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王の剣士 七

<第三部>

第二章『冥漠の空』


 風が足元から大気を巻き上げ、強く吹き付ける。
 アスタロトは驚嘆に瞳を見開き、眼下に現われた光景を見つめた。

 アルケサスに入り九日目――目の前に現われた目的の地、ルベル・カリマの里は、自分が今どこにいるのかすら一瞬判らなくなるような、それほどの光景を広げていた。



 その峡谷は、砂丘の中に突如として深い亀裂を開けていた。
 広大な砂の大地を南北に深々と亀裂を穿ち、やや蛇行気味のその全長は端まで見通せず、霞む谷底はざっと見下ろして五十間ほどもあるだろうか。
 砂丘地帯から峡谷は一旦小高い岩の丘が隆起し、砂の侵食を防いでいた。この丘が無ければこの峡谷は、いかに深くともとうに砂に埋もれていたに違いない。丘の切れ目、縁となっている部分は岩が溶けたように黒く艶やかだ。
 アスタロトは次第に目の前に広がって行くその光景を、アーシアの青い鱗の背から身を乗り出して見つめた。
 更に驚嘆すべきは東西の絶壁とは別に、目で追えるだけでも七つ、谷底から聳り立つ巨大な岩の柱が次第に高さを変えながら、張り出し舞台のような台地を連ねている事だった。
 眼下は遥かなる絶壁、その中に台地は浮かぶようにも見える。
 それぞれの台地は樹木や下草の織り成す緑に覆われ、その緑陰にところどころ石造りの建造物をのぞかせている。下の台地では作物が栽培されているのか、畑の畝の筋が見えた。
 各柱の台地を繋ぐのは、石造りの階段や吊橋だ。
 谷底には川が流れ、左右の切り立つ絶壁の中腹からは白い煙を湧き起こしながら幾筋も滝が轟落とどろおちていた。


「すごい――こんなところがアルケサスにあるなんて」
「ここが砂漠のど真ん中とは思えん……」
 兵士達の誰かが同じく感嘆を洩らす。
 ルベル・カリマ――剣士の氏族が暮らす里。
 アスタロト達が目指していた地。
 里というには余りに雄大なそれは、先ほどまでの砂丘地帯が幻だったとさえ思わせる。峡谷を彩る深い緑と谷底の澄んだ碧い河面は、砂丘の世界に突如として落とされた宝石のようだった。





 砂丘で剣士達に出会った――助けられたのは、昨日の事だ。
 アスタロトやアルノー達が負傷した兵の手当をしている間に、六人いた剣士達は気付けば大蠍を倒した少年と、もう一人、三十代前半ほどの年長の男の二人だけになっていた。
 アスタロトは少年に話しかけようと思ったが、彼は手持ち無沙汰そうな様子をありありと見せながらも、アスタロト達から離れた場所に立ち近寄ろうとしなかった。
 黒髪はレオアリスと同じ。近くでよく見ていないから判らないが、たぶん瞳の色も髪と同じだ。柔らかそうな髪が頬の辺りまでかかっているせいで、その面差しを一層少女のように見せていた。
 そっけない少年の代わりにというか、もう一人残った男が主にザインと言葉を交わし、この先の事を決めていた。
 アスタロトも今はまだ自分が口を挟むべきではないと感じ、ザインが男と話すのをやや離れて見つめていた。



 昨日はそのまま夜を越し、そして明け方、目を覚まして驚いたのは、天幕を出たそこに七頭もの飛竜の姿があった事だ。
 鱗は正規軍の紅玉とも違う、暗い血の色に似た赤。柘榴を思わせる色。
 アスタロトは瞳を瞬かせ、ザインを振り返った。
「飛竜が飛ぶのは避けたいって」
 ザインは口元に少し申し訳なさそうな笑みを掃いた。
「彼等は特別です。里で育った飛竜ですので」
「そうなんだ。じゃあ、ルベル・カリマの里はここからまだ遠いの?」
「飛竜であれば二刻もかかりません」
 あっさり言われたが、アスタロトはぐっと息を飲んでしまった。
 飛竜で二刻ならば、今回のような進み方ではあと十日あっても着かない計算ではないか。
「……見付けてもらって助かったんだね……」
 しみじみそう呟くと、ザインはまだ申し訳なさそうな面持ちのまま、声を立てて笑った。
 ただアスタロトはすごく自分本意な事を言ってしまったのではと、ザインに申し訳なくなった。
 昨日、砂丘に立つあの女性、ザインが長と呼んだ相手と顔を合わせた時、ザインは複雑な表情をしていた。
『今更どんな顔をして現れた?』
 ザインにとって、里に戻る事は単純なものではないのだ。
「――ザインさん」
「行くよ」
 やや高い尖った声に振り向くと、あの少年が踵を返したところだった。飛竜へと歩いて行く背中をじっと見つめる。
「参りましょう」
 アルノーがアスタロトを促し、飛竜へと一足先に歩み寄った。

 アスタロトはアーシアに、そしてザインとアルノー達はそれぞれ飛竜に分かれて乗り、ザインが告げた通り二刻後――
 アスタロト達は旅の目的地である、剣士の氏族の里、この峡谷に辿り着いた。





 まるで物語に語られるような光景を、剣士の操る飛竜が先導し、眼下の緑の台地へと降下していく。
 谷底から聳え立つ岩壁の台地の、一番高い場所にある円形のそれへ、合計八騎の飛竜は次々に降り立った。それだけ飛竜が降りてもなお余裕のある広さだ。それがこの峡谷の広大さの一端を知らしめている。
 見上げると既に二階ほどの高さの壁が、左右にそそり立っていた。眩しいほどに青い空が帯のように見える。
 アスタロトは首を反らしたままそっと瞳を閉じ、深く息を吐いた。
 王都を出てほぼ十日、ようやく辿り着いた。
 怪我人はいるものの、誰一人掛ける事無く辿り着いた事が奇跡のようにも思える。
 けれど大事なのはこれからだ。
 ぐっと唇を引き結んでアーシアの背を滑り降り、絨毯を敷しきつめたような芝の上に靴底が触れた、その時だ。
 ふと、アスタロトは自分の中に痺れに似た感覚が走るのを感じた。
 咄嗟に髪を揺らし辺りを見回したアスタロトへ、アルノーが訝しそうに目を向ける。
「アスタロト様、どうかなさいましたか」
「――」
 アスタロトは足元をじっと凝視してから、瞳を上げた。
 たった今感じた感覚はもう掴めなくなっている。
 アルノーは何も感じていないようだ。
「何でもない」
 そう言ったが、そうだろうか。
 どこかで感じた事のあるような、そんな感覚だったように思う。
 胸騒ぎ。
 不安。
 それとも。
(――)
 無視していいのだろうか。
 ここまで案内をしてくれた男がアスタロト達へと歩いてくる。剣士ならば何か感じ取っていないかと、その表情の変化を見つめたが、彼も特に何かを気にしている様子は無かった。
「負傷されている方もおられる、従者の方々は先に休息できる場所へご案内しましょう。ザインと、到着したばかりで恐縮ですが正規軍将軍閣下、それとそちらの大将殿は、改めて長とお会い頂きます」
 アルノーがどうするかとアスタロトへ視線を向ける。
 アーシアや兵士達と別行動になるのは避けたいとも思ったが、剣士の言う通り負傷者の事もあり、ここまで来た以上彼等の流儀に合わせるべきだろう。何よりすぐに会ってもらえるのは有難い。
 アスタロトはアルノーへ頷きを返した。
「お心遣いに感謝します」
 アルノーが軽く頭を下げる。
「では従者の方々は私と共に。あなた方は彼がご案内します」
 年長の剣士が指し示した先で、あの少年が台地を縁取る石造りの壁を背に立っている。
「――あんた達、こっちだ」
 そう言った顔はアスタロト達へは向いていない。
 アスタロトは「先に休んでいて」とまだ飛竜の姿を解いていないアーシアに声をかけ、ザインとアルノーと共に少年の待つ方へ足を向けた。
 少年はさっさと先へ歩き、壁の一角に通路――階段があるようで、下って行く彼の黒髪はすぐに壁に隠れて見えなくなった。
 速足で階段の手前まで行って、アスタロトは思わず立ち止まった。
「――高い……」
 まさしく断崖絶壁だ。階段は手摺が付いているものの、幅は人一人が通れるくらいと狭く、風に吹きさらしになっている。うっかり足を滑らせたら最後、後はもう真っ逆様に谷底に落ちるしかない。
「先に参ります」
 とアルノーが階段を降りていく。アスタロトも一つ息を呑んで最初の段に足を踏み出した。
 階段の石はやや青みがかった灰色で、滑り止めの役目だろうか、縁には優美な蔦の模様が彫刻されている。台地の岩石を削り出したのだろうその階段は、連なる一つ下の台地へと、巨大な岩の柱に巻き付くように緩やかな螺旋状を作り降っていた。
 吹き下ろす強い風に髪や服の裾を巻き散らされながら、右手を岩壁に添え、階段を降りる。降りるごとに右手を当てた台地の灰色の岩壁と左側に見える峡谷の岸壁とが、自分の両側を挟んで迫ってくるように感じられた。
 途中幾つか扉があったがそこを通り過ぎ、アスタロト達は三階分ほどの高さを降りると、次の台地に降り立った。
 自然と安堵の息が零れる。
 ふと気が付くと、すぐ近くからだろうか、アスタロトのいる場所からは見えなかったが流れる水の音が絶えず聞こえていた。谷底を流れる川の音かとも思ったが、それよりも音は大きく、律動的だ。
(滝――)
 きっとそうだ。飛竜の背から、岸壁を流れ落ちる滝が幾つも白い筋を連ねているのが見えていた。
 一息入れて顔を上げると、もう少年は少し先を歩いていて振り返った様子も無い。
「待って」、と呼び掛けようとしたが、少年の一貫した無関心さは剣士の一族の自分達への答えのようにも思え、声を掛けられないままアスタロトは唇を引き結んだ。
 彼の行く先にある建物に、視線を引き寄せられたせいもある。
 その建物はこの大地から伸びる樹木と一体になったような、木造の平屋だった。
 床は地面から三尺ほど底上げされ、五段ほどの階段が続いている。手摺のついた廊下が何度か折れ曲がりながら建物の外側を回っていた。
 少年が階段を上がって行く。
 案内された――正確には少年の後を追いかけて入った――のは、その階段を上がってすぐの、正面の扉を潜った部屋だった。
(あったかい……)
 アスタロトは再び、ほっと息を吐いた。
 室内は壁に細長い窓が多く配置され、そこから差し込む緑陰の光が淡く木貼りの床を照らしている。
 満ちる空気は柔らかく、暖かかった。
 その温かさが、この峡谷を覆う空気があの砂丘の灼熱と比べようも無いほど涼しかったのだと思い起こさせ、改めて驚きを感じさせた。
 少年は無言のまま部屋の真ん中を指差した。
 そこに座って待てという事らしい。そのまま自分は左の壁際にすとんと腰を下ろす。どうやら彼はこのまま同席するようだ。
 それとも、監視役か。
 アスタロト達に示された部屋の中央には、色鮮やかに染めた藤の蔓で編まれた円形の敷布が敷かれ、その上に同じく蔓で編んだ平べったく低い、円形の座椅子が三つ、置かれている。背もたれの無い見慣れない形だ。
 そして正面の壁の前に、同じ丸椅子がやはり三つ置かれていた。壁の左寄りには背の低い木の扉がある。扉や壁の柱には繊細な彫刻と朱色を基調にした彩色が施されていた。
「アスタロト公、貴方は中央にお座りください」
 ザインはそう言うと、左端の椅子に腰を下ろした。椅子と言っても拳一つ分の高さほどしかなく、胡坐を崩したように座るもののようだ。
 ザインに倣ってアスタロトとアルノーが腰を下ろした時、ちょうど背後で扉が開いた。
「失礼します」
 穏やかな声と共に一人の青年が扉を潜る。
 初めて見る青年だ。歳は二十代前半だろうか、やや癖のある黒髪を頭の後ろで一つに括って背の半ばまで垂らし、アスタロト達へと向けた瞳は黒よりもやや淡い。
 アスタロト達へ会釈すると、正面の席ではなく少年の横に行き、その隣に座った。
 端然と座った青年とは正反対に、少女のような愛らしい面立ちの少年は胡座をかいた両足首を掴み、欠伸を一つして壁に寄りかかった。
「ティル。お客様の前だよ」
 青年が穏やかな口調でそっと言うと、ティルと呼ばれた少年は内心を隠さず唇を尖らせたものの、億劫そうな仕草ながら壁から背中を起こした。
(ティルっていうのか。もう一人の人も剣士、だよね)
 何だかとても優しげで、剣を振るうように見えない。二人は兄弟、だろうか。
 待つ間アスタロトは自然二人へと目が向いていて、気付いた青年はアスタロトへと柔らかく微笑んだが、それを見た少年はあからさまに眉を顰めアスタロトを思い切り睨んだ。
 というより、小さな子供が良くやるように舌を突き出す。
(ええ――)
「不躾な」
 アルノーが低く言い、
「ティル」
 と青年がもう一度諌める。
 アスタロトはぽかんと驚いてしまっただけだ。
 先ほどまでの冷淡な印象が一転した事もあるが、何より、自分よりも
(こ、子供っぽい――)
 十代半ば、十五、六歳に見えるが、剣士なので実際の年齢は違うかとも思っていた。しかしこの様子を見ると見た目通りの歳なのかもしれない。
 そう言えばザインは彼等とはどうなのだろう、と傍らに視線を転じれば、ザインは胡座を組んだ膝に左手を置き、背筋をすっと張った姿勢で正面を見据え、ただ座っている。
 ここに来た目的を思い出し、アスタロトも背筋を伸ばし、正面を向いた。
 静かな部屋に、水音が遠く忍び入る。
 広く天井の高い室内は、砂丘で自分達を苦しめた灼熱の陽射しが嘘のように穏やかだった。
 既に日は高く昇り、朝の七刻を過ぎているだろうか。昨日までは歩いていた時間帯だが、もう数日前の事のようだ。
 ただ――こうして言葉もなくじっと座っていると、やはり初めにこの峡谷に降り立った時の痺れに似た落ち着かない感覚が、じわりと立ち昇る。
 何が原因なのか、これほど穏やかな空間に何故その感覚があるのか、アスタロトの意識はそこに引き寄せられた。
 深い峡谷の宙空に位置する、この里の場所故だろうか。
 それともやはり、剣士の氏族の里にいるという意識からだろうか。
 ただ自分の心が影響しているのだろうか。
 もう一度、確かめるようにザインの横顔を見る。
 やや瞼を伏せた面差し。
(私だけなのかな――気のせい?)
 けれど気になる。
 尋ねてみようと、アスタロトは口を開いた。
「ザ――」
 奥の扉が微かな軋む音と共に開く。
 少し低いその扉を身を屈め、三人の人物が室内に入った。
 中央に座ったのが先ほど砂丘で会った内の一人、ザインが長と呼んだ女性だ。
 身長は五尺七寸ほど、美しく整った面に切れ長の黒い瞳、背の半ばまでの黒髪はこめかみで編み込み、秀でた額を覗かせている。鍛えられたすらりとした身体はそれだけで、彼女が振るう剣の躍動を想像させた。
 アスタロトの知っている人物では、東方第七大隊大将シスファンに似ている。
 ルベル・カリマの長。
(カラヴィアス)
 女性という印象は無かったが、今その姿を前にしていると、彼女が長だと何の違和感も無く頷ける。
 カラヴィアスはアスタロト達の対面の丸椅子に片膝を立て座った。
 彼女の胸元で赤い石の付いた飾りが淡い光を弾く。
(あの石――)
 確か一族の長を示すものだ。
 レオアリスが持っている、あの青い石も――
 ずきん、と胸が痛む。
 カラヴィアスの左右に他の二人、一人は二十代半ばの男、もう一人三十代前半だろう男が同様に腰を下ろす。
 左の壁際に座っていた二人――ティルという少年さえも改まった顔でカラヴィアス達へ頭を下げた。
「さて――」
 カラヴィアスは切れ長の瞳を真っ直ぐに、アスタロト達へと向けた。
 そこに光が躍る。
「遠路はるばるようこそと、まずは申し上げよう」









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