四
八日目――
だんだんと、今が何日目で自分達がもうどのくらい歩いて来たのか、曖昧になってくる。
確か、八日目だ。アルケサスに入ってから。
だから砂丘地帯に入ってからは、五日、いや、六日になったか。
今はもう、必要な事以外は誰もがほとんど口を開かず、どこまでも変わり映えのない風景の中を黙々と、ただひたすらに歩いていた。
風が砂を運び、灼熱が揺らぎ、夜になれば星空が凍る。
風の音。
砂の流れる音。
自らの息遣いと、砂を踏む重い足音。
黙々、黙々と、それらを意識の中に積み重ねる。
何をしにここへ来たのか――、何の為にここを歩いているのか、気が付くと頭の中が曖昧になっている。
時折ちらりと、意識の先に何かの形が見えて来る。
曖昧になる意志の、その先にあるもの。
先頭を行くザインは時折辺りを見回すが、何か新しいものを見つけた様子は見えず、休憩まではほとんど足を止める事も無かった。
ともすれば何もかもを投げ捨てたくなる過酷な状況の中、彼等に歩みを進めさせているのは、三日前のザインの言葉だ。
あとどの位歩くのかと尋ねたアスタロトへ、三日もすれば、と答えた。
『里の者達の方が我々に気付きます』
だが、期待を掛けていたその三日目も、朝をひたすら歩き、真昼の灼熱をやり過ごし、薄暮を歩き――
そして虚しく、暮れた。
期待が報われなかったというのは、それまで張っていた心を考えていた以上に揺さぶるものだ。特にこの辛い行程で、それでも今日にはこの状況から抜け出せるかもしれないと、皆その期待に縋るように堪えて歩いていた。
そもそも歩ける時間は一日の内三分の一も無く、行程は遅々として進まない。そんな中で、辿り着くのは今日ではなかった事。
アスタロトは自分の中で、落胆が疲労に変わっていくのがありありと判った。
昨日までそれでも冗談など出ていた食事の間も、今晩はどこか空気がピリピリと尖っていて、誰の顔にも笑顔がなかった。
食事を終え、休憩用の天幕の中に入った瞬間、アスタロトはその場にへたり込んでしまった。
「アスタロト様!」
アーシアが短く息を飲んで側に膝を落とす。
「だいじょうぶ……ちょっと、疲れただけ」
「横になってください。ご気分はどうですか?」
「気分は悪くないよ、大丈夫」
アスタロトはもう一度そう言ったが、今は立ち上がれる気がしない。横になったらそれこそ、朝になっても起き上がれないのではないかと思った。
(駄目だ、がんばらなきゃ。私が辛いなんて言ってどうするんだ)
まだ、剣士達が気づくかもしれないというだけの話だ。ザインは彼等の里がこの近くにあるとはっきり言った訳ではない。
彼等が気付く範囲に入ると、そう言っただけなのだから、もう少し、もしかしたらあと二、三日は歩くのかもしれない。
(――がんばろう)
がんばらなくては。
兵士達の為に、国の為に、ファルシオンの為に、それから
「こちらを。元気が出ます」
アーシアは自分の背負っていた荷物から、白い布で包んだものを取り出した。手のひらに乗るほどの艶やかで青い小さな甕で、蓋を取ると中には黄金色のとろりとした液体が入っている。レガージュで貰った蜂蜜だ。
休憩の為の天幕から防砂の為の外套、馬鈴薯を粉にしたものや干し肉などの携行食、水、塩などの細々としたものに加え、体力回復の為にとレガージュは持ち運びまで考えた様々なものを用意してくれた。短時間にこれだけの物資を整えるとはさすがレガージュだと、アルノーなども感心しきりだった。
蜂蜜を匙ですくって小皿に垂らすと、アーシアは匙と小皿をアスタロトへ差し出した。
「ありがとう」
アーシアはまだ手を動かし、水に蜂蜜を解いた飲み物を作ってくれた。塩をひとつまみ加えてかき混ぜる。熱に曝された身体に良いのだ。
蜂蜜を口に含むと濃厚な甘みが舌に広がる。蜂蜜と塩を混ぜた飲み物も喉を下るにつれ身体に染み渡り、体力がそこから戻っていくようだ。
「美味しい。アーシアも蜂蜜どうぞ」
「私は。もう何度かいただきましたし」
「何度食べたって蜂蜜は美味しいよ、ほら食べて食べて。食べて一緒に美味しいって言って、ほら」
アーシアが可笑しそうに笑いアスタロトの差し出した匙を受け取――ろうとしたのを躱し、匙の先をアーシアにはい、と示す。
「あーん」
「アスタロト様」
「あーん。ほら、ほら。口開けて」
アスタロトはクスクスと笑い、アーシアの口元に匙を運んだ。
観念したアーシアが蜂蜜を食べて頬を綻ばせると、それこそが自分の喜びとばかり笑みを広げる。
「本当に、すごく美味しいよね、レガージュの蜂蜜。マリ産だって言ってたよね。王都でもなかなか手に入らないよって」
「そうですね」
でも公爵家は別だな、とアーシアは頷きながら思っている。何故なら館の料理人達は皆、アスタロトが喜ぶ顔を見るために、美味しいものを手を尽くして取り寄せ、作りあげるからだ。
アーシアが空になった真鍮の杯を片付けていると、アスタロトがぽつりと呟いた。
「聞かない方が、良かったかな」
アーシアが手を止め、アスタロトに瞳を向ける。
「みんな、がっかりした顔してた」
そもそもレガージュを出る時、この行程が長くなる覚悟をあらかじめしてきている。それこそ最短でも十日はかかると思っていたのだ。
余計な事を聞いたばかりに兵士達に下手に気を持たせてしまった事を、アスタロトは悔やんでいた。
「そんな事――」
真鍮の杯を絹の布に包んでしまい、アーシアがアスタロトの前に戻って座る。青い瞳がアスタロトを見つめてくる。
「大丈夫ですよ。早ければ明日には、剣士の方々に会えます、きっと」
「――うん」
アスタロトは手を伸ばし、にこりと笑うアーシアの手を握った。アーシアの手が握り返す。
「本当は、僕がお連れできればいいんですけど。お役に立てず申し訳ありません」
「それは違うよ。こんな寒かったり暑かったりほんとに負担だし。それに、ザインさんは飛竜を飛ばすのは避けたいって言ったんだ」
飛竜への影響もそうだが、砂丘の上を飛ばすのを避けたいと言った。
氏族を刺激したくないのだと。
でも、とアスタロトは思った。
剣士の氏族がアスタロト達に気付けば、彼等と会うのは早くなるのではないだろうか。
(もしかしたら他に理由があるのかな。飛竜を飛ばしちゃいけない理由――)
あるとしたらそれはどんな理由だろう。
「アスタロト様。もうお休みください。少しでも身体を休めて体力を回復させなくては」
明日も歩くのだと思うと、やや息が詰まった。
「うん」
気付けばアーシアが寝具を整えてくれている。
ありがとうと礼を言い、けれど横になった後もアスタロトは寝付けないまま、天幕の暗がりに瞳を凝らしていた。
しばらくするとアーシアの穏やかな寝息が聞こえ始め、その事は引き結んでいたアスタロトの唇に、微かな笑みを浮かべさせた。
次第に天幕内の空気も冷え込んで行く。アスタロトは身体の向きを変え、手を伸ばしてそっと、アーシアの肩に毛布を掛けなおした。
(アーシアがいてくれて良かった)
そう思い――
ふと、自問が浮かぶ。
良かった?
こんなふうに他人を巻き込んでしまって、本当に良かったんだろうか。アーシアだけではなく、本来なら王都守護の重要な任務を負っているアルノーや兵士達を。
剣士の氏族と聞いた時、会わなければならないと思ったのだ。
会って、話をしなければと強く思った。
西海との戦いに、彼等なら力を貸してくれるのではないかと。
今回アスタロト自身が行きたいというわがままを、視察という形を取って叶えてもらった。各地に派兵されている兵士達を労えるのはアスタロトにとっても嬉しい。
でも、本当は。
(私は――)
本心を、視察という名目の裏に隠さなかっただろうか。
その為にアルノーや兵士達や、アーシアはしなくてもいい苦労をする事になった。
(私は)
ぎゅっと唇を噛み、アスタロトは強く目を瞑った。
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