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王の剣士 七

<第三部>

第二章『冥漠の空』


 背後で扉が閉ざされる音を聞きながら、アスタロトは正面の短い階段を降りた。
 きつく降り注ぐ陽射しも緑陰に和らげられ、辺りは輝く緑の葉のさざめきと途切れる事の無い滝の音に包まれている。
「こちらへ」
 レーヴァレインの柔らかな口調がアスタロトとアルノーを促す。ティルファングはもう歩き出していた。
 アスタロトは足元を見つめた。
 アルノーは自分の前で立ち止まったアスタロトを不思議に思ったようだ。
「アスタロト様?」
「――私、自分の役目を何も、果たせなかった」
「――」
 アスタロトは両手を握り込み、唇を噛み締めた。
「何しに来たんだろう」
 ここに来た目的は、剣士の氏族ルベル・カリマの力を正規軍に、この国に貸してくれるよう依頼する為だったではないか。
 その為に十日もあの激しいアルケサスの気温に耐え、歩いて来たのだ。アスタロトだけではない。アルノーも、兵士達も。
 それを、自分が何ができなかった、あれができなかった、などとただ嘆いて。

『我々は、貴方を断罪する為にはいない』

 カラヴィアスの見抜いた通りだ。
 許されようと思ってしまった。
 アスタロト自身の中では明確な言葉になっていなかったが、誰もアスタロトに与えない罰を、彼等が代わりに与えてくれる事を期待していたのだ。
 初めから――
 ここに来たいと言った時から。
 身勝手な自分が恥ずかしく、いたたまれない。
「私は、正規軍将軍として話をしなくちゃいけなかったのに」
 アスタロトは深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
「そ、そのような――お顔をお上げください!」
 上官に頭を下げられ、アルノーは狼狽えて素早く片膝をついた。
 しかし、すぐに伏せた面を持ち上げる。
「アスタロト様。踏み込んだ事を申し上げるのを、お許しください」
「アルノー、立って、私は」
「アスタロト様は、それで良いのだと思います」
 背の高いアルノーの目線は、膝をついていてもアスタロトの瞳を近く見上げてくる。すっきりとした目鼻立ちは武人というには柔和で、髪と同じ鳶色の瞳と頰にその通りの笑みを浮かべた。
「私は今回、貴方が自ら赴かれるとお聞きした時、一兵士として喜びを感じました。正規軍将軍たる貴方が、兵を想ってくださることが嬉しかったのです」
 アスタロトはアルノーの言葉を息を詰めて聞いた。
 それは違うと言いたい。
「剣士の助力を得れるかどうかは確実ではございませんでした。ザイン殿がいてくださっても、結果は。これは仕方の無い事です。彼等の意志は我々の都合では曲げられないのですから。それに我々の用意していた対価では、カラヴィアス殿は一顧だにしなかったと思います」
 その話にもならなかったのだが、確かに対価として提案しようと思っていた土地や金品などの財貨は彼等にとって、そしてまたこの深い渓谷の里では、何の意味も持たないように思えた。
「でも」
 アルノーはしまったという顔をした。
「ああ、このような事を申し上げたいのではなかった。つい、情緒というか心の機微というか、そういったものを上手く表すのが得意ではなく」
 軍ばかりにいたもので、と照れたように笑って、アルノーは立てた膝の上で両手を組んだ。
「上手くはお伝えできないのですが……、貴方は、あまり、責を負おうとされなくても良いのではありませんか」
「え」
「貴方は――レオアリス殿もそうですが、貴方はまだまだ十八歳とお若い。独り立ちには充分なご年齢です。ですが今背負っておられるものをお一人で背負おうとなされるほどには、充分なご年齢ではございません。あなた方はまだ、周囲に支えられて良いのです」
 アスタロトは唇を閉じ、アルノーを見つめた。
「あなた方だけではなく――たとえ歳を重ねても、人は何かを、自分一人だけで全て成せるほどの強さは持ち得ません」
 アルノーは右手を、敬礼ではなく、掌を開いて胸の上に当てた。
「私の拙い考えではございますが――無理矢理に、ご自分をお立場に押し込めなくとも良いのではありませんか。そもそもそうさせてしまっているのは、我々なのかもしれません。あなた方に押し付けている事を、我々こそが恥じるべきなのです」
「そんな事、ないよ」
 咄嗟に首を振る。
 何度も、首の周りを黒髪が跳ねるように振った。
 三ヶ月前に自分で切った髪は、ようやく肩を過ぎたところだ。
 まだそれしか、過ぎていない。
「……アルノー。ありがとう」
 アルノーが言う事を心から受け止められた訳ではなく、この立場に付随してくる権利がある以上、やはりアスタロトには果たすべき責務があるのだと、そう思う。アルノーもまた、だからこそ自分の前にこうして膝をついてくれている。
 けれどアルノーの言葉は、心を少し軽くしてくれた。
 改めて自分の前に膝を落とすアルノーをまっすぐに見つめた。
「ここまで一緒に来てくれたことにも、感謝してる」
 アルノーは今回、同行を自ら志願してくれたのだ。第一大隊の大将達の中で、今王都を離れられるのは北方軍かアルノーの南方軍のいずれかだったが、アルノーは自分が同行するとそうタウゼンに言ってくれた。
 その事をとても有難いと感じている。
「何を仰います。アスタロト様をお支えする為、そして国を守る為参ったのです。むしろ私こそ何も成せていない事をお詫びせねばなりません」
「そんな事ないよ。まだこれから、各地を回るけど、よろしく頼む」
 アスタロトの声に篭った力を感じ、アルノーはにこりと笑った。
「勿体ない御言葉です。この先、貴方のお姿を目にすれば、兵士達は活気付きましょう」
「――うん」
「そろそろいいかな」
 つっけんどんな声が刺すように投げかけられ、アスタロトは今どんな状況だったか思い出した。自分達を案内してくれようとしていたのだ。
「申し訳ない」
 アルノーが立ち上がり頭を下げる。
 ティルファングは顔を反らせているが、レーヴァレインは微笑んだ。
「大丈夫、彼は待っていただけだから」
「待ってない!」
 ティルファングは青年を睨み、そのままアスタロトへその何倍もの尖った視線を向けた。
「さっさとしろよブス!」
 瞬間、金属が当たったような硬い音と共に、ティルファングは呻きを上げて頭を押さえた。
「痛……レーヴ、そっちの手」
 傍らの青年を見上げる目に涙が滲んでいる。
(あれ)
 硬い音はティルファングの頭をレーヴァレインの左甲が叩いたからだが、アスタロトはティルファングに言われた言葉よりも、青年の左の袖口に目を引き寄せられた。手首の辺りが銀色に鈍く光を弾いたからだ。
(剣――じゃ、ない)
 彼は長袖を着て両手は布の甲当てをはめているが、覗く左の指や手首は右手のそれとは明らかに違った。金属のような。その甲が、硬い音を立てたのだ。
 アスタロトの視線に気付いた青年がにこりと笑う。
 呆気にとられていたアルノーが、はっと我に返り顔を引き締めた。
「失敬な。取り消して頂きたい。公爵のどこをもってそのような暴言をされるのか」
「ブスだからブスっていってるんだ」
「ティル」
 穏やかな響きは崩れず、だがティルファングはそろりと口を閉ざした。
 レーヴァレインは彼に笑みを向けてから、アスタロトへ深く頭を下げた。
「大変失礼致しました。未熟な身内の暴言を改めてお詫びします」
「き、気にしてない、大丈夫。こちらこそ、お待たせしてしまいました」
 アスタロトは慌てて両手を振った。
 全く怒る気にならないのは、先ほど舌を出した子供っぽい姿を見たからかもしれない。
 レーヴァレインはもう一度頭を下げた。
「どうぞ、こちらへ」




 まるで途方も無く巨大な手が谷底から引き抜いたかの如き台地の、その岩壁を取り巻く階段を再び降りていく。
 足を滑らせたら谷底に叩き付けられるまで、何呼吸くらいできるだろう、とアスタロトは恐々と思い巡らせた。
 絶えず轟く水音は、峡谷の中腹から幾筋も白く糸を引くように流れ落ちる滝が鳴らすもので、反響し台地の上にいる時よりも全身に打ち寄せて来る。雪崩れ落ちた水は谷底に速い流れを作っていた。
 もうもうと水煙が上がり、見下ろす渓谷は常に白く霞んでいる。今はまだ朝の十刻にもなっているかどうか、天空からの陽光を受け、霞や滝の上に幾つかの虹が半円の橋を架けていた。
 霞が立ち昇る辺りまでは樹々が生えているのだが、視線を上げるにつれ疎らになり、地上近くでは剥き出しの岩壁が無機質な姿を見せている。
 何度目かの感嘆に息を吐く。
 感嘆させられるのは渓谷の姿だけではない。
 台地を形造る柱の中腹にはところどころ、どのような技と歳月か、岩を掘り出したのだろう露台や庇が張り出し、その奥に岩盤の中にあるとは思えない優美さを持った窓や扉が嵌め込まれていた。
 建築は文化であり、それを造り上げた者達が連綿と重ねて来た精神性を表すものだ。
 岩壁と一体となった質実剛健な建築様式と、柱や壁面に刻まれた彫刻の繊細な美しさとの調和。
 それがこの過酷な砂漠地帯アルケサスと、その中に突如として亀裂を穿つ深淵にも似た渓谷に暮らす彼等に、相応しいものだと思えた。
 階段の途中でも幾つか小さな踊り場が張り出していて、先導していたレーヴァレインがその内の一つで足を止める。
 降りてくるアスタロト達を見上げて待ちながら、左手で壁を示した。扉が一つある。
「この家をお使いください。お連れの方々は先にこちらで休んでいただいています」
 踊り場に立つと、アスタロトはほっとして息を吐いた。
「有難うございます」
 それから、ふと瞳の端に入り込んだものに引き寄せられ、もう一度視線を渓谷の底へ落とした。
 闇のようなものが見えたのだ。
 その理由はすぐに判った。
 渓谷そのものは視界に霞むほど遠く続いているが、南方へ流れて行く渓流はある一点で、更に滝となり、地下の暗渠へと流れ落ちている。
 全てがそこへ飲み込まれていく、そんな感覚がアスタロトを捉えた。
「あそこから、もっと深いんだ」
「何か?」
 右手を持ち上げ、アルノーへと闇の塊のように見える淵を指差す。
「あの先。流れが地下に落ちてる」
 そこまでは太陽の光も届かない。
 黒々と空いた淵は、この美しく厳しい渓谷の世界の中でそこだけ、その奥に異質な存在を内包しているかのように思えた。
 胸の奥が冷えるような、そんな感覚に襲われ、ぶるりと震える。
 その感覚はアーシアの背から降り立ち、初めて台地に足を触れた時のものと――、そしてカラヴィアスとの会談の前に感じていたものと、同じだと思った。
(あそこ――)
「まだ何かあるの?」
 相変わらず棘を感じる声は、ティルファングのものだ。
「な、何でもない」
 首を振り、アスタロトはレーヴァレインに促されて扉の中へ入った。
 ティルファングはちらりとアスタロトが見つめていた谷底の淵へ視線を流し、その唇を引き結んだ。






 アスタロトとアルノーの姿を見て、兵士達は素早く背筋を伸ばした。
「如何でしたか」
 問いかけにアルノーが首を振る。その意味を理解して、落胆が兵士達の間に広がった。
「――今はゆっくりしてください。アルケサスを歩いて来た疲労が深いでしょう」
 レーヴァレインはそう言って室内を見回し、それからもう一人の方は、と聞いた。
 アスタロトは気付いて視線を部屋のあちこちへ投げた。
「アーシアは?」
 アーシアの姿が無い。
 エイクという兵士が隣の部屋への扉を素早く見た。
「その……」




 アーシアは一人寝台に横たわり、瞳を閉じていた。その部屋も光が窓から入り込み穏やかな空間だったが、アスタロトは冷たい水の中に飛び込んだかのように感じた。
「アーシア?! どうしたの?!」
 駆け寄って膝をつき、顔を覗き込む。頬や額は紙のように白かった。
「アーシア!」
「ご安心ください。眠っておられるだけです」
 アスタロトは声の主を振り返った。
 そこにいた事に全く気付いていなかったが、低い寝台の足元の床に座っていたのは、アスタロト達をアルケサスからこの里まで案内した、三十代前半ほどのあの剣士だ。
「その方は具合を悪くされていた為、休息しやすいよう勝手ながら纈草ベリアを処方させていただきました」
「具合? どんな」
 不安に身を返しかけたアスタロトの袖を、引っ張るものがある。
「アスタロト様――」
「アーシア!」
 見下ろしたアーシアが目を開け、アスタロトの袖を指先で掴んでいる。
「大丈夫?!」
「……す、すみません、眠ってしまっていたみたいで……」
 アスタロトは身を起こしたアーシアに飛びつき、ぎゅっと抱きしめた。
「良かった――、あ、ごめん! 寝ていて」
「いえ、もう」
「いいから、寝る!」
 もう一度アーシアを横にならせ、それからアスタロトは改めてアーシアの顔を注意深く見つめた。
「気分は悪くない? ごめん、気が付かなくて」
 砂漠をずっと歩いてきたのだ。いくら人の姿を取っていたとしても、本来飛竜であるアーシアにはアスタロト達以上に影響が出たのかもしれない。
(あっ)
 慌てて意識を探り、アスタロトはほっと息を吐いた。
 アーシアとの『糸』は、特に途切れている様子もなかった。アスタロトからの補給は充分足りている、ようだ。
 ――今は。
 離れていた間は、どうだっただろう。
「――」
「アスタロト様、僕はもう大丈夫です。寝かせていただいたからでしょうか。ご心配をおかけしてすみません」
「――良かった」
 溜まっていた不安を深呼吸と共に――無理矢理――吐き出し、アスタロトは改めて剣士を見た。
「ありがとうございます。ええと」
「カロラスと申します。将軍閣下」
「カロラスさん。アーシアと、みんなの手当をしてくれたんでしょうか。ありがとうございます」
「いえ、大したことはしていません。所蔵している薬草で事足りましたから」
 アーシアへの手当だけではなく、兵士達がまるで負傷の様子が無く回復していた事に、アスタロトは驚いていた。
 カロラスはアスタロトもゆっくり身体を休めるようにと告げ、寝室を出て行った。
「アーシア、本当にもう大丈夫?」
「はい」
「念のために、もう少し寝ててね。私はここにいるから」
 そう言ってからようやく、アスタロトはもう一つの事に気が付いた。
(ベリア――)
 カロラスの言ったベリア――纈草かのこそうは疲労時に処方するようなものではないはずだ。
 確か、不安を落ち着かせる薬草だった。










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2018.9.9
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