惨すぎた。ヒースウッドにはその事が若い王子の心に与えた傷が心配だった。
 ヴィルトールは穏やかな面に、ヒースウッドには掴み難い表情を浮かべた。
「問題ないとは言えませんが――落ち着いておられます」
「そ、そうですか……いえ、ならば良いのです。差し出た事をお聞き致しました」
「――差し出た事ではないでしょう」
 ヴィルトールはそう言うと、ヒースウッドから身体ごと視線を逸らし、扉を開けた。
「失礼致します!」
 もう一度そう断り、ヒースウッドは開かれた扉を潜った。
 前室よりもずっと広いその部屋の中央にも卓とそれを挟んで三つの椅子が置かれ、正面の一つにイリヤが座っている。 イリヤはヒースウッドの姿を認めると、椅子から立ち上がった。
 ヒースウッドがさっとその場に膝を落とす。右膝を立て、毛足の長い絨毯に左拳をついた。
「ミオスティリヤ殿下、御前失礼致します――! まずは城下の様子について、御報告申し上げます」
 昨日からの度重なる戦闘や西海軍の存在により住民達に不安はあるものの、今は少し落ち着いている事、引き続き街の外へは出ないよう触れを出している事を、一つ一つ説明する。
「我が軍も、ルシファー様におかれても警戒を怠っておりません。西海軍を退ける策を現在模索中ですが、ルシファー様がナジャルを討った以上、奴等の撤退は時間の問題かと」
「それは、どうだろう」
 イリヤは色違いの視線を流し、窓の外を見つめた。
「あっけなさすぎたような気がする。ナジャルは海皇に次ぐ力の持ち主でしょう」
「そ、それは確かに――」
 ヒースウッドが口籠ったのは、ヒースウッド自身もその考えが意識にこびり付いていたからだ。だから、ナジャルを倒したのだと何度となく口にする機会があっても、不安が拭えなかった。
「しかし、ルシファー様のお力と、殿下の御威光とが」
「威光なんて俺には無いし、あったってあんな戦いの役になんか立たつ訳がない。ファルシオンならともかく――」
 イリヤは口を閉ざし、今の言葉を取り消すように首を振った。
「そうじゃない……」
「殿下?」
「兵士の被害は、どれほどだったのか判りましたか」
 イリヤが話題を変えたので、ヒースウッドはやや戸惑いながらもまた頭を伏せた。
「サランセラムに展開していたのは第七大隊左右軍、及び第六大隊の援軍でした。退却した彼等と連絡が取れておりませんので、被害については、未だ」
「――そうですか」
 イリヤの面に刻まれた懊悩を、苦い思いで見上げる。ヒースウッドが安心させる言葉を探そうと俯いた時、イリヤが問いかけた。
「ヒースウッド中将。貴方は、国王陛下にお会いした事はありますか」
 ヒースウッドは慌てて首を振った。
「いえ、わたくしなどは、拝謁に浴せる立場にはございません。役もございます故、ボードヴィルを離れたこともなく」
「そう、ですか。――では、国王陛下のお姿を直接見た事はないんですね」
「はッ」
 顔を伏せ、一呼吸置いてから、ヒースウッドはイリヤを見上げた。
「お役に、立たなかったでしょうか」
「いや、そうじゃありません」
 ヒースウッドはヴィルトールを見たが、ヴィルトールにも咎める色はない。イリヤは心ここにあらずといった様子で続けた。
「昨夜、誰かが街壁に立っていたのを、見ませんでしたか」
 何の事を尋ねられているのかと、ヒースウッドは一瞬眉を下げた。
「街壁に、でございますか……。それならば兵の誰かかと存じます」
「兵じゃあなくて、それ以外の誰かが、街門の上に」
 ヒースウッドに思い当たるところがない様子を見て取ると、イリヤは忘れて欲しい、と言った。








 伝令使が翼を広げ、タウゼンの前の卓上に降り立つ。
 鷹の姿をした伝令使の嘴から、やや雑音混じりの太い声が流れた。聞きなれた声だ。
『西方第七大隊左軍中将、ワッツです。タウゼン副将軍閣下に申し上げます』
 次に、可能であればまずはタウゼンだけに、と、伝令使は続けた。
 タウゼンはしばし伝令使を見つめ、それからアスタロトと、ベールを確認した。
「――失礼致します」
 伝令使に手を伸ばして腕に乗せると、タウゼンは卓から離れ謁見の間左奥へと足を向けた。立ち並ぶ柱を通り過ぎ、卓に声が届かない位置を選んで足を止める。
 誰もが口を閉ざし、タウゼンと伝令使の姿を見つめている。
 隣に立つ者の息遣いが聞こえるような静寂の中、離れた場所にいるタウゼンが、確かに息を飲んだ気配が伝わる。ベールとスランザールが互いの思考を読むように視線を合わせる。
 ほどなく戻って来たタウゼンの面には、驚きと困惑、そしてそれとは違う何かの感情があった。
「タウゼン。どんな報告だか、この場で言えるか」
 アスタロトがやや不安げに、立ったままのタウゼンを見上げる。タウゼンの腕にはまだ伝令使が止まり、ワッツが返答を待っているのだと判った。
「それが」
 タウゼンが常になく、躊躇って言葉を濁す。その視線がファルシオンへと向かいかけ、素早く引き戻された。
「タウゼン?」
「タウゼン副将軍。貴殿が思案するという事は、ワッツ中将がもたらしたものはそれなりの情報だろう。まず私とスランザール公、そしてアスタロトとで話を聞くのはどうか」
 ベールの提案に、タウゼンはほっとしたように見えた。
 ファルシオンへ一礼を向け、再び、今度は四人が卓を離れる。ファルシオンは不安そうに胸に手を当てている。
 四人の声はやはり届かなかったが、卓の側で話し合いを見守っているファルシオンやアルジマール達へも、その場の張り詰めた様子は伝わった。
 やがて戻ったスランザールがファルシオンの前に立ち、深々と頭を下げた。
「殿下。我々はどのような事でも、殿下へお伝えしなければならぬと、考えております」
 スランザールの表情は見えず、ファルシオンの不安げな瞳がそれを追っている。
「初めに申し上げます。この報告が単純に吉報と捉えて良いものなのか――我々は判断いたしかねております」
 遠回しな口調は、普段のスランザールとは異なるものだ。その時は誰も見ていなかったが、アスタロトはその面を蒼白にし、見開かれた瞳はどこか別の場所を見ているように、何もない空間に向けられていた。
「どのような内容なのだ」
 ファルシオンの問いに、スランザールはまず、全体の状況を眺めることが重要だ、と言った。
 周囲の視線はスランザールに集中し、そのほとんどはスランザールが何故これほど回りくどい物言いをするのかと、戸惑いと疑問を抱くものだ。
 スランザールは一瞬、ファルシオンの斜め後ろに立つレオアリスへと、視線を走らせた。
 息を吐き、髭に覆われた口元を動かす。
「――ボードヴィルで、陛下のお姿を見たという報告があると」
 白々と注ぐ陽光の中で、スランザールの言葉が響いた。







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2017.2.26
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