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王の剣士 七

<第三部>

第二章『冥漠の空』


 夜を流れる風に身体を委ね、指先までその柔らかなせせらぎに浸す。
 そうすると心の中も風と同様、透明に、虚ろに、無に、変わっていくようだ。
 そのまま風の中に、全てが解きほぐされ分解され、消えたとしたなら、どこかでもう一度、出逢う事ができるのだろうか。
 そうなれば、今度は違う結末があるのだろうか。
(どうかしら。私は風に。あの人は――)
 相容れない。


 ルシファーは閉じていた瞳を開け、右手を僅かに持ち上げると、竜の白い骸に触れた。風竜は首を傾けたが、それだけだ。
 ルシファーが身を起こし、宙に腰掛ける。
「何の用?」
 風に言葉を投げ掛ける。
 夜の闇に覆われているものの、深夜を過ぎたこの時間帯にボードヴィル砦城中庭には、明らかに風竜とルシファー以外誰の姿もない。だがルシファーは、暁の色の瞳を真っ直ぐ足元の中庭に落とした。
 西面の壁に作り込まれた噴水が、吐き出す水の流れを止める。
 束の間夜は、しんとした静寂に満ちた。
 水面から、水の塊が二つ、ぼこりと膨らんだ。それはすぐに人の姿を取る。
 歪に突き出た後ろ頭とぬらりとした青白い肌は、西海の住民の特徴だ。
 二人。
 ルシファーは瞳を細めた。
 二人は水の上に膝をついて一度深々と頭を下げ、それから上空を見上げた。
「御方――」
 束の間の静寂の後、ルシファーは喉を反らせて笑った。
「貴方達――」
 喉の奥に笑いを収める。暁の瞳がなお細まった。
「――まだいたの」
 凍る声が空を這う。
 二人は意思の力で、じり、と膝を一つ進めた。
「御方、我々は」
「そう、まだいたのね」
 二人がぐっと唇を噛む。ルシファーは彼等の様子など知らぬげに、口元を綻ばせた。
「再び戦乱は始まったわ。三百年――海皇にしてみれば、よくも我慢した方だと思うわよね。それとも自らの滅びを早めるのを嫌がったのかしら」
 口元に指先を当てる。
「アレウスの王はいつでも、喜んで滅びを迎え入れたでしょうに」
「――」
 二人は互いの目を見交わした。
 ルシファーは宙に立ち上がり、砦城の北側を眺めた。
「それにしたってナジャルもしようのない嫌がらせをするものね。このボードヴィルにわざわざ彼女を当てるなんて。彼女は私が憎くて仕方がない。――どうかしら。殺されてあげるのも一興だと思うのだけど」
「御方、どうか我々の話をお聞きください」
 ルシファーは暁の瞳を、するりと砦城の大屋根に移した。
「今更、あなた達と話すことは何もないわ」
「我々は、今度こそあの方の想いを実現すべく動く所存です」
「あの時何もしなかったあなた達が、今さら?」
 氷の欠片のような響きだ。
「それは――」
 二人は一度顔を伏せた。
「仰る通り、ただ座してあの方を失ったのは事実です。だからこそ――、我々は今度こそ」
「今度こそ、誰一人、命の保証なんて無いでしょう」
「御方」
「私を、そう呼ぶのは、やめて。不快だわ」
「御――」
 ルシファーを中心に風が渦巻く。
 二人の目の前の石畳が風の余波を受け、ごそりと剥けた。
「去りなさい」
「――」
「ほら、ボードヴィルの兵が騒ぎ出した」
 今の音に気付いたのか、篝火が城壁の上で忙しく揺れている。
 束の間、中庭は沈黙に包まれたが、二人はもう一度顔を上げた。
「将軍は、既に御心を決めました。また参ります」
 ルシファーの返事はなく、二人はややあって、波紋だけを残して水面に消えた。
 噴水は再び音を立て水を吐き出し始めた。





「侵入者か?!」
「探せ!」
「ヒースウッド中将に報せを」
 俄かに砦城が騒がしさを増す。
 廊下を行き来する兵士達の声に一度目を向け、ヴィルトールは中庭を望む三階の露台に立ち、二人の姿が消えた中庭の噴水へもう一度瞳を凝らした。
 噴水が止まった音に気付き出てみたが、先程まで噴水にいた二人の姿は、夜目にも地上の住人ではない事は見て取れた。
(西海の住人か)
 ルシファーに会いに来たのか。
 ルシファーと風竜がそこにいるとはいえ、砦城の内部にまで西海の兵が入り込むのは危険な兆候だ。ルシファーはボードヴィルを守る素振りを見せているが、必ずしも西海兵を退けるとは限らない。
 もともとルシファーは、西海軍と結託していたとヴィルトールは見ていた。
(だが今のは、西海の兵士とも違ったようだが)
『今度こそ、あの方の想いを実現すべく動く所存です』
 そう言った言葉は聞こえた。
(あの方とは誰を指すのかな――)
 ルシファーを御方と呼んだ。
 西海にとって、少なくとも彼等にとっては、ルシファーは敬意を向ける対象だという事だ。
 そしてルシファーに対して、あの方と。
『ただ座してあの方を失ったのは事実です』
 一つ、ヴィルトールにも思い当る人物がいる。
 アルジマールがラクサ丘のルシファーの館から持ち帰った絵に描かれていた人物――、その死が大戦のきっかけとなった人物であり、ルシファーの想い人でもあった、西海の皇太子。
 ルシファーの離反は、それが原因ではないかとも考えられていた。
(彼等はルシファーに対してどちらの立場なのか、それが気になるな。ひょっとすると西海の内部に、別の流れがあるかもしれない)
 将軍は、とも言っていた。
 彼等が何かしらの行動をするのならば、それが現状の打開の一手になるようにも思える。
 だが今はそれを確かめる術は無く、ヴィルトールは一度大屋根の上のルシファーと風竜の姿を見上げると、扉から離れ先程降りてきた階段を登った。


 夜の中、大気は心地良く澄みながら、遠くの姿をその帳に隠している。










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2018.8.12
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